聖餐


聖餐とはイエス・キリストの最後の晩餐及び、後にその再現として執行してきた典礼的会食をいう。「エウカリスト」(ユーカリスト)の日本語訳。「聖餐」は主に西方の教派で使われる訳語だが、カトリック教会では「聖体祭儀」、「聖体の秘跡」と呼ばれる。日本の聖公会、プロテスタント教会などでは「聖餐式」と呼ばれる。正教会では「聖体礼儀」、「聖体機密」「領聖」と呼ばれる。「主の晩餐」の語はいずれの教派でも使われる。


最後の晩餐


新約聖書には、イエスが引き渡される前に、弟子たちと最後の食事を共にし、自分の記念としてこの食事を行うよう命じた事が記されている。これが「最後の晩餐」である。共観福音書によればイエスはパンを取り「これが私の体である」といい、杯をとり「これが私の血である」といって弟子たちに与えた。『コリントの信徒への手紙一』(11:23-26)にも述べられており、初期からこの儀式が教団内で行われていた事が分かる。キリスト教徒はこの儀式を行う事で、そこにキリストが現存するという信仰を保持してきたが、宗派によって細かいやり方や考え方は異なっている。伝統的なカトリックと正教会のキリスト教徒たちは聖餐をサクラメント(秘跡)として行ってきたが、宗教改革以降のプロテスタント教会はあえてこれを秘跡と呼ばず、礼典という呼称を用いる。これは、「神の救済は人間の行いによるのではなく、信仰のみによる」という考え方から、聖餐の執行そのものを救いの要件とは考えない為である。但し、聖餐に何らかの意味を持たせるか、単に象徴的な儀式と考えるかは、教派によって異なる。多くは、聖餐において神の恵みが人間に伝えられるのではなく、共同体の信仰を示す為の儀式であるとしている。


エウカリスト


語源


聖餐は多くの言語でギリシア語由来の語「エウカリスティア」から変化した語で呼ばれる。日本語の聖餐はこれを意訳した物であるが、日本の一部教派では英語化したエウカリスト、ユーカリストの語で聖餐を呼ぶ物もある。ギリシア語の「エウカリスティア」 は感謝という意味の名詞である。この語は更にεὐ-(“良い”を表す接頭辞)とχαρά「喜び」という2つの語根に分けられる。この言葉の動詞形は「エウカリステオー」で、新約聖書の中で55箇所用例がある。『マタイによる福音書』(以下マタイ)26:27、『マルコによる福音書』(以下マルコ)14:23、『ルカによる福音書』(以下ルカ)22:19及び『コリントの信徒への手紙一』(以下一コリント)11:24ではイエスが自分の体と血であると宣言したパンとワインを「感謝して」弟子たちに与えた事が書かれている。新約聖書において「感謝する」とは「祈る」とほぼ同義に使われ、聖餐とは本来この式の中で聖別されたパンとワインの事を指した。なお現代ギリシア語で "ευχαριστώ"(/efxaristo/)というと「私は感謝する」、つまり「ありがとう」の意で用いられる。


初期キリスト教


ギリシア語の「感謝」を意味する「エウカリスト」という言葉は初期のキリスト教の歴史に既に現れる。例えばアンティオキアのイグナティオスは110年頃のスミルナとフィラデルフィアの共同体にあてた手紙の中で聖餐の儀式を指して「エウカリスト」という言葉を用いている。150年頃、ユスティノスも『弁明』 の中でエウカリストと呼ばれる聖餐の儀式の詳細を描いている。初代教会では「アガペーの食事」と呼ばれる儀式が行われていた。それはパンとワインを分け合って、キリストの最後の食事を思い起こす典礼儀式であった(「ἀγάπη」というのはギリシア語で愛を意味する言葉の1つで、「無私の愛」というニュアンスを含んでいる)。「アガペーの食事」はそれだけでは終わらず、実際に信徒たちが食事を持ち寄って共同で会食を行う事まで含まれていた。ただ、参加者の数が増えていくにつれ、全員に食事が行き届かない事や、一部の人しか食事ができないといった不都合が起こる様になる。パウロは一コリント11:20-22でこの様な事態を批判している。実際の会食を伴う儀式は聖餐が典礼儀式として整備されていく中で徐々に廃れ、8世紀には殆ど行われなくなったと考えられている。現代の教会でも、日曜日或いはクリスマス・イヴの礼拝やミサの後で、信徒や非信徒の出席者たちが集まって会食したり、お茶を飲んだりする事がよく見られる(祝会)。


コムニオン


カトリック教会や正教会、聖公会、プロテスタントの多くの教会では、(交わりを意味する)ラテン語コムニオ(communio)に由来するコムニオン(Communion)という言葉も用いられる。キリスト教におけるコムニオンの語は原義において、聖餐ないし聖餐式を指すが、転じて、神と信徒の交わり、信徒同士の交わりなども意味する。この様に「コミュニオン」という言葉は教派を超えて重要な用語であるが、この言葉が狭義に何を指すかは宗派によって微妙に異なり、カトリック教会と正教会では、聖餐の儀式そのものを指すというより、聖体(パンとワイン)を口にすること(聖体拝領、領聖)や聖別された聖体そのものを「コムニオン」といって区別している。この様な場合は聖餐の式(エウカリスト)に与っても、聖体(コムニオン)を受けないという事も起りうる。他方、聖公会では「ホーリー・コミュニオン」(Holy Communion)というのが聖餐式そのものを指す言葉である。カトリック教会では聖餐を「聖体の秘跡」というが、パンとワインがキリストの体と血に変化し、それを信徒が分け合う事こそがミサの中心である。「ミサ」という言葉は聖公会でも用いられる。これは聖公会がプロテスタントであっても、政治的な理由でローマ教皇庁から離れた為、典礼などは多くの部分をカトリック教会からそのまま引き継いだ事が背景にある。正教会では伝統的に「聖体機密」という用語を用いている。聖体機密を核とする奉神礼(典礼)が聖体礼儀(Divine Liturgy)であり、カトリックのミサに相当する。プロテスタント教会では「主の晩餐」や「パンを裂く式」といった言い方がされる事もある。信徒集団としてのコミュニオンは、共に聖餐式に与る人々の集団を指す。ある教会内での参加資格の度合いに応じ、「クローズド・コミュニオン」(当該教会の会員もしくは当該教会が属する教派の教会員のみ聖餐参加が許される)・「オープン・コミュニオン」(洗礼を受けたクリスチャンなら誰でも聖餐に与れる)・「フルオープン・コミュニオン」(未受洗でも希望者は全員聖餐に与れる。かつては「フリー・コミュニオン」と呼ばれていたが、当事者たちにより「フルオープン」の語が使われるようになってきた)という分類もある。またコミュニオンは教会組織相互の関係を定義する概念でもある。複数の教会が基本的教義を共有し相互に聖餐に与る関係を「フル・コミュニオン」、「インター・コミュニオン」(en:Intercommunion)などという。


聖餐の位置づけ


時代や教派によってその捉え方に違いがあったとしても、キリスト教の中で聖餐は常に礼拝儀式の核となる物であった。伝統的なキリスト教において、聖餐の式は神が計画する人間の罪からの救いの成就となる式であり、イエスの死と復活を思い、そこにイエスの現存を信じる者、更には信仰者と神、信仰者同士の絆を確認する者であった。この様な中心思想は殆どの宗派に共通であるが、その程度や捉え方によって違いが生じている。例えばカトリック教会と正教会では、伝統的に聖体のサクラメントを7つある秘跡・機密の一つとし、「聖変化」という思想を尊重してきた。聖変化とはパンとワインがミサの中で実際にキリストの体と血に変わるという教義である。それに対して宗教改革期以降、プロテスタントの教会ではパンとワインが実際にキリストの体と血に変わる事はなく、単なる象徴的な儀式にすぎないとみなす様になった。1980年代以降、世界教会協議会(World Council of Churches)が行われる中で、洗礼、聖餐、及び教会における職階についての相互理解を深めようという動きが活発化し、カトリック教会を初めとする多くの教派が参加している。


西方教会


カトリック教会


カトリック教会は古代から現代に至るまで、ミサを毎日、絶える事なく続けてきた。カトリック教会では聖体の秘跡、即ちパンとワインがイエスの体と血に変わる事(聖体変化)とそれを信徒が分け合う事(聖体拝領)こそがミサの中心である。パンは小さな共同体(教会)の為に発酵させない穀物と水だけのパンを薄く丸く焼き、十字の印をつけた物を使う事もあるが、多くは、その製造を専門にする修道院で穀物と水だけで日持ち良く保存しやすい、ひとりひとり用の大きさのホスチア、オブラートと呼ばれる薄焼きで味のない煎餅の様な物が使われる。グルテンアレルギーがある場合には事前に申し込むとグルテンを含まないホスチアやパンを聖体として頂ける。カトリック教会では「御体」とよばれるホスチアだけを信徒が拝領するのが一般的である。「御血」とも呼ばれるワインの拝領も行われる事があるが、それはカリスと呼ばれる杯から飲むか、聖体をワインに浸して食べるか(インティンクション)のどちらかの形で行われる。また病人などに聖体を授ける場合、ミサの中で聖変化した聖体(通常はパンのみ)をチボリウムとよばれる保管用の容器に移し、ミサ以外の時間に司祭が運んで授けるという事も行われる。


聖公会


聖公会では、源流である英国国教会での聖餐式がその元となっており、現行の『日本聖公会祈祷書』(1990、日本聖公会管区事務所)では、「目に見えない霊の恵みの、目に見える印また保証であり、その恵みを受ける方法として」、キリストが自ら定めた聖奠として、洗礼と並んで聖餐が示されており、キリストの苦しみと死、蘇りを記念する為に主の再臨の時まで行われるものとしている。多くの教会では復活日や毎主日に祈祷書に沿って聖餐式が執り行われ、司祭または主教によって聖別された聖餐を信徒が受ける。陪餐はキリストとの一致、全公会の一致の印である事から、聖餐式中には全公会と世界の為に祈る代祷や、式に加わる者同士での平和の挨拶、共同懺悔などが含まれている。また、司祭は、明らかに大罪を犯していたり、言行によって隣人を害したりしている者に対して罪を悔い改め、償う事を明らかにしない限り陪餐してはならない事を告げなくてはならないとされている。聖餐式で使用される祭具は多くがカトリックの道具や言葉を元にしているが、読み方は英語読みの事が多い。聖餐はホーストまたはウェハー(host,wefer)と呼ばれるパンと、葡萄酒による二種陪餐の形式をとる。信徒に与えられるウェハーは500円玉程度の大きさの物が使われるが、聖別時に司式者が捧げ持つ際に使用する大型のものを特にプリーストホースト(priest host)と呼ぶ事がある。日本では、ナザレ修女会などの修道院で製造された物が多く使われる。カトリック教会で使われている物に比べると薄く、小さい事が多い。パンを入れる盃状の器をシボリウム(ciborium)と言い、皿状の物はパテン(paten)と呼ぶ。シボリウムは聖堂に安置される聖櫃に保管する為の物だが、分餐時に使用される事もある。また、葡萄酒を入れる器はチャリス(chalice)と呼び、ワインは赤ワインでも白ワインでも良い。聖別前のホーストを入れる為の器をブレッドボックス(bread box)、葡萄酒と水を入れる器をクルエット(cruet,2つある場合は複数形でクルエッツと言う事が多い)と呼び、これらに入れた物が、聖餐式中に信徒から聖卓に奉献され、聖職により聖別される。


福音主義教会(ルター派)


福音主義ルター派教会では聖餐式の儀式の形式はカトリック教会のそれとも共通点が多く、薄いウェハース(正式にはホスチアと呼ばれる。或いは本物のパンが用いられる事もある)とワイン(もしくはぶどうジュース)を用いて、イエスの体であり血であるとの信仰の内に分け合う。ワイン(葡萄ジュース)は「カリス」と呼ばれる共通の杯から個人のカップに移される事もある。


東方教会


正教会


正教会では、聖体機密を行なう奉神礼は聖体礼儀と呼ばれる。聖体礼儀は祈りや聖書朗読の部分と領聖の部分からなる。領聖時に用いられる典礼文はギリシア語で「アナフォラ」と呼ばれる。ビザンチン典礼の正教会における聖体礼儀では聖金口イオアンの物とされる祝文(祈祷文)と聖大ワシリイの物とされる祝文が用いられている。ごく一部の教会では主の兄弟イヤコフに帰せられる祝文が特別の機会に用いられる。また大斎期の平日には、先の聖体礼儀で聖変化した聖体を領聖する先備聖体礼儀も行われる。聖体礼儀の最後に行われる十字架接吻の後には、「アンティドル」と呼ばれる祝福された聖餅が振舞われる。アンティドルは古代には子羊等を型取り、聖体礼儀に与る事のできなかった信者の為に持ち帰ったといわれる。教会によってはこの時ともに葡萄酒を振る舞う事がある(多く聖餅を浸して供する)。


聖餐論


聖餐論とは、キリスト教において、聖餐(聖体)のサクラメント(秘跡・機密・礼典・聖奠)に関する教義上の捉え方に対する神学的な議論の事である。ここでは、キリスト教諸教派における聖餐論の相違について述べる。


初代教会


ディダケー第9章には以下の記述がある。


1聖餐については、次の様に感謝しなさい。


2最初に杯について。


「私たちの父よ。貴方が貴方の僕イエスを通して私たちに明らかにされた、貴方の僕ダビデの聖なる葡萄の木について、貴方に感謝します。貴方に栄光が永遠に(ありますように)」。


3パンについて。


「私たちの父よ。貴方が貴方の僕イエスを通して私たちに明らかにされた生命と知識について、貴方に感謝します。貴方に栄光が永遠に(ありますように)」。


4このパンが山々の上にまき散らされていたのが集められて1つとなる様に、貴方の教会が地の果てから貴方の御国へと集められます様に。栄光と力とはイエス・キリストによって永遠に貴方の物だからです」。


5主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰も貴方がたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、「聖なる物を犬に与えるな」と述べておられるからである(マタイ7・6)。— 「十二使徒の教訓」九 荒井献 訳 『使徒教父文書』 34ページ


カトリック教会と正教会との相違


カトリック教会と正教会との聖餐(聖体秘跡)論の捉え方はほぼ同じである。例えば、聖体の秘跡において、パンと葡萄酒の実体がキリストの肉と血の実体に変化し、ゴルゴダの犠牲が再現されるという概念は、古代教父時代から一致している。特に聖体秘跡の生贄の概念は、第1ニカイア公会議においても既に認められていた。然しながら、カトリック教会のラテン的な文化的背景と正教会のヘレニズム的な文化的背景との相違が若干みられる。例えば、カトリック教会では、パンまたは葡萄酒のどちらかの形態(外観)のみ(単形態)の拝領で、聖体秘跡として有効であるのに対し、正教会はパンの使用とパンと葡萄酒の両方の(両形態)拝領でなければ機密(秘跡)として有効にはならない。また使用するパンについて、カトリック教会では無発酵パン(酵母なし)を使用を義務とし、正教会では発酵パンの使用を義務としている。但し、カトリック教会では現教会法において無発酵パンの使用を義務にしているが、教理または秘跡として義務としている訳ではない。カトリック教会でカノンとしている東西合同のフィレンツェ公会議では、東方または西方教会それぞれの教会法に応じて発酵パンおよび無発酵パンの使用を認める決議がされている。カトリックでは、聖体拝領のパンは「不死の薬」であり、「教会は、洗礼を受けていない人に聖体拝領をさせる事はできないし、間違った事を教える人や、道徳に反する生活を送る人に聖体拝領を与える事もできない」とし、「カトリック信者が聖体拝領を受ける事ができるのは、有効に叙階された奉仕者からだけである」と規定している。正教会においては、聖体機密と呼び、機密に与って神の恩寵を受けるのは正教会の洗礼を受けた正教徒に許されるが、機密を執行する事が出来るのは主教・司祭に限られる。


正教会の聖餐理解


正教会においてもカトリック教会と同様に、聖体礼儀の中で成聖されたパンと葡萄酒の中に、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの中世以降のギリシャ語・教会スラヴ語読み)が実存すると理解する。然しながら、カトリック神学の様な聖変化によってパンと葡萄酒が聖体・聖血に『完全に』実体変化をしたと理解するのではなく、真のパンと葡萄酒であって、なおかつ真の聖体・尊血(聖血)であると考える。


最も、正教会の聖餐論を東西教会の分裂以降に発達したスコラ神学によるカトリック教会の聖餐論(スコラ神学の集大成者であるアキノの聖フォマ<トマス・アクィナス>による解釈)と比較したり、また更に後の時代になってカトリック教会への抗議(プロテスト)から始まったプロテスタントの神学を用いて解釈しようとしたりする事自体にそもそもの無理がある。カトリックやプロテスタント諸派の(それぞれの)聖餐論的理解に対して正教会の見解を問われれば聖変化を認めるという立場をとるが、それは『機密制定の晩餐』の席上でイイスス・ハリストスがパンと葡萄酒を手にとって、それぞれ自分自身の体であり血であると宣言したから、パンであってハリストスの体であり、葡萄酒であってハリストスの血なのである。また、どの時点で聖変化が起こるのかについても、その問い自体がスコラ神学的発想による物なので、正教会にとってはその様な問いかけ自体がナンセンスとも言えるのである。


強いていえば、主日の朝、信者が家を出る時、その日の聖体礼儀に供される聖パンを携えた時から始まるとも考え得るし、聖パンに供される為にパン生地が練られる時からとも、或いは小麦などパンのそれぞれの原料がこの世に存在し始めた時からとも言える。そして、その成聖の過程は聖体礼儀の中において、捧げられたパンと葡萄酒を司祭が記憶(アナムネーシス)し、「汝の聖神゜(聖霊)をもって、これを変化せよ。」という聖神゜の降臨を願う祈り(エピクレーシス)を唱える事により聖神゜が降臨して完成されると考えられる(因みにカトリック教会の神学では、エピクレーシスで聖霊が降臨して聖変化が始まり、聖体を制定する典礼文(制定句)が唱えられ、アナムネーシスされて完成すると考える)。然しながら、『使徒の教会』の継承を自認する正教会の信者にとって信仰上の大切な事は、イエスの言葉と教会の伝統に従ってイエスの制定された領聖(聖体拝領)等の各機密に与る事であり、神学的解釈や理解よりも伝統の中に息づき生き続ける命を受け、且つ継承していく事に正教信仰の真髄があるとも言える。


カトリック教会とプロテスタント教会との相違


カトリック教会と正教会は、パンと葡萄酒の実体がキリストの肉と血の実体に変化(聖変化)する事を認めている。特にカトリック教会はトリエント公会議でパンと葡萄酒の外観(形態)の元に、キリストの人性である肉と血と霊魂、及び神性が現存すると説明した。これに対しルター派(シュマルカルデン条項)は共在説、改革派教会においてフルドリッヒ・ツヴィングリは象徴説、ジャン・カルヴァンは臨在説(『キリスト教綱要』、ウェストミンスター教会会議)を唱え、カトリックの実体変化説に反対した。また、ゴルゴタの犠牲の再現、つまり聖餐の生贄に関する概念も、プロテスタント諸教派から否定されている。


プロテスタント教会の諸教派における相違


ルター派は共在説、改革派の内ツヴィングリ派は象徴説、カルヴァン派は臨在説(聖餐のパンとぶどう酒自体は、パンそのもの、葡萄酒そのものであり、何物にも変わる事はないが、キリストの霊的な臨在がパンと葡萄酒に伴う物とする)をそれぞれ支持し、互いに教理論争が続いた。但し、これらの比較的教条主義的な教派は聖餐を礼典として認めており、福音同盟の会議において地上における礼典の永続性が確認されたが、救世軍の様に礼典としての意味をも認めない教派も存在する。但し、多くのプロテスタントにおいては、信仰を同じくする者・即ちあらゆる正統的キリスト教の教派の陪餐を認めている。更に、教会員ではない未洗礼者の陪餐を認める教派も存在する(フリー聖餐)。


ルターの聖餐理解


マルティン・ルターにとっては、「聖晩餐において、キリストの体と血がパンと葡萄酒の中に,それと共に,これの元にある」事が重大関心事であり、「従って、十戒と主の祈りと信条とが、その本質と価値を保たれているならば、例え貴方がそれらをその通りに守らず、祈らず、信じないとしても、しかもこれは尊いサクラメントである事を損なわれず。その為、我々がそれを相応しく執行しなかったとしても、そこから何1つ取り去られず、差し引かれないのである」事を強調した為、「キリストの御体を霊も信仰もなしで、身体的に食する事は,毒となり死となるのである」としつつも、「祭壇のサクラメントについて、我々はかく信じる。聖晩餐のパンと葡萄酒は、キリストの真の体また血であり、単に敬虔な者にだけでなく、悪しきキリスト者にも与えられ,受け取られる、と。」とされた。


カルヴァンの聖餐理解


ジャン・カルヴァンは、「聖晩餐においては、印と事柄とは,はっきり区別される。もしそうしないならば,キリストの天上の栄光は侵され,物的要素の偶像化が起こるのである」とした。「然し、その味わう方法は,肉体の口を通してではなく,御霊を通じ,信仰を通して起こる」「もし,これと違う事が説かれ,印と事柄のある種の相互作用の様な物が主張されるならば,不敬虔な者も聖晩餐においてキリストの体を受ける事になる.それは然し不可能である.なぜなら,キリストのいまし給う所,常に命を与える彼の御霊がいますからである」と述べた。「キリストの体と血は、選ばれた神の信仰者に対してと同じく、相応しくない者にも与えられるのである」が、「相応しくない者の頑なさは,神の賜物がその人に来る事が出来ない様にする」と唱えた(ウェストミンスター信仰告白では「彼らは主の体と血に対し罪を犯し,己れ自身の呪いを招く」とされている)。カルヴァンは「相応しさ」について、「なぜなら、我々が己れ自身から己れの『相応しさ』を求めねばならぬという事になるならば、我々はもう駄目だからである。そこで、我々が神にもたらす事ができる唯一の、そして最善の『相応しさ』とはこれである。即ち、彼の憐れみによって『相応しい』者とされんが為に、我々自身の無価値さと、更に(言うならば)『相応しくなさ』を、彼の前に差し出す事、我々が彼において慰められんが為に、己れ自身においては絶望する事、我々が彼によって立ちあがらせんが為に、己れ自身としてへりくだる事がそれである」と述べている。従って、改革派は「回心を求める罪人を遠ざけたのではなく、回心もせず、感謝の欠片もなく、信仰すら真面目に求めない傲慢で不遜な者を遠ざけた」。


聖公会の聖餐理解


16世紀にローマ・カトリック教会と袂を分かって成立したイングランド国教会(後の聖公会)においては、過去も現在も、聖餐論に関して個々の聖職者や信徒によって様々な理解がなされているが、概して、カトリックの全実体変化説も、一部プロテスタントの象徴説からも距離を置く。イングランド国教会がその基本的立場を表明した物に、1563年に制定された『イングランド国教会の39箇条』(聖公会大綱)がある。そして、その第28条では主の晩餐についてを規定しているが、「パンと葡萄酒の実体変化は聖書によって証明される事が出来ない。」として実体変化説を懐疑し、「信仰を持って正しく拝領をする者には、パンはキリストの体を、葡萄酒はキリストの血を与る事になる。」としている。但し、この大綱は聖公会所属の全教会に求められる共通の信仰告白ではない。これを採用するかしないかは各聖公会管区の自主性に委ねられている(日本聖公会は1887年の組織成立時にこれを「特定の時代の特定の教会が特定の問題に対処する為に作成した文書」と判断し、採用を見送っている)。アングリカン・コミュニオン(聖公会)の一致は「シカゴ-ランベス四綱領」を受け入れカンタベリー大主教の監督するカンタベリー管区と完全相互陪餐の関係にある事で承認されるが、シカゴ-ランベス四綱領では聖餐についてを洗礼と共にキリストが制定したサクラメント(聖奠)として規定しているのみで、パンと葡萄酒に関する理解には共通の告白が求められていない。とはいえ、やはり聖公会大綱で規定されている理解が聖公会神学における聖餐論の基本となっている。日本聖公会の聖餐に関する見解も聖公会大綱の規定とほぼ同じで、パンと葡萄酒の形質やキリストの実存については触れず、「聖餐によって与えられる霊の恵みは、キリストの体と血、信徒は信仰をもってこれに与る」としている。これを理解するにあたって、聖公会所属の教会には伝統的に「ハイ・チャーチ」(高教会派)と呼ばれるカトリックの信仰に近い神学・典礼様式を持つ教会と、「ロウ・チャーチ」(低教会派)と呼ばれるよりプロテスタントに近い立場をとる教会、そしてその中道的立場の「ブロード・チャーチ」(広教会派)と呼ばれる教会があり、各々の伝統と聖職者・信徒自身の神学的傾向によって聖餐理解もカトリックに近い物から他のプロテスタント教派に近い立場まで幅がある事を念頭に置く必要がある。即ち、パンと葡萄酒の中にキリストの体と血が実存するとする立場から、パンと葡萄酒はそのままでも陪餐する時にキリストが現臨在するとする霊的臨在説を支持する立場まで幅広く存在する。カトリック教会と袂を分かつにあたって、イングランド国教会は自らの信仰の基を聖書に求めたのであるが、聖餐に繋がると考えられる聖書の箇所として、いわゆる最後の晩餐の席上ではイエス・キリストがパンと葡萄酒を使徒たちに示しながら、自身の体と血であると宣言し、またヨハネによる福音書6章では「私の肉は真実の食物、私の血は真実の飲み物」と語っている。従って聖書から導き出し得る結論は「パンと葡萄酒はキリストの体である」という事で、それ以上でもそれ以下でもないとする。また正当に按手を受けた司祭が祈祷書に則って行う聖餐式にて聖別されたパンと葡萄酒の形質や実存に何らかの変化があるとすれば、それは司式司祭の信仰や神学によった物になるとはせず、陪餐する各個人の信仰による理解・解釈に委ねるという立場を取る。ただ、どの様に解釈・理解するのであれ聖餐はキリストの体と血に与る物であるとし、それは祈祷書の聖餐式の式文にある「どうかみ言葉と聖霊により、主の賜物であるこのパンと葡萄酒を祝し、聖として、私たちの為にみ子の尊い体と血にして下さい」という聖別の一文からも分る。また、「イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み」や「貴方の為に与えられた主イエス・キリストの体」、「貴方の為に流された主イエス・キリストの血」などといった語句が用いられている。従って未受洗者の陪餐は認めず、パンと葡萄酒を単なる象徴や記号に過ぎないとする象徴説とは相容れない。この様に信仰の核心の1つである聖餐論にある程度の幅を持たせた「緩やかさ」を、神学的な曖昧さとして聖公会神学の弱点とみるか、聖書の記述に則った柔軟さとして肯定的に捉えるかは意見の分かれる所である。また、聖餐の生贄的性質についてもプロテスタント諸派と異なって必ずしも否定せず、聖餐式文には「み子がただ一たび献げられた十字架の犠牲を記念し」、「どうかこの感謝・賛美の生贄を天の祭壇に至らせ」といった語句がある。なお、聖公会では従来、原則的に洗礼を受けた後、堅信を受けて初めて陪餐する事が出来る事になっていた。他教派の信者で、自教会で陪餐資格がある者が聖公会の聖餐式に参祷した時は、主にあっての兄弟姉妹として聖餐に招かれるが、他教派から聖公会に転会する場合、聖公会としての聖餐理解を学び堅信を受けるまで一時的に陪餐停止になる事があった。近年ではそれが見直されつつあり、日本聖公会では2017年以降、堅信前の陪餐が可能となった。それに伴い、ローマ・カトリック教会の「初聖体」と同様に、幼児洗礼を受けた者は概ね学齢期になると、聖餐理解を学んで初陪餐を受ける習慣が始まった。


出典元・Wikipedia




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