令和6年(2024年)10月17日㈭


「令和6年10月下旬の旅」3日目は「秋の乗り放題バス」を使用した旅。

高徳線に乗り引田に来ました。引田は香川県東かがわ市。

続日本100名城に選定されている引田城跡を見たあとは再び引田駅へ、画像は2024年に解体された旧引田駅駅舎跡


※この記事の続きです。


※秋の乗り放題パス

JR線の普通・快速列車の普通車自由席及びBRT(バス高速輸送システム)並びにJR西日本宮島フェリーが連続する3日間乗り降り可能

 発売期間 :2024年9月13日㈮~ 2024年10月18日㈮

 利用期間:2024年10月5日(土)~ 2024年10月20日㈰  

有効期間 :連続する3日間 

運賃: 7,850円 こども 3,920円 

発売箇所 :全国のJRの主な駅、JRの旅行センター及び主な旅行会社

 利用方法 :「秋の乗り放題パス」1枚につき1人、購入時に選択された有効期間初日から連続する3日間利用可能

きっぷの内容 :全国のJR線の普通・快速列車の普通車自由席及び、 気仙沼線BRT(「柳津~気仙沼」間)、大船渡線BRT(「気仙沼~盛」間)、JR九州バスの日田彦山線BRT(「添田~日田」間)、JR西日本宮島フェリー(別途現地にて宮島訪問税100円の支払いが必要)。




引田で下車するのは9年ぶり、当時は駅員配置、駅舎もありました。

※2016年9月の旅


※引田駅は 2022年(令和4年)3月12日:より終日無人駅となる。 
2024年7月25日、東かがわ市とJR四国で高徳線引田駅待合所・公衆トイレ整備に関する協定が締結され、東かがわ市が公衆トイレや屋根等の整備、JR四国が現駅舎とトイレの撤去、待合所等の整備を行うことになった(2025年3月末完成予定)。同年9月に従来の駅舎は解体された。

wikipediaより引用



訪問時の2024年10月は、このような仮駅舎が設置されていました。

香川・徳島の県境区間である高徳線・引田 -〜板野の普通は列車密度が低く、5時間以上運行されない時間帯があります。

次の徳島方面への普通列車は

4331D   引田1308発 徳島行き


跨線橋から見た引田駅構内



静かな引田駅で列車を待ちます、和

下り普通列車の本数は少ないが特急は1時間おきに運転

上り3014D  引田 1253発 特急うずしお14号 高松行き

乗車するのは

4331D   引田1308発 徳島行き

引田には1302着

車両は1500系1566+1562の2両編成

先頭車の1566は1500系7次車として、近畿車輛で2両(1566・1567)が製作。2006年〜2012年にかけて製造された1500系1次〜7次車を内外装ともに大幅にリニューアルした車両。

2両目の1562は2011年製造の1500系5次車
クロスシート窓側席を確保、車内は空いていました。

讃岐相生(1312発)

讃岐相生〜阿波大宮では香川・徳島県境を超えて

阿波大宮(1322発)

板野(1339発)

3016D   板野1339発 特急うずしお16号 高松行き

と交換





1342着の阿波勝瑞で下車。無人駅なので運転士に乗車券を提示

勝瑞駅

徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地にある、四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の駅である。
藍住町唯一の鉄道駅。池谷駅から乗入れる鳴門線の列車も利用可能である。
一線スルーでホームは相対式2面2線である。通過列車は2番のりばを通過する。かつては単式1面1線であった。駅舎は地上駅舎である。双方のホームは跨線橋で結ばれている。特急「うずしお」の半数程度が停車する。1番のりばは簡易的な造りのホームで、向かい側の2番のりばは駅開業当時からあったホームである。行き違いがある場合を除き、列車は1番のりばに停車する。  2024年(令和6年)3月16日より終日無人化。 








駅舎内にはこれから向か勝瑞城跡・勝瑞館跡までの道案内

勝瑞駅から500m


勝瑞駅を出ました。立派な駅舎

駅前の踏切を渡り

通行量の多い県道14号線の脇には水濠、勝瑞城跡の見性寺

※勝瑞城跡・勝瑞城館跡で撮影した画像はコチラ




続日本100名城スタンプは県道14号線を挟んだ斜め向かいにある勝瑞城館跡の勝瑞現場発掘事務所に設置。


画像中央に見える建物です。


押しました。


勝瑞城跡の御城印は勝瑞城跡から0.4kmの武田石油で販売



武田石油にて御城印を購入

阿波和紙を藍染、一枚600円



再び勝瑞駅へ


令和7年(2025年)2月26日㈬

久しぶりに「遠出」しない水曜日(EX高尾の公休日)です。といっても神奈川県からは出ますが……

桜木町始発の京浜東北・根岸線に乗車。

936A   桜木町910発 大宮行き95

※先週の水曜日は山口県へ





956着の東京で下車

かなり歩かされて地下の京葉線ホームへ

京浜東北線ホームから9分
1013Y   東京1005発 新習志野行き
舞浜を過ぎ

1024着の新浦安で下車。





新浦安駅前プラザ マーレ

の1Fにある

浦安市観光インフォメーション マーレへ

浦安市観光インフォメーションセンター マーレでは浦安市のマンホールカードを配布

浦安市を訪れのはマンホールカードが目当てです。



デザインマンホールが設置されているのは新浦安駅から1.6km先の浦安市役所付近



境川に沿った道を歩き

首都高速湾岸線の先に見えるのは浦安市役所庁舎





デザインマンホールを見つけました。

左は浦安市役所、右は浦安市文化会館



道路の挟んだ向かいには

浦安市郷土博物館(うらやすしきょうどはくぶつかん)は、千葉県浦安市にある、浦安の自然・歴史・文化に関する体験型博物館。

浦安市郷土博物館

浦安の自然・歴史・文化に関する体験型博物館。

 開館時間 : 9:30~16:30 

休館日 : 毎週月曜、年末年始、館内整理日 

入館料 : 無料 

しかし入口に行くと…
休館日でした。残念!

浦安市郷土博物館には入館できませんでしたが



屋外展示場「浦安のまち」 は館外からも見ることができました。

昭和27年ごろの浦安を野外に再現[1]
映画のセットのよう



再び新浦安駅へ

上り京葉線に乗車

1079E   新浦安1210発 東京行き

1220着のす新木場で下車 

改札を出て駅舎を撮影

りんかい線に乗り国際展示場へ

1239E   新木場1229発 大崎行き

は国際展示場場1234着












国際展示場駅から0.9km、有明水再生センターへ


有明水再生センター5Fにある

東京都虹の下水道館

開館時間: 午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで) 

休館日:月曜日、年末年始 ※月曜日が休日の場合は開館し、その翌日。 夏休み期間無休、下水道の日(9月10日)、都民の日(10月1日)は開館 

入館料 無料

※東京都虹の下水道館

東京都江東区の有明水再生センター内にある、東京都下水道局による下水道をテーマとした体験型の広報施設である。
1996年、有明下水処理場(現有明水再生センター)の見学説明室として開設。2012年12月から休館して実物大施設の設置などの改修を行い、2013年4月20日に再オープンした。下水道管や下水処理場の監視室などを実物大で再現した施設が設置されている。これらの実物大施設を使って、マンホール内の探索や清掃などといった体験をすることができる。

wikipediaより


東京都虹の下水道館にて配布されているマンホールカードを頂きました。


「ソメイヨシノ」、都の木「イチョウ」がデザインされた東京23区のマンホール


館内には配布されているマンホールカードのデザインのマンホール



展示されているマンホール





コチラのデザインのマンホールカードは先月入手しました、






国際展示場駅へ向かう途上にもマンホールカードのデザインのマンホールが設置されていました。




再び国際展示場駅へ



1365F   国際展示場1345発 川越行き

1351着の天王洲アイルで下車

地上に出て

東京モノレール 天王洲アイル駅へ

天王洲アイル駅の脇、目立たぬ場所にある

アイルしながわ

旧東品川清掃作業所を暫定活用した施設

入口は何処か?
目立たぬ場所に入口はありました。

関係者以外、入っていいのか?一瞬迷いましたが

入口にはマンホールカード配布の案内

このような道を進み

頂きました。品川区のマンホールカード

<配布時間> 平日13:00~18:00 土日祝:9:00~18:00 

休館日:毎月第3火曜日、年末年始(12/29~翌年1/3) 
アイルしながわ前から東京モノレールを撮影

マンホールカードのデザインのマンホールは東京モノレール・天王洲アイル駅近くに設置





天王州運河に架かる新東海橋を渡り

京急新馬場駅へ向かいます。

東海道品川宿本陣跡の聖蹟公園





新馬場駅へ

新馬場駅のすぐ近く、品川神社にお参り







品川神社の裏手にある板垣退助墓所へ









品川神社の御朱印

境内から見た京急の高架

品川神社富士塚




富士塚に登りました。



富士塚から見た京急高架





新馬場から上り京急に乗り

京急川崎へ

所要で川崎を訪れました。

夜が暮れて

京急にて帰路に




勝瑞城跡 

徳島県板野郡藍住町

令和6年(2024年)10月17日㈭


JR四国高徳線の勝瑞駅から0.6km、勝瑞城跡へ

通行量の多い県道14号線の道路脇には水濠

水濠の先は勝瑞城本丸跡

勝瑞城

徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。
鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。 中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。 勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。

築城年代については諸説あるが、最も早くは承久の乱の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたという説がある。 南北朝時代の1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に秋月城から勝瑞城に移り、その後阿波守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。ただし、1340年(南朝:興国3年、北朝:暦応3年)に細川和氏の隠居城として築城されたとする説(『細川三将略伝』)、1338年(南朝:興国元年、北朝:暦応元年)に細川頼春が築城したとする説(『細川岡城記』)などの異説も存在する。

築城年代については諸説あるが、最も早くは承久の乱の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたという説がある。 その後、南北朝時代の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)1月、四国を平定した

阿波の管領細川頼之は秋月城を居城としていたが勝瑞城に移り、その後阿波守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。ただし、1340年(南朝:興国3年、北朝:暦応3年)に細川和氏の隠居城として築城されたとする説(『細川三将略伝』)、1338年(南朝:興国元年、北朝:暦応元年)に細川頼春が築城したとする説(『細川岡城記』)などの異説も存在する。


1552年(天文21年)、勝瑞城の城主は阿波国守護城主・細川氏之の重臣である三好実休は謀反をおこし、細川氏之を自害させ勝瑞城を奪取した。ここに阿波方細川氏は滅亡した。その三好実休は1562年(永禄5年)和泉国に出軍し、久米田の戦いで戦死。その子三好長治が勝瑞城の城主となった。

三好氏が織田信長の出現によって徐々に畿内より遠ざかっていき、勝瑞城でも三好長治の信望が衰えていくと、重臣たちも離れていった。1577年(天正5年)に三好長治は細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢に勝瑞城を追われ、同年3月に長原の地で自害して果てた。しかしこれが長宗我部氏を阿波国に誘因する結果となり、1582年(天正10年)長宗我部元親の侵攻を受け、中富川の戦いとなり長治の弟・十河存保は讃岐国に敗走し、城は同年9月21日廃城となった。
長宗我部軍によって破却された勝瑞城は徳島城築城の際に石塁や遺構の多くが持ち運ばれたという伝承が残っている。

wikipediaより引用


勝瑞城本丸跡は三好氏の菩提寺である見性寺(けんしょうじ)

※勝瑞城本丸 

城域の中央部に水濠で囲まれた、三好氏の菩提寺、見性寺が残っている。長方形で一般的には「本丸」と呼ばれている。平城としては保存状態はよく、南北約60m、東西約84mで、濠の幅は埋められて狭くなっている部分もあるが16mという部分もある。濠の盛土は土塁や本丸の盛られたようで、周りの土地に比べて2-3m高くなっている。見性寺は江戸時代中期に三好氏歴代の墓を一か所に移転してきたものである。 勝瑞城跡は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地となっていた。1994年(平成6年)に行われた発掘調査で、城は16世紀末に造られ、短期間のうちに廃城となったことが明確になり、中富川の戦いの時に急造された詰めの城として築かれた。

wikipediaより引用


見性寺境内へ



勝瑞義家碑















続日本100名城スタンプは県道14号線を挟んだ斜め向かいにある勝瑞城館跡の勝瑞現場発掘事務所に設置 

見性寺をあとにして



勝瑞城館跡 勝瑞館跡へ

※勝瑞城居館 

史料等に鎌倉時代から残されている勝瑞城を明確にするため、地名の再検討、伝承の検討、明治時代初頭の地籍図、1945年(昭和20年)の米軍航空写真を使い、地割の復元をした結果、現在の本丸跡から南へ150mの地点に、東西約120m、南北約150mの方形区画が見つかった。その確認調査として藍住町教育委員会と徳島県教育委員会により1997年(平成9年) - 2000年(平成12年)まで発掘調査が行われ、濠幅約12mに囲まれた東西約120m、南北約150mであることが明確となった。この居館の構造、出土遺物の質、量から三好実休の居館跡と推定されている。本丸と呼ばれる「勝瑞城跡」と三好実休の居館跡は「勝瑞城館跡」として国の史跡に指定されている(2001年1月29日指定)。勝瑞城跡8568.38m2、勝瑞城館跡33246.96m2が指定範囲となった。また2004年(平成16年) - 2005年(平成17年)の発掘調査で、この居館から南方向に東西40m以上、南北30mの池跡が発掘された。発掘庭園としては、日本国内最大級の池庭となる。中央には岬があることから、池全体は「つ」の字のような形をしている。小さな石が州浜に敷き詰めてあり、護岸には石積みがされ、景色に演出がなされていた。
2000年(平成12年) - 2001年(平成13年)では勝瑞城館跡の東側を発掘調査行い、大規模な礎石建物跡が見つかり、館跡はこれより東側に広がる可能性が出てきた。2004年(平成16年)からは「室町ロマン勝瑞再生プロジェクト」が開始され、規模を拡大して発掘調査が行われることになった。2007年(平成19年)2月7日、館跡の東側部分8800m2が国の史跡に追加指定された。

wikipediaより引用
発掘調査が続く勝瑞城居館跡

勝瑞城居館跡に建つ

藍住町教育委員会 勝瑞事務所













展示室は藍住町教育委員会 勝瑞事務所の2階



続日本100名城スタンプを押しました。



勝瑞城の御城印は近くにある武田石油で販売

展示室から見た居館跡











復元された濠跡







勝瑞城跡から県道14号線を歩くこと0.4km

武田石油へ

御城印を購入

阿波和紙を藍染、一枚600円