ポトマックの桜 先人たちの努力に感謝(24年9月24日 産経新聞オンライン無料版)

話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<22>

 

(聞き手 内藤泰朗)

 

記事の概要

(3)「国立公園内に日本庭園 建築物建設としてではなく庭園整備として許可」

(4)「桜は尾崎行雄・東京市長が寄贈、出資者は高峰譲吉博士は誤解」

(5)「高峰博士は寄贈を発案したが、予算が足りていたので博士の資金提供は不発だった」

(6)「ソメイヨシノの寿命は数十年だが国立公園の丁寧な管理で当初の桜が多数が残っている」

(7)「個人でなく東京市からの寄贈実現や、害虫禍で焼却のあと米国側説得し再度輸送した外交官」

 

 

写真 「ポトマックの桜」の100周年で大使館が作った植樹貢献者を記念するカード

 

◆《駐米大使在任中、「ポトマックの桜」の100周年があった》

 

(1)

外国から米国に贈られたシンボルが2つある。

1つはニューヨークにあるフランスからの自由の女神。

もう1つはワシントン・ポトマック河畔の桜だ。

 

(2)

桜は街中を明るくし、日本をアピールできる。植樹100周年のために私をヘッドとした委員会をつくり、日本商工会議所、桜関係の複数の団体、ワシントン日米協会、大使館広報班で会議を重ねた。

日本商工会議所幹部は東京に行って経団連と話し寄付を集めてくれた。

 

(3)「国立公園内に日本庭園 建築物建設としてではなく庭園整備として許可」

いくつか記念になることを考えた。

各総領事館を通じて各州に桜の苗木を配った。

私はポトマック河畔で毎年桜祭りのときに火入れをする300年余りを経た旧寛永寺石灯籠の周囲に石を配置し、小さな日本庭園を造ることを考えた。

ところが国立公園内に新たな建築物を造るにはワシントン市だけでなく連邦議会の承認が必要だ。人種差別撤廃に取り組んだキング牧師の像の承認を得るのには数年を要した。とても間に合わない。

思案していたら、友人の米国人女性建築家が、建造すると言わず公園整備の一環と説明したらどうかと知恵を出してくれた。

なるほどと感心した。

栗栖宝一さんという米国在住の造園家に委嘱した。ワシントンの公園管理委員会の会議に栗栖さんと一緒に行き、これは建築物ではなく庭園整備であると説明して理解を得た。私の離任後に完成した。

 

◆《寄贈者は誰か》

 

(4)「桜は尾崎行雄・東京市長が寄贈、出資者は高峰譲吉博士」

驚いたのは、「桜は尾崎行雄・東京市長の寄贈というのは名目で、実際に資金を出したのは(アドレナリンの結晶化成功者の)高峰譲吉博士だ」ということがワシントンでの通説になっていたことだ。

歴史博物館の展示もそう説明されていたし、ワシントン・ポストや書籍でもそう書かれていた。日本でも近年、そういう映画が作られた。

 

(5)「高峰博士は寄贈を発案したが、予算が足りていたので博士の資金提供は不発だった」

そこで東京市、外務省、国務省の文書を私自身が読んで調べたら、東京市議会で桜の米国寄贈に関する支出の議決が行われ、海上輸送は日本郵船、陸上輸送は米国政府が負担したことが確認できた。

また桜関係者のデイビッド・フェアチャイルド博士が尾崎元市長に桜植樹への高峰博士の関与を問い合わせ、関係はないはずだと返信した書簡も出てきた。

高峰博士は当初自分が寄贈すると言い出し、後にも政府が資金を出せないならニューヨークの日本俱楽部で出そうと提案したことがあった。

高峰博士は1922年に亡くなった。そのとき高峰博士の友人で、桜植樹を20年間も米政府に働きかけたうえ、タフト大統領夫人との親交から植樹を実現させたエリザ・シドモア女史(紀行作家)が、勘違いからか友情からか、実際は高峰博士が資金拠出したのだと雑誌に投稿した。

どうやらそれの孫引きが重ねられたらしい。

100周年を機に認識を是正しようと考え、ワシントン・ポストに実際の経緯を寄稿し、知人だった歴史博物館の館長にも修正を要望する書簡を送った。

 

◆《桜は日米関係の悪化を憂えて贈られたが、その使命を果たしたか》

 

(6)「ソメイヨシノの寿命は数十年だが国立公園の丁寧な管理で当初の桜が多数が残っている」

第二次大戦のときも真珠湾攻撃の直後、夜半に4本の木を切った者がいただけで桜は維持された。そして戦後すぐの1947年には桜祭りが行われた。

また、まだ連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった50年には尾崎元市長が桜の寄贈者として米議会両院で演説した。

ジョンソン大統領時代には大規模な接ぎ木が行われた。

ソメイヨシノの寿命は数十年というが、米国国立公園当局の丁寧な管理の下、当初植えられたものも多数残っているという。桜は立派に役目を果たしている。

 

(7)「個人でなく東京市からの寄贈実現や、害虫禍で焼却のあと米国側説得し再度輸送した外交官」

外交官の先輩たちも陰で貢献した。

個人でなく公の贈り物とすべし、と本省に意見具申して東京市からの寄贈の実現に結びつけたのは水野幸吉ニューヨーク総領事だった。

初回送った桜が害虫つきのため焼却になった後、国務省の意向にもかかわらず再度試みるべしと主張したのは内田康哉駐米大使だった。

桜の下を歩きながら感謝を新たにした。(聞き手 内藤泰朗)