「禅文化」で行くか、「茶道」で行くかで、記憶を辿る道の様子はまったく異なるものになる。
そこが面白い。むろん、こういう面白がりかたは、高校までの歴史の勉強や、受験のための日本史などには百害あって一利なし。いや、「常識」や「知識」を問うクイズの歴史問題にも役立たないだろう。
たとえば「一芸は道に通ずる」という意味を史実に沿って確かめてみたいという動機は、歴史の本を紐解くことにつながるだろう。
もう少し対象を小粒にして、たとえば、「一期一会」という今でも使うことのある言葉が、茶の世界から出たものであることはなんとなく分かる。誰が最初に使ったのか?
最初はどんな意味だったのか、「道」に関連があるのか確かめたい気持ちが起きたとする。
茶道、剣道などなど「道」のつく文化が多彩に生まれたのが鎌倉時代だからと、鎌倉から探しに行っても、この言葉の関連は見あたらない。茶のはしりが鎌倉であるという記憶は間違っていない。
利休だろうかと、利休から探す。だが、秀吉と利休というくらいだから、うん? 利休は戦国時代? ここで混乱が始まる。数百年の隔たりがある。
利休は安土桃山時代の人だった。で、あの言葉はさらに次の山上宗二あたりまで来ないと関連が出て来ないことが、ようやく分かる。結局、誰かが言ったというような言葉では、もともとないらしい。なんだか、会を主催する者の心得のようなもので、社是、家訓のようなつまらない話だっかも、という悪寒がしてきたり。ま、それは大した問題ではない。 いま使われている言葉の意味に戻ってくればいいだけだ。
ここで気づくのは、ヒトのアタマは、人物史、文化史、政治史というような引き出しに分かれてはいないということだ。もっと言えば、日本史、世界史というようにも分かれてはいない。
(例に挙げたような動機で動き始める思考を「歴史的思考」と勝手に呼んでおく。立ち上がりは言ってしまえばぐじゃぐじゃである)。
日本史の時代概念は、時の王朝や政権が置かれた都の名前、地名がほとんどなので(明治以降は違う)、西洋の古代、中世、近世、近代というピリオドとはずいぶん性格が違う。何をもってたとえば「中世」とみなすかという概念はそう単純ではないようだが、日本史の時代概念よりは抽象的で、その分、茶の例のような誤解や混乱は生まれにくい(定義を明確にする努力があるから、集合の要素を定義するように、含まれる含まれないで判断できる余地がある)。
だから、むしろその迷いや「勘違い」を、面白がることが許されるほうが、歴史を触る意味も、かえって切実に体感できるものになるような気がする。
それは想起の筋道-想起はは明るく点滅する記憶をまずよすがにしながら、違う方向に向かっているかもしれない点滅の尾根を形成する。そうしなければ始まらない-のいくつかある起伏(凸凹)のトレースなので、そういうクイズ的には「間違った」行き方こそが、「歴史を生きる」ことに通じるのかも知れない。
考えてみれば、「それを」「正確」に記憶していることに、一体どんな意味があるというのか。コロンブスのアメリカ大陸発見が1492年であること、鉄砲伝来(だったっけ? )が1549年(以後よろしく)であること(ザビエル上陸だった)、それらはそれだけでは何の意味もない。穴埋め問題やクイズで得点できるというだけだ(もっとも数学者の吉田武先生が、西洋のグレゴリオ暦も歴史の“通し番号”として実用的な表記法であると『虚数の情緒』 で述べている)。
面白いのは「歴史的思考」だ。しかし、こちらに先に開眼できるような学びかたというのは今のところない、ようだ。 ヒストリー、イストワール、物語ときても、まだ食い足りない。
日本史はずっと明治以前は、縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山、江戸…で通している(下線の時代概念だけは、他と毛色が違う)。それはそれでいい。エピソード記憶の引き金になる。だから、西洋の歴史概念との合わせ使いとか、もっと面白い発想が出てきそうなものだが、あまり聞いたことがない。しかし、明治以降は、「近・現代史」と素直に入ってきてしまう。江戸が近世(近代の萌芽、もうあとちょっとで近代、いやもう近代かも)であるというのもわかりやすくなってきている。
なぜだろう? そういう疑問をもって歴史の本を読み直してみよう。
そうすれば、日本史とか世界史という歴史をはみ出て、もっと色々なものを結びつけて思考速度を驚異的に加速する方法がそこから見つかるかもしれない。今現在を出発点とする以外に、歴史を語る、学ぼうとする動機はないのだから、考えてみれば当然のことに思えるが。
同時にそう思えば思うほど、これまで歴史学者というのは何をしてきたのかという疑問が湧いてくる。 いや考古学者、史学者は存在するが、歴史学者がなんであるのかは、その人物と仕事を個々に見る以外にないということなのかもしれない。つまりはそこには「方法」がないのである。史料の扱い方とか、そういうお作法はあるかもしれないが、「歴史学の方法論」、もっと言えば「一般歴史理論」はない(ご存じのかたはぜひお教え下さい)。
- 編集工学研究所
- 情報の歴史―象形文字から人工知能まで
あんたの親は私の家族にこうこうこういうことをした、だから許せんって断固として言うための証拠を探し出すことや、対して言い訳をひっぱり出してくることが、「歴史を理解する」ということなのだろうか?
むしろ「歴史に学ぶ」ことの凄さを、いまに実証してみせてくれる歴史の本に会いたい。
昼寝は呑気にしたいものだ。だが、学問や科学が呑気な昼行灯であるわけにはいかないだろう。
人文が科学技術の目覚ましさの後塵を拝するしかなくなるのも分かるような気がする。
「茶は鎌倉で利休は戦国」。なんでそうなるの? という疑問は科学の小さな芽かもしらんね。
(いまは亡き松本清張の口ぶりで)。






