禅文化」で行くか、「茶道」で行くかで、記憶を辿る道の様子はまったく異なるものになる。

そこが面白い。むろん、こういう面白がりかたは、高校までの歴史の勉強や、受験のための日本史などには百害あって一利なし。いや、「常識」や「知識」を問うクイズの歴史問題にも役立たないだろう。


たとえば「一芸は道に通ずる」という意味を史実に沿って確かめてみたいという動機は、歴史の本を紐解くことにつながるだろう。

もう少し対象を小粒にして、たとえば、「一期一会」という今でも使うことのある言葉が、茶の世界から出たものであることはなんとなく分かる。誰が最初に使ったのか?
最初はどんな意味だったのか、「道」に関連があるのか確かめたい気持ちが起きたとする。


茶道、剣道などなど「道」のつく文化が多彩に生まれたのが鎌倉時代だからと、鎌倉から探しに行っても、この言葉の関連は見あたらない。茶のはしりが鎌倉であるという記憶は間違っていない。


利休だろうかと、利休から探す。だが、秀吉と利休というくらいだから、うん? 利休は戦国時代? ここで混乱が始まる。数百年の隔たりがある。


利休は安土桃山時代の人だった。で、あの言葉はさらに次の山上宗二あたりまで来ないと関連が出て来ないことが、ようやく分かる。結局、誰かが言ったというような言葉では、もともとないらしい。なんだか、会を主催する者の心得のようなもので、社是、家訓のようなつまらない話だっかも、という悪寒がしてきたり。ま、それは大した問題ではない。 いま使われている言葉の意味に戻ってくればいいだけだ。


ここで気づくのは、ヒトのアタマは、人物史、文化史、政治史というような引き出しに分かれてはいないということだ。もっと言えば、日本史、世界史というようにも分かれてはいない。

(例に挙げたような動機で動き始める思考を「歴史的思考」と勝手に呼んでおく。立ち上がりは言ってしまえばぐじゃぐじゃである)。


日本史の時代概念は、時の王朝や政権が置かれた都の名前、地名がほとんどなので(明治以降は違う)、西洋の古代、中世、近世、近代というピリオドとはずいぶん性格が違う。何をもってたとえば「中世」とみなすかという概念はそう単純ではないようだが、日本史の時代概念よりは抽象的で、その分、茶の例のような誤解や混乱は生まれにくい(定義を明確にする努力があるから、集合の要素を定義するように、含まれる含まれないで判断できる余地がある)。


だから、むしろその迷いや「勘違い」を、面白がることが許されるほうが、歴史を触る意味も、かえって切実に体感できるものになるような気がする。


それは想起の筋道-想起はは明るく点滅する記憶をまずよすがにしながら、違う方向に向かっているかもしれない点滅の尾根を形成する。そうしなければ始まらない-のいくつかある起伏(凸凹)のトレースなので、そういうクイズ的には「間違った」行き方こそが、「歴史を生きる」ことに通じるのかも知れない。

考えてみれば、「それを」「正確」に記憶していることに、一体どんな意味があるというのか。コロンブスのアメリカ大陸発見が1492年であること、鉄砲伝来(だったっけ? )が1549年(以後よろしく)であること(ザビエル上陸だった)、それらはそれだけでは何の意味もない。穴埋め問題やクイズで得点できるというだけだ(もっとも数学者の吉田武先生が、西洋のグレゴリオ暦も歴史の“通し番号”として実用的な表記法であると『虚数の情緒』 で述べている)。


面白いのは「歴史的思考」だ。しかし、こちらに先に開眼できるような学びかたというのは今のところない、ようだ。 ヒストリー、イストワール、物語ときても、まだ食い足りない。


日本史はずっと明治以前は、縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山、江戸…で通している(下線の時代概念だけは、他と毛色が違う)。それはそれでいい。エピソード記憶の引き金になる。だから、西洋の歴史概念との合わせ使いとか、もっと面白い発想が出てきそうなものだが、あまり聞いたことがない。しかし、明治以降は、「近・現代史」と素直に入ってきてしまう。江戸が近世(近代の萌芽、もうあとちょっとで近代、いやもう近代かも)であるというのもわかりやすくなってきている。

なぜだろう? そういう疑問をもって歴史の本を読み直してみよう。
そうすれば、日本史とか世界史という歴史をはみ出て、もっと色々なものを結びつけて思考速度を驚異的に加速する方法がそこから見つかるかもしれない。今現在を出発点とする以外に、歴史を語る、学ぼうとする動機はないのだから、考えてみれば当然のことに思えるが。

同時にそう思えば思うほど、これまで歴史学者というのは何をしてきたのかという疑問が湧いてくる。 いや考古学者、史学者は存在するが、歴史学者がなんであるのかは、その人物と仕事を個々に見る以外にないということなのかもしれない。つまりはそこには「方法」がないのである。史料の扱い方とか、そういうお作法はあるかもしれないが、「歴史学の方法論」、もっと言えば「一般歴史理論」はない(ご存じのかたはぜひお教え下さい)。

編集工学研究所
情報の歴史―象形文字から人工知能まで

あんたの親は私の家族にこうこうこういうことをした、だから許せんって断固として言うための証拠を探し出すことや、対して言い訳をひっぱり出してくることが、「歴史を理解する」ということなのだろうか?

むしろ「歴史に学ぶ」ことの凄さを、いまに実証してみせてくれる歴史の本に会いたい。

昼寝は呑気にしたいものだ。だが、学問や科学が呑気な昼行灯であるわけにはいかないだろう。

人文が科学技術の目覚ましさの後塵を拝するしかなくなるのも分かるような気がする。


「茶は鎌倉で利休は戦国」。なんでそうなるの? という疑問は科学の小さな芽かもしらんね。

(いまは亡き松本清張の口ぶりで)。



1)大学受験予備校が「言わない大学側」に代わって平均6割、難関国私は8割、東大(理III ?)
は9割とか(それぞれそれだけ得点すれば合格率5割)、生徒への努力目標のわかりやすい「基準」としてセンター試験の得点率を活用しているそうです。闇雲な偏差値しかなかった時代にくらべて、まことにすっきりとした指標をセンター試験というものが与えてくれるようになったという意味では、おっしゃるとおり大学で勉強するための「資格試験」「全国素養試験」に近い精度を持つ唯一の試験(大検は別)であるとは言えるかもしれません。
→二段階選別というのはなんですか? 大学側が楽するために素養試験を悪用(笑)している?


2)センター試験問題において「数学にまぐれあたりはない」、は卓見です。マーク式の功罪は、世の中ではあまりにも単純化してとらえられてきました。教科科目の特性をマーク式から具体的に示されるという現場ならではの見解に脱帽します。しかし返す刀で「数学こそ暗記力」というのは? 地歴公民が記述以外に真の学力を問えない教科である、すなわち「世の偏見=暗記もの」は全く違うということを強調されたいのは理解できますし、同意できますが。数学にも思考のプロセスに部分点を与えられるような記述力が問われるのではないでしょうか。マーク式においては表に出ないだけで、生徒の頭のなかでは暗記知識だけではない力が発揮されているはずでは?


「「数学は暗記力」、「歴史は考える力」と言っても全く正しい。」という言葉は、注意喚起の鋭いレトリックとして受けとめるべきでしょう(高校までの数学については、すでに暗記派と、プロセス理解力派の源平合戦がすでにあるようです)。

数学も考える力、歴史も考える力、では身も蓋もないので、どっかで出会わせてほしいものです。
(これはセンター試験の課題を出てしまうでしょうが)。


以下は、安易に意見を申し上げるのは難しい、tommy先生の独壇場です。引用します。
<引用開始>
高校の先生の80%、高校生の90%は、「歴史が好きな生徒は史学科に・・・・・」と思っているでしょうが、これは全く違います。「歴史を発見しようとする生徒は史学科に」「歴史を学ぼうとする生徒は、法学・経済学・哲学などに」行くべきです。
<引用終わり>


科学史、数学史などの魅力に溺れてしまいそうになる身からすれば、実にありがたい見解です。

数学科に入っても、史学科に行っても、「数学史やりたいんです」とは言いにくい。哲学はその点、オールマイティであったことを懐かしく思い起こしました(懐古している場合ではない)。


さて、とりあえずのまとめです。


おそらくセンター試験は、一次試験、足切り的なイメージで捉えられる期間が長かったのだと思います。
「マーク式で二次個別学力試験より易しい」みたいな。しかし、いまや独立の、それ自体、素養試験としての精度と価値を持つものになってきたと、とりあえずの結論としてよろしいでしょうか?
「センター試験」という名称はなんか何も言ってない。大学入試センターってなんでしょう?
ま、名称を変えるというのもなんですし。名称として「共通一次」よりはよほど自由度があって良い。社会人にも受験できるようにしてはどうだろう。素養試験として。


新しい質問
1)総合問題は可能か
2)「専門分野以外の素養のスタンダード」、その必要性のダメ押し的確認。私立の2教科、3教科入試では、素養のスタンダードはどこで担保されるのか
3)まさに、センター試験問題を超えて、教室で発揚されていれば、素養のスタンダードはそれで測り、安心して、2教科私立にだって生徒を送りだすことはできるのではないか。(音大、美大系には多いのではないでしょうか。別に勉強しない、したくないので「極少科目」というのではない例が)。
4)「専門分野以外の素養のスタンダード」をヒントに、リベラルアーツの歴史を「日本史のなかに」見いだせないか


以上です。
また思いついたら、ぼちぼちコメントなりさせていただきます。


蛇足:tommy先生のような方にこそ、現場にしがみついて教師として死ぬまで(笑)がんばっていただきたいと思います。船井ワールドもなかなかのものではあろうと思いますが。


tommy先生の卓見こちら です。

こいつはとんでもねえ野郎だ。

人物としては卓越とは程遠い御仁のようで。


tommy先生からの回答 に答えるまえに。

以下、とりとめもない独り言である。


「バカでもいい、元気に育ってほしい」という広告のキャッチフレーズがあった(「バカでもいい」ではなかったかもしれないが、大意に違いはあるまい。どうでもよい)。
一方、アーサー・C・クラークの知性論がある。
ヒトはなぜ他の生物とは比較にならない知性を持つのか、またそれを磨きまくろうとするのか? その理由についての超オプチミスティックな解答である。


これに、「言語は宇宙から飛来したウィルスである(ウィリアム・バロウズ)」を、このクラークの解答に、対置することができる。というより、そのように対置することで浮き彫りになるものがある。それを期待しての操作である。


さらに知性と関連するが、独立に点検しておくべき「学校というものの歴史的経緯」がある。「近代」の問題として取り上げて一定の成果を挙げた研究例はすでにたくさんある。日本で言えばかつて二宮尊徳像が多くの小学校の校庭に立ったことに象徴される、「制度」への古くからの問いである。


平成17年の大学受験者数は約70万人。18歳人口136万6千人。高卒者数120万3千人。に対して大学進学率は55.9%である。

大学に入学するという行動が、ある母集団における2人に1人の割合で起きている。これはもはや決して特別なこととは言えない。日本の総人口の約50%がメガネをかけている。商品の普及率で言えば、普及しきったといえる普及率。大学へ入学するという行動もメガネとほぼ同等の普及品となっている。

起きうる確率が二分の一というのは相当に高い確率である。

問われなければならないのは入学後、あるいは卒業後である。入り口調査よりも出口調査が絶対に必要になってきた。


そして、何よりも問われるべきなのは、「制度」の存在を前提としない、ヒトにとっての勉強の意味、存在意義である。


ニュートンはどこで勉強しのだろうか? 荘子や老子はどこで学んだろうか? ライプニッツ(1646-1716)は?
おっとヨーロッパは中世からなので大学の歴史が。ライプニッツはライプツィヒ大学で哲学、イェーナ大学で数学、アルトドルフ大学で法律を学び、1670年にマインツ侯国の法律顧問官となっておるな。あれ?

わが三浦梅園(1723-1789) は? 漢詩を学ぶために、読めない文字があればそれを書きとどめ、月に数回、四キロばかり離れた西白寺という寺に通って、その寺の辞書を借りて調べたというから、寺通いや手紙の往還や色々と工夫をした独学だな。


ということで、へたをすると、大上段?にふりかざした上記の「「(学校)制度」の存在を前提としない、ヒトにとっての勉強の意味、その存在意義とは」という問いは、「知性論後進国」日本、ということで終わってしまうのだろうか?(知性後進国ではない。知性「論」が不足するのではないかと言っているので)。


感性、感性とやたら口にする御仁も気色悪いものだが、知とか知性という言葉への含羞は何なのか? そこに伴うある種の傲慢はなにか? アジア的傲慢であるか?

「知」に変わる良い言葉はないものか。


tommy先生からの貴重な速攻回答を前にしての、独り言である。

渡辺 毅, 二宮 尊徳, 福住 正兄
現代語抄訳 二宮翁夜話―人生を豊かにする智恵の言葉
静岡県の県立高校で日本史を教えておられるtommy先生のブログ で、なぜ国立大学を生徒に勧めるのか、とくに東大がお薦めなのはなぜかについて、「多科目主義」を挙げている。

これは私立に較べて授業料が安いからとか、官僚めざすなら、とか、とにかく日本一の大学だから、などなど言い古された「理由」ではない。というよりも、これらはよく考えると、大学を選択する理由としてはいかにも底が浅い。それは同時に、文理を問わず、なぜ5教科を必修で勉強すべきなのかという積極的な答えが見あたらない、見つけにくいというこの国の事情とも関連する。

少ない教科を勉強するより、たくさん勉強するほうが大変である、ゆえにたくさん勉強してたくさんの科目を受験して合格する生徒はできる。ま、これでも何も困らないだろうが、しかしあんまり夢のある「理由」ではない。勢い受験生にとっての「負担」が大きいなどという言辞が、平気でまかりとおることになる。

いろんなものをいっぱい勉強できて幸せだね。うらやましいよ」なんて物言い、あまり、いや全く聞かない(フーテンの寅さんの台詞にあったような気もするが。渥美清、もうちょっと長生きしてほしかった)。


だが、ほんとうはそうなのではないか? あれだけのことを毎日、教えてくれる先生が、それぞれにいて、理科も社会も国語も外国語も歴史も数学も(自由に)勉強できるなんて、めったにあることではないのだ。

どうしてそう思えないのか? 思えないようになってしまったのか? 


私立大学でもセンター試験利用が増えているらしい。なんでも早稲田の法学部だったか、再来年あたりセンター試験だけで合否を決める方式も始めるようだ。5教科5科目(6科目?)である。


学科試験がないから推薦入学、みたいな楽チンばかり追い求める傾向に歯止めするかのように、センター試験を課す推薦入試も始まるらしい。


物を書くのが三度の飯より好きで、天才的に書いちゃう人とか、音楽や絵の世界でよく現れる神童とか、そういう人でもないかぎり、たとえば「文学部だから」数学いらないという旧来の私立型入試はやはり、どこかおかしかったのではないか?

ついでに言えば、手先の器用な人は職人になった方がいいのである。そういうまだ若いのに、目覚ましい才能を発揮してしまった人には、教科は必要ないかも知れない。一芸に秀でる者は、はたで言わなくてもも一芸を通して、5教科どころか、10も100も、自分で学びとっていくような気がする。


だが、逆にじゃあなんで5科目○教科なの? に対する積極的な答えもなかったのである。

「負担」かよ? 借金やトライアスロンじゃあるまいし。実に情けない話ではないか。


tommy先生のように、現場からこういうことを言ってくれる発言に、初めて出会った。(少なくとも自分は、こういう見解をはっきり述べているものにはこれまで出会ったことはない)。


で、いきなりではあるが、リベラル・アーツ である(しようがないのだ、これくらいしか手がかりが見つかっていないので、いまのところ)。国際基督教大学がこの点、徹底している。

だが、それでも食い足りない。(ちょっと調べてみたことは以前エントリしておいた )。


で、具体的にいきたい。tommy先生は、多科目の良さを強調する意味でセンター試験を評価している。

しかし、欠点もいっぱいあると書いている。欠点を具体的に教えて下さい。

そうすれば背理法ではないが、「5教科も勉強できることの幸せ」が、逆に浮き彫りにできるのではないかと思うのだ。少なくとも「一次試験だから仕方なく」という「負担」感いっぱいの、情けない見方は突破することができるだろう。


デイヴィッド・W. ブレネマン, David W. Breneman, 宮田 敏近
リベラルアーツ・カレッジ―繁栄か、生き残りか、危機か
追記:tommy先生の偉いところが、もう一つある。それは半匿名でああいうブログをやることに自覚的で、私性と公共性の臨界を身を挺して実験されている点である。実はちょっと検索のセンスのある人なら、tommy先生の本名なども、バレバレなのであるが(笑)。ご本人は承知の上のことだろう。

関心のありかは、2つ。というよりも2つに広がった。で、2つを関係付けることできるかどうか最大の関心である。


1)ゲームはネゲントロピーである。

ゲーム理論は、プレイヤーがその利得を最大化するためにどのような行動を選択するか、行動のモデルを作り、最適戦略、帰結を探り、結果を予測するためのアプローチの総称と言ってよいので、ゲーム理論を借りるというよりは、そのアプローチ手法のなかで概念化された情報の定義と、その理論への組み込みかたを一瞥しつつ、ゲームというもの自体、「情報」の観点からみてどうか、特にエントロピーの概念と関連づけるとき、どのような位置づけを持つのかを描ければよい。


直観的には、ゲームはエントロピー減少に向かう構造を持つはずだ。それを「ゲーム性」と呼んでおく。


2)「ランキング」は情報の拡散(エントロピー増大)に棹さすゲーム性を持つ。(情報を熱死から救うメタ情報である)


ゲーム性を持つゲームというのは、こんなものだろう(ウィキペディアから引用しておく)。ゲーム理論というものが特に定義したものではなく、理論とは独立の、一般的な定義として。

「シムシティの作者ウィル・ライトが自分の作品を(「ゲーム」ではなく)「toy(おもちゃ)」であるとしている言葉などを引きつつ、ゲームとは「充分な情報の下に行われた意思決定(decision making)をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理(managing resources)しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標(goals)達成を目指す」もの である としている。」

同じくウィキから、


乱数生成機使用の有無による分類 
ゲームはその性質上、何らかの乱数生成機を使用するもの(probabilistic game)とそうでないもの(deterministic game)とに分かれる。 probabilistic gameの例として、各種トランプゲーム、まわり双六、バックギャモンなどがある。 トランプゲームにおいてはカードをシャフルする(かき混ぜる)事が乱数生成機としての役割を果たし、まわり双六やバックギャモンにおいてはサイコロを振る動作が乱数生成機としての役割を果たしている。
deterministic gameの例としては囲碁、将棋、チェス、チェッカー、ダイヤモンドゲームなどがある。」


このプロセスは、各行為主体の目的、選択できる行動の種類、状況など含め数学的に記述される。

将棋や囲碁、チェス、を思えばわかりやすい。ルール自体が数学で記述することが可能だ。コンピュータ対戦のコンピュータ棋士つまりアルゴリズムがそのままルールなのだから。


但し、乱数生成機を使ったゲームを「ゲーム理論」が相手にしているかどうかは、不勉強のため未確認。

どちらにしても、こういうアプローチ

から派生した、

完全情報(不完全情報)
完備情報(不完備情報)
情報の対称性(非対称性)


なども使える概念装置になっているはずだ。切れ味よく、うまく使われているかどうかは別として。


堀部 安一
情報エントロピー論

(以下続行)

sin、cos、tanの語源の話は、「数楽者のボヤキ・ツブヤキ・ササヤキ 」先生のページで知った「代数(移項)」の語源のようには一筋縄にはいかない。代数の語源はそのまま端的に数学の理解につながるが、三角比の場合は、アジア大陸からアラブ、ヨーロッパに至る歴史の旅が始まってしまいかねない。それはそれでまた楽しい数学史にはなるだろうが、三角関数にたどりつけなくなるかもしれないほどの大旅行になってしまいそうだ。


畑村洋太郎著『直観でわかる数学』のsin、cos、tanの語源の説明を読んでいて気づいたことがある。
三角比の起源は一つではないのではないか? ということだ。


畑村先生の説明にそって単純に示すと、

ギリシア語jiva(ジャイバ )→アラビア語jyab(ジャイブ 凹所、入り江)→ラテン語sinus(シヌス 凹所、入り江 )→英語sine(サイン 凹所、入り江)。


そして日本語「正弦」は中国の明の時代の漢訳語「正」がそのまま輸入されたもの。
中国人は、ギリシア人の概念理解により忠実だったと説明されている。(jyabも三日月(湖)を連想させなくもないが)。


中国のイメージは「上弦の月」。

単位円

sineではなくsinとeを取ったのは、より数学記号らしくするためだろうと説明されている。

記法は英語から定着した。しかし概念、イメージはどうか。


「正弦」の「正」は「おおもとの」「基準の」の意で、cos、tanがsinから派生したことを暗に示している。

そうなると見えない弦を見出しやすい「単位円」が一番なじむ。角度の拡張もスムーズに理解できる。親指と人差し指を斜辺、隣辺になぞらえて体感することもできそうだ。(試験場でそういう指の動きをするとカンニング?呼ばわれるされるだろうか)。


『本質がわかる』の三角比の章扉には測量にまつわるタレスの逸話が挿絵付きで簡潔に述べられている。これはこれで数学における「エピソード記憶」を提供する評価できる編集の工夫の一つだ。また畑村先生も、三角比の説明に「見えない直角三角形を見ようとする」こと、そこで「角と辺の関係」を見ることの重要性を言っている。例はやはり測量である。

しかしそれなら、なぜ「弧」と縁の深い「弦」がギリシアの概念理解に忠実ということが出てくるのだろうか。

距離と角度から高さを求める測量には、弧も弦も無縁なのではないか?

ギリシア人は、なぜ弓をイメージしたのか。
楽器や音楽にも関係があったのだろうか。少なくとも、ギリシアのsin(jiva)は円とともに、つまり単位円のなかに、直角三角形を見たものではなかったのかということだ。弧度法が本質的であるというのは、どうも楽器の弦が連想されてならない。

仰角と距離としての直角三角形、円のなかの直角三角形。別々に見出されたのではないか。


実に間遠い話になってしまった。しかしこんな気の長い疑問を、演習問題を解くなかに持ち込んでもいいという筋道さえ見つかれば、意外に一石二鳥であるかもしれないのだ。

紙に向かって鉛筆を走らせたくてしようがない「意欲」が湧いてくるような気がしてきた。
図形を無性に眺めてみたくなるのである。


(図は以下からお借りした)

Macromedia - Flash TechNote : fl0189 - 角度と座標の計算 - Flash の三角関数を使う
http://www.macromedia.com/jp/support/flash/ts/documents/fl0189.html

『本質がわかる』シリーズの数I・Aの「三角比」には、「斜辺・隣辺・対辺」という漢字用語がnoteで説明されている。『理解しやすい』にも、「要点」として説明してある(但し、隣辺は底辺となっている。角との関係を示すす語としては隣辺のほうがふさわしい。底辺では一般化し過ぎだろう。斜辺も実はそうだが)。

しかし、教わった記憶がない。遠い昔のことだからか、あるいは、「複雑な記号」の意味を覚えるための、s、c、tの筆記体に気を取られて忘れてしまったのかもしれない。

ともあれ「関係の発見」というアプローチからは、この斜辺・隣辺・対辺という呼称はとても具合が良いのだ。

sは斜辺:対辺、cは斜辺:隣辺、t は隣辺:対辺。なぜか、視覚的にもこの呼称のおかげで結像が速い。

一つの角から見た辺と辺の関係という構図が、角から見た辺の呼称であるために、入ってきやすいのだろう。一つの角に視点を固定できるからだろう。

s、c、t、の筆法ではcの起こし(基点)が、角Aではないために、三角比の関係図式が混乱する。

「その程度」のことではあるが、教えられる側は、それだけで大混乱することはあると思う。

覚えるための便法が、おおもとの概念とずれてしまう例だと思う。


「sは斜辺:対辺、cは斜辺:隣辺、t は隣辺:対辺」をしっかりたたき込んでおけば、3つの筆記体は、それを視覚化するものとして重宝するのではあるが。一つの鋭角と二つの辺の関係を忘れて、覚えることに走ると、この肝心の対応を忘れてしまうのかもしれない。


どちらにせよ、辺AB BC CAと符号化するより、漢字の用語のほうが理解しやすい。

それは角から見た辺の位置関係を、概念として明確に表示できているからだ。漢字によって

いっそそれぞれに対応する英語の頭文字も使えば良かったのではないか。


英辞郎で調べたら、
斜辺はhypotenuse●oblique line
対辺はopposite side●subtense
隣辺はadjacent sides(底辺ならbase●bottom〔【略】bot. ; bot〕)
とあった。
sinは斜辺分の対辺だから、s/h
cosは斜辺分の隣辺だから、a/h
tanは隣辺分の対辺だから、h/a
こうすると、cosとtanは逆数の関係であることも一見して分かる。


但し、ご覧のとおり、すべてを一語に縮約するわけにいかない、英語では。

頭文字をとるとは、つまり略すことは、いわば英語を漢字化するに近い ことだと分かる(少々乱暴ないい方だが)。  作業でもあるようだ。

しかし、平仮名の「あ」が漢字「阿」に対応するような対応もアルファベットでは無理なので。

⊿ABCのABが斜辺、BCが対辺、CAが隣辺と、概念を符号に対応づけるしかない。

英語圏ではどう教えているのか?

それが、cos sin tanのフルスペルと語源の理解になっていると思うのだが。



大学受験予備校、東進ハイスクールの金谷俊一郎先生が、あるところで次のように述べている。


ある歴史用語について、すごく興味深いウラ話を聞いたとします。そして「ああ、そういうことだったのか」と納得する。するとその後、その用語を見るたびに、その話を思い出すわけです。ひとつの用語を見ただけで、その背景やそこに関わる事件・事柄が頭に浮かぶ。因果関係を納得すれば、それが可能となるのです。


これ、全く同じことが数学にも言えるのではないだろうか。

日本史の場合は、このエピソード記憶によって、記述式の問題にも答えやすくなるわけだが、

数学の場合も、そのドラマを追体験するために、問題を解いてみようという意欲が湧くのではないか

正解しなくてもいいのである。とにかく、問題を解いてみたくなる度合いは、格段に違うものになるのではないか。


大学受験方式の違いでわけられた文・理が、そのまま文系・理系のステレオタイプになっているこの国で、何が問題かと言えば、こういう教科科目の垣根、テリトリーを越えた、面白さ、解いてみようという意欲の源泉は、一つであることが忘れられてしまっていることだ。


毎日新聞社の「理系白書」がつまらないのは、以上に悪循環に陥っているのは、こういう根本的な共通性への理解をまったく欠いた前提から出発してしまっているからだ。

違いを際だてるのではなく、近さ、似たところを掘り起こすのが先決であるのに、いま言った陳腐な文理図式を踏襲したままであるために、なんの新たな発見も期待できない。

ますます悪循環を昂じさせるようなものは、早々に撤収し、中断するのが世のためである。



金谷 俊一郎
金谷の日本史「なぜ」と「流れ」がわかる本―原始・古代史


「三角比」

まず日本語として失格だろう。「三角形」という幾何学の用語はあるが、「三角」とは何か。

「比」はまあ許容できる。

じゃあ、「三つの角の比」をつづめたのが「三角比」?

「三角」は「まるしかくさんかく」の「さんかく」?

おれっちは中学生なんだけど、高校生なんだけど。小学生じゃないんだけど。

という声も聞こえてきそうだ。

正三角形として、三つの角の比は1:1:1だが。

直角三角形なら、90と60と30とか、有限個だけ場合があるが。

3:2:1だったりする。

正解?は、角度と長さを対応づけること。そこに生まれる角度と長さの比だ。

つまり辺の「長さ」という概念が省略されたすこぶる経済的過ぎる用語が三角比であるということになる。

ピタゴラスの定理は同じ辺と辺と辺の長さに注目したものだから、まだ三角比に較べてわかりやすい。

角度と長さなんて、水と油だ、と思うのが日常的感覚である。

然り、「新しいものの見方」の誕生である。

一見、なんの関係も発想もできないAとBの間に、それらしい関係を発見しようとすること。

それだけでもう大したことである。

よくも、それをハイハイと受容できたものだ。

なぜ、そこまで考える必要があったのだろう? と考えるのが正常な思考である。

こうした疑問を無視ないし否定するということは、科学の芽生えを否定することに等しい。

「角と辺の関係を見る」ということが、いかに革新的であるのか、認知心理学的にも説明できるはず。


A男とB女の関係を示しなさい、は分かる。だが、A男とB女が並んで立っているのを、どの位置から見るかによって変わるような、A男とB女の関係を示しなさい、とは雲泥の差がある。


長岡亮介先生の『本質がつかめる』シリーズは、数学の参考書のなかで名著の一つだと思う。

三角関数の正接、正弦、余弦の用語の語源について説明しようとしている学参は、不勉強のせいだろう、このシリーズのII・Bしか知らない。しかし尻切れトンボである。その十全な説明には、畑村 洋太郎 著直観でわかる数学 で、初めて出会った。一言説明すれば済むことではある。

しかし、それを、なぜ中学、高校は怠るのか?


不思議でならない。


ただ忙しいのであろうとは推察できる。現に、『本質がつかめる』からして、記述は本当に忙しそうだ。

三角関数を「角度に対して実数が対応する関数」と定義する。無論、間違いであるわけはない。

だが、三角比をひきずると、「辺の長さ」は自然数である以外にない(もちろん、2辺が1の直角三角形の斜辺は√2だが、「長さ」である限り、定規を当てて測ることができるという直観において。小数? 同じことである)。「回転の向き」を考えることで、自然数が整数へと拡張される。そのあたりを説明する暇がない。整数の適用によって、目に見える(といっても点、線以上にアブストラクトだが)幾何学的な「角」「角度」は、「一般角」へと一般化される。

この学参の記述からして忙し過ぎる、と感じてしまう。


というところでもはや、

アドレナリンが出てきてしまったので、「関係の発見」について本論はまた後日ということに。


長岡 亮介
本質がつかめる数学II・B

何かモノを言うとき、誰でも時と場合により、語る内容によりけりで、語り方を変えている。

書き物もそうだろう。同じ税金の話をするにも、新聞の家庭欄で書くときと、「税の思想」という硬い雑誌の特集に書くときとでは、同じ書き手でも違う調子、文体で書くだろう。話の内容は近いこと、同じこと、同じ結論を導くにも、語り口(ナラティヴィティ)だけ変わること、代えることはよくあることだ。語り口は○○タイプあります、とたぶん数え上げることができるだろう。


あまり聞ききなれない語り口には、人は抵抗を覚える。合わない語り口、ちょうどいい語り口と相性や好き嫌いもあるだろう。


東大の工学部で教えてきて退官されてから書き上げたという畑村洋太郎先生の『直観でわかる数学』には、高校の教師への注文、いや教え方のヒントして、この「語り口」が明快に指摘されている。


(いつものことながらここでblockquoteが効かない。qでもだめ。なんでだ!? )引用開始----

「先生は(中略)身近な例をとり上げて説明しようとする。ところが、その例には先生が教えようとしている以外の、さまざまな事柄がまとわりついている。生徒は先生と違って普段の生活実感からその例を眺めるため(中略)いろいろ別な事柄に関心が向いてしまう。(中略)ひとたびその方向に関心が向いてしまうと、それが解決しないかぎり、生徒の頭は次に進めない。一方、先生は生徒がどこにひっかかっているのかわからない。」------引用終了


こうして先生と生徒の間に乖離が生まれる。つまるところは日常感覚と科学的説明(語り口)の乖離が、わかってくれない、わからないの間に堂々と割って入ってきていることになる。


問題はわかりやすい語り口になっていないから、ではない。 「身近な例を挙げて」というところでナラティビティは変化している、するはずなのに、伝わらないという例になっていることに注意しよう。


いや「身近な例で」と言っておきながら、実は語り口が変わっていないのかも知れない。

だが、ここから先はそれこそ先生個々の芸の差の話になりかねないので。


同じ小説を原作とする劇画、映画、アニメは、大きな意味でナラティヴィティが異なる。

活字は読めるが漫画は読むのが「難しい」という人だっている。映画だって、いまでこそ万人のものだが、初期には観方がわからなくて大変だったらしい。


だから、数学のナラティヴィティというものがあるのではないかということ。「わかりやすく」ではなく、そのナラティビティについて、「あ、そういうことか、それであんなふうに語る(表記するetc)のか!」といった理解を与えること。それがむしろ大切なことなのではないか。


畑村 洋太郎
直観でわかる数学

こちらは約200頁でソフトカバー。『虚数の情緒』は5倍の頁数にハードカバー。趣向も構成もまったく違う2冊だが、ときどき読み合わせると多くの発見がある。後先としては、買っておいたのは『直観でわかる』が先だが、ほとんど読み進めないでいた。意欲に欠いた。人それぞれだが、『虚数の』を先に読み始めたおかげで、推進力が出た。対数が一発で理解できた。「そのわけ」が。虚数についても「文系は学ばなくても」には異論ありだが、工学的な要領、技術(スキル)としては、なるほどそういう便利さがあったのか! と『虚数の』とはまた別の大発見をさせてもらえた。「並行読書」の効果ありである。