あかりは腰掛けていた防波堤から小さなお尻をストンと滑らせ下に降りた。
「あっち行こう。もう食べなくていいや」
「そか。うん」
錬太郎は、まだ口の中に肉まんが少し残ったままモゴモゴ返事をした。
あかりはトコトコと海辺に向かって歩き始めた。
それぞれの持ち場で見守っていた太陽は、ゆっくりと西へと移動し始めていた。
「錬太郎」
「何?」
「あのさ、私の手、さっき見たよね」
「うん。傷だらけだったし掌の真ん中がプヨプヨに黒く膨らんでた」
「変だと思った?」
「何か手を傷つけるようなことしていたの?何で黒くなってるの?」
「仕方ないんだ」
「どういうこと?」
「うーん。。。」
あかりはしゃがみ込み、波に指先を浸しながら言った。
「私ね、本当は捨て猫だったんだ」
その言葉を聞いた錬太郎は少し驚いたように水平線に向けていた目をあかりの後姿に向けた。
「捨て猫?」
「うん。誰も私を愛してくれないし、愛しても守ってもくれなかった。捨て猫だったんだ」
「じゃ、今の君は?」
「あの二人が人間にしてくれたんだ」
「あの二人?って、あの赤鼻の神様とコイデカ?」
「そう。まだ他にも私と同じような猫が人間になってるけどね」
「えーーーー?本当なの?」
「私の掌が黒いのは肉球が少し残ってるせいなんだ。それに上手に指を使えないからしょっちゅう指とか掌を傷付けちゃうし人間になったからっていいことなんかないよ」
「じゃ、もとに戻れるの?いや、戻りたいの?」
あかりは答えないまま、また浜辺を歩き始めた。
錬太郎はあかりの後を寄り添うように歩いた。
浜辺に人はまばらで、遠くに老人が杖を着き歩いているのが見えた。後ろにはカメラを持ち海辺の風景写真でも撮っているのだろうか、垢抜けた青年が海風に髪をなびかせながら水平線を見つめ佇んでいた。
「猫に戻ったって誰も守っちゃくれないよ」
「そっかぁ」
「錬太郎は"恋"がしたいんだよね」
「うん」
「私、これでも猫の世界じゃちっとは美人で通っていたんだ。だから毎年春になると雄が沢山言い寄ってきて大変だったんだよ。モテたんだ」
「へー」
「何だよ、その"へーっ"て」
「い、いや。モテたと思うよ」
「だろう!でもさぁ、"恋"してもさずーっと守っちゃくれないんだ。みんな自分のことで精いっぱいでさ」
「結構厳しい世界なんだな」
「そりゃそうさぁ。飼い猫とは訳が違うんだ。だから私はずーっと守ってくれる愛する人が欲しくて神様とコイデカに頼んだんだ」
「あの二人の神様って"猫"か何かなの?」
「うんにゃ、違う。形なんてないんだ。なんにでもなるし、どこにでもいるし、お気楽なもんだよ。私が猫の時、たまたま海辺で鳶にさらわれて食べられそうになったんだ。そこで二人の神様が助けてくれてさぁ。きっと私が可愛いから助けてくれたんだと思う」
「う、うん。そうだと思う。その通りだよ。うん」
「なんか、今の言い方引っかかるけど、まぁ、いっかぁ。で、今日は鯛焼きでも食べようかと思って店の前に立ってたら錬太郎が突然目の前に現れたんだ。こいつも猫だったのかなって思ったよ。そしたら本当に人間だったんだね」
「僕は人間になった猫と一緒に散歩しているんだね?」
「さっきからそう言ってるじゃん。何か不服なの?」
「いいえ、ありません。でこの世界には昔猫だった人間が他にも沢山いるんだね。ここはリアルな人間世界なの?それとも猫の世界なの?何処なの?」
「錬太郎さぁー。なんでそんなに居場所を気にするのかな?どこだっていいじゃん。そんなことより"恋"したいのか?本当に?」
「あぁ、したい」
「錬太郎」
「なに?」
「"なに?"じゃなくて"はい"って言って」
「はい」
「これからあかりが"恋"の指導してあげる」
「レッスンってこと?」
「そうだお。いやなのか?」
「い、いやじゃないけど」
「けどなんだお?」
「なんか突然レッスンって言われても」
「じゃ、やめるのか?」
「い、いや。お願いします」
「おーし。それでよし。あと一つだけ言っておくよ」
「なに?」
「なんでしょうか?だお!」
「なんでしょうか?」
「うむ。”痛みを連れた涙は恋が愛に変わる時”だということを忘れるなお」
錬太郎は、すこし首を傾げながら
「はい」
と答えた。
錬太郎にはちと難しいようだったが、あかりの言葉を理解するには修行が必要だと感じたのは確かだった。
太陽が西に沈み始めた海を見ながら、あかりと錬太郎は"恋"というレッスンの師匠と弟子のような関係になっていた。
遠くに見えていた老人は消え、カメラを手にした青年もいなくなっていた。
錬太郎とあかりが"恋"をする?
"恋"の師匠と弟子という、何とも不可思議な世界が始まろうとしていた。
赤鼻の神様とコイデカは、どこで何をしているのか。。。
つづく


