報徳仕法って何だろう(その3)金次郎の子ども時代 | はかせの科学日記〜南相馬市に新しい学校を作りたい〜

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身近なものの中にある科学をわかりやすく解説します。科学に関する疑問も受け付けます。

相馬の殿様が治めていた奥州中村藩(現在の福島県相双地方)は、江戸時代中期に発生した天明の飢饉などによって、人々の餓死や流出などが起こり、人口は半分以下になったと言われています。

年貢米の急激な減収や、人口減少によって放棄された田畑が広がるなど、当時の中村藩は存亡の危機に瀕していました。

 

そうした藩存亡の危機に立たされた時、相馬の殿様は、

(1)厳しい倹約令

(2)主に北陸地方からの移民の受け入れに加えて

(3)二宮尊徳の報徳仕法の導入

を行いました。

 

みなさんも全国の小学校などに設置されている二宮金次郎の像を見たことがあると思います。でも、彼が何を成したのか、二宮尊徳の農村復興策である「報徳仕法」とはどのようなものなのかは、あまり知られていません。

 

それを理解するには、まず二宮金次郎(後の尊徳)がどのような子供時代を暮らしたのかを知る必要があります。彼は苦しい子供時代を過ごす中で様々な知恵を身につけます。

 

金次郎は天明の飢饉が起きてから4年後の1787年に小田原藩栢山村というところのとても裕福な家に生まれます。

 

金次郎の家には広い田畑があり、生活に困ることは無かったのではないかと言われています。しかし、金次郎の父親はとてもお人好しで、困っている村人にものやお金を気軽に貸していたそうです。

 

さて、金次郎が4歳になった頃、金次郎が暮らす地域に流れている酒匂川という大きな川が大雨によって、堤防が決壊するという、大きな水害が発生しました。

 

それにより、金次郎の家の田畑を失ってしまいます。もちろん、水害を受けたのは金次郎の家だけではないので、村の人は総出で酒匂川の堤防を直す工事に駆り出されることになります。

 

幼い金次郎も何とか村人の役に立ちたいと思って工事を手伝いますが、まだ子供ですので、重い石を運ぶなどの作業は出来ません。逆に足手まといになるような状況だったそうです。

 

 

なんとか人々の役に立ちたいと考えた金次郎は、作業をしている人たちのために、わらじを編んで届けたそうです。金次郎が作ったわらじは出来がよく、堤防の復旧工事をしていた村人からは大変喜ばれたそうです。

 

さてあるとき、松の苗が売れ残って困っている老人から金次郎は、その松の苗を全て買い取りました。

 

そして、修復工事をしたばかりの酒匂川の堤防にその松の苗を植えたのだそうです。やがて松の根が堤防の土をしっかりと固定し、堤防が強固になると金次郎は考えたのでした。

 

このように、人々が困っていることを見つけ、自分ができることを見つけて貢献すること、廃棄されそうなものを有効に活用することなど、将来の報徳仕法の基礎となる考え方をこの時期に身につけたのでしょうね。

 

さて、金次郎の父親は彼が13歳のときに病気で亡くなります。自分の家の田畑の開墾や酒匂川の堤防工事など、苦労が重なったからかもしれません。

さらに悪いことに、今度は金次郎が15歳の時に母親も病気で亡くなります。

こうなると、金次郎はまだこどもですので、彼とその弟たちは親戚の家に引き取られることになりました。

 

金次郎は伯父の家に、弟たちは母親の実家に引き取られたそうです。

金次郎を引き取った伯父さんは金次郎の父親の優しすぎる性格をあまり快く思っていなかったようで、金次郎に農作業をしっかり身につけさせようとしたそうです。

 

金次郎の父親はお人好しだっただけではなく、大変な勉強家でたくさんの書物を持っていたそうです。金次郎は「これからは農民も勉強しなければならない」と思い、父親と同様に本を読んで勉強をしていました。

 

しかし、伯父さんはまず農作業を身につけることが先決だと、金次郎の勉強を禁止します。

金次郎は伯父さんのいいつけを守り、農作業に集中しますが、自由時間である夜ならばいいだろうと思って、夜に勉強をするようになりました。

 

しかし、それを知った伯父さんは金次郎に対して「本を読むための油は誰のものだと思っているんだ!?」とまたしても夜の勉強を禁止されます。

薪を背負って歩きながら読書をしている金次郎さんの像はこうした理由によって、昼間に仕事をしながらしか勉強できなかったことを示しています。

ところが、現在では「ながらスマホ」につながるという理由で、座って本を読む金次郎像が作られているそうですが、それってどうなのでしょうね。

 

これに困った金次郎は、「そうだ!油を自分の力で手に入れればいいんだ!」と考えて、一握りの菜種を入手して、荒地に蒔きました。

結果として次の年に何と100倍の菜種を収穫することが出来、それを油屋にもっていき、たくさんの油を手に入れることが出来たそうです。

 

金次郎はこのとき、農業の意味や農地を活用することの本質を理解したと考えられています。

 

さらに金次郎はあるとき、田んぼの隅に捨てられている稲の苗をもらって、水害によって生じた荒地にその苗を植えました。

 

その結果、次の年には何と1俵の米を収穫できたのだそうです。

こうした経験を通して、金次郎は報徳仕法の最も基本的な考え方の1つである「積小為大」という言葉を理解することが出来たそうです。

当時、農民には年貢と呼ばれる税金が課されていましたが、荒地の開墾をした場合にはその農地は7年間年貢の徴収は免除されるという、いわゆる税の優遇措置が取られていました。

 

金次郎が得た1俵のお米も、荒地を開墾して作ったものですから、丸々金次郎のものになったわけです。彼はここで、荒地の開墾を続けていけば、収入は全て自分のものになることに気がつきました。

 

金次郎はそうした「荒地の開墾」を村の人々にも教え、栢山村の復興はみるみる進んで行ったのだそうです。

 

こうして自らも財を蓄えることが出来た金次郎は自分の家や土地を買い戻し、17歳の時に伯父さんの家を出て、24歳の時に二宮家を再建することが出来ました。

 

この後、金次郎の活躍は小田原藩家老や小田原藩主にまで届くことになりますが、それは次回に、。

 


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