アナライズ・ミー

 

1999年日本公開 監督/ハロルド・ラミス

出演/ロバート・デ・ニーロ、ビリー・クリスタル

 

ニューヨークはグリニッジ・ヴィレッジ生まれの彼は自身も父親も名前がロバート・デ・ニーロである。父親も母親ヴァージニアも画家であり、将来を嘱望されていた。しかし人生は色々、彼らにも紆余曲折はやってくる。一方でジュニアは当時ブロードウェイなどでも大人気のトップクラスにまで登り詰めていたモンゴメリー・クリフト、マーロン・ブランド、そしてジェームス・ディーンがあたかも全米大流行のようなステータスを世間に見せているのを垣間見つつ、映画に出ることを次第に自身に向けて覚醒させていったようだ。

 

のちのち彼らの所属していたアクターズ・スタジオで演技法をジュニアは学ぶ。コンスタンチン・スタニスラフスキーが開発したとされるメソッド方式演技理論と呼ばれるもので、彼は主にステラ・アドラーから教わったという。自身の中身をかなぐり捨ててはまるで役柄に支配されるように、或いは自身の過去の経験に起こった感情をぶり返して再現を試みるように、下手をすれば危険極まりない感情に振り回され、失われかねないアンチ・コントロールを招くようなものだ。ジェームス・ディーンももちろんこれを学び、3本の代表的映画でもその成果を発揮する。『エデンの東』(55)等でも撮影中の間に吐き出していた罵詈雑言や粗暴な立振舞いをフィルムが回っていない時でも呈していたという程で、そもそもこの演技理論は予てから問題視されていたことでも有名だ。

 

実はジュニア、もちろん世間には今やスターとして認知されているデ・ニーロのことだが、彼が日本で初めてあたかも目立つように紹介されたのはアカデミー賞を獲得した『ゴッドファーザー PART Ⅱ』(75、以下『2』)だった。それまでの彼の出ていた作品はいずれも当時までの間は日本未公開で、のちの『タクシー・ドライバー』(76)などで名前が益々認識されていくようになってから、1973年に完成した廃退化していくニューヨークの姿に自身が溶け込んでいくことを試みた『ミーン・ストリート』(80年日本初公開)などが遅まきながら紹介されていっている。『タクシー・ドライバー』ではカンヌでグランプリを受賞するなど、日本に初めて紹介されるにはタイミングがあまりにもオイシすぎる役者だったことだろう。

 

 

タクシードライバー

 

1976年日本公開 監督/マーティン・スコセッシ

出演/ロバート・デ・ニーロ、ジョデイ・フォスター

R指定あり

 

タクシー運転手として実際に3週間働いて勉強してきた『タクシー・ドライバー』、演技への取り組み方がメリル・ストリープと似ていることを知った『ラスト・タイクーン』(78)や『恋におちて』(85)、鉱脈付近の住民として偽名で住み込むことで役柄になりきることを試みた『ディア・ハンター』(79)、ボクサー、ジェイク・ラモッタという役柄になりきるために自身の体重を20キロ増量させてアカデミー主演男優賞を獲得した『レイジング・ブル』(81)、タレント小堺一機が上映終了後にトイレへ駆け込んでモドしてしまったというエピソードもある(この映画は素晴らしい)『キング・オブ・コメディ』(84)、頭髪を抜いてまでしてアル・カポネを演じた『アンタッチャブル』(87)、ニュー・ジャーマン・シネマと賞賛された『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』(99)でティル・シュワイガーが演じた役名がこちらの監督と同名の『ミッドナイト・ラン』(88)、どちらかというとコソ泥系の役柄でいかにも滑稽かつ敏捷な役柄を披露した『未来世紀ブラジル』(86)やショーン・ペンと共演した『俺たちは天使じゃない』(90)、人間の体や動きを丸々変えに変えたように見せつけられた『レナードの朝』(91)、見事に鍛え上げられた体躯から底知れぬ怨念を匂わせた『ケープ・フィアー』(91)、あんまり臆病なので逆に「マッド・ドッグ」とあだ名された刑事(しかも笑わない)の『恋に落ちたら…』(93)、一糸乱れぬ冷徹さを徹底して貫いたように見えるナルシスト『ヒート』(96)、どこかしら生真面目だがどこかしら血が通っていないことにいつまでも気づかぬ経営者を演じた『カジノ』(96)、メジャー野球ファン魂が高じた気まぐれすぎるパパを演じた『ザ・ファン』(96)、以後、『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』(98)などの群集劇で共演者とパートを務める一方でプロデュース業のみ、『ウィズアウト・ユー』(99)や『レント/RENT』(06)などで担当するようになる。

 

監督業について、彼はこれまで2本こなしてきているが、その1本の『ブロンクス物語/愛につつまれた街』(93)では自伝的なシナリオによる一人芝居で舞台に立っていたチャズ・パルミンテリを観に来て気に入り、チャズもそれまで映像化を幾度も断っていたらしいがデ・ニーロの申し出でようやくOKを出す。デ・ニーロ自身の人生と重なるようなプロットを相当に気に入ったと思われるのだが、彼のかつてのリスペクトの対象ともなったマーロン・ブランドとの女性に対する興味とも相似する。しかし元々はユニヴァーサル・スタジオがチャズに働きかけ始めたことだという説もあるので、恐らくそこは偶然ではある。

 

アメリカ合衆国はそもそも多民族国家であり、多くの国から流れ込んできた民族の数々で長年混在してきている。ロスアンゼルスではそれぞれのエリアにそれぞれのコミュニティが点在するかと思いきや、ニューヨークはそれぞれの民族がごっちゃになってひとつにまとまって出来上がった大都市である。そんな特徴がそれぞれのところにあるが、結局は様々な血統が混血となって今のアメリカは形成されていると思っていいのかもわからない。

 

マーロン・ブランドもオランダ、ドイツ、アイルランドなどの血筋を持ち、片やデ・ニーロもイタリア、アイルランド、ユダヤの血筋を持つ。またマーロン・ブランドの周囲には常に非白人の恋人や愛人(インド系中心)がつきまとっていたことでも有名であり、一方でデ・ニーロは、本格的に(楽譜は読めないが)サキソフォンの演奏を体得して演技に臨んだ『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)の製作開始の頃に、非白人の女優、歌手、モデルを兼ねたダイアン・アボットとの結婚を報じられた。本人は自分たちの同棲をひた隠しにするつもりもなかったらしく、旧友のハーヴェイ・カイテルに言わせれば「本人も黒人と気づいていなかったんじゃないか」という。周囲の誰もが驚いたという事実だが、彼らに共通するところは少数民族出身ということである。ちなみにデ・ニーロのかつての女性関係もアフリカ系が中心だったらしい。実際にマーロン・ブランドは公民権運動を積極的に支持したり、『ゴッドファーザー』(72、以下『1』)でアカデミー主演男優賞受賞を拒否したのも人種差別問題を意識してのものだったことは今でも有名な話だ。ちなみに彼の幼少時に同居していた祖母が心霊や宗教に関する事業についていたことから先住民族らの宗教などにも興味を抱いていたようだ。

 

デ・ニーロがアカデミー賞を初めて受賞した役柄もビトー・コルレオーネだが、前作ではすでにニューヨークのマフィアのドンとして大成していた彼の若かった時をデ・ニーロが遡る形で受け持ったことになる。これは一見するとただブランドを真似するだけで終わらせてしまうような姿勢に終始しそうなところだが、デ・ニーロはそうはしなかった。前作を繰り返しリピートしてブランドの演技をチェックしては自身の身体に同様の仕草諸々を沁みこませ続ける事に身をやつしていった。確かにブランドの前作での存在感は半端ではなかったろう。筆者は当時の映画館で観たわけではないからどうかとは思うが、館内スクリーン枠から燻り出されるビトー・コルレオーネの畏怖的な雰囲気に包まれた空間は過去から継続されてきていることを第2作で示さなくてはならないという必要性をデ・ニーロは必要以上に自覚していたということになる。常に裏返ったような掠れた声で話し、両手で相手を迎え入れて家族のように受け入れて歓迎を示し、常に尊敬を集めるその存在感は、ニューヨークの闇に差し込む細い陽光で重く図太く照らし出される。その起源たるものを若返りつつ第2作で引き継いでいき、家族を守る為に、そしてお互いの家族の住み良い街にする為に静かなる殺戮を果たして続けて第1作につないだ。これはデ・ニーロだけでなくコッポラ監督の手腕によるところも大きいだろう。

 

第3作目は年数が経ち過ぎていたために製作の意義に関してもかなり解釈が厄介だったが、そうしたことはさておいてもこのシリーズは少なくとも『1』&『2』はセットでしっかりと把握したほうが良さそう。デ・ニーロとパチーノとの仲が険悪になったのも無理なき配役、或いは采配だったかもしれない。『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(93)でようやくアカデミー賞主演男優賞を獲得できたから良かったと言えば良かったアル・パチーノなのだが。その3年後の『ヒート』では20数年振りの共演を果たしたとなっているが、それでも犬猿の仲という噂は相変わらずで2人が一緒に写っているシーンは右と左、別々に撮って合成したとか、テーブルを挟んで向かい合う時に手前に写る後姿は本人ではなく代役だとか色々言われていた。

 

そんな色々あったデ・ニーロも、なんとこの『アナライズ・ミー』で自分の過去に築かれたコルレオーネ像をおちょくり始めたのだ。んー、自分でそろそろそんな時期だと思ってコメディに使うことにしたそうなのだが、んー、であった。日本人にもロバート・デ・ニーロのものまねがいてそっくりだった。しかもベン・ソボル(ビリー・クリスタル)の夢の中でもパロディが展開。コメディの名コーディネーター、ハロルド・ラミスが手がけるとこんなにも軽やかに、そして面白く処理出来ちゃうなんて。いやあ『1』がパロディ出来るなんて、と思ったら『キャノンボール2』(83)でもやっていたのだった。

 

ニューヨークのマフィアのボス、ポール・ヴィッティ(ロバート・デ・ニーロ)が食堂での密談(その話し相手もビトーと同じ裏返しのつぶれた声)を終えて外に出ようとする間際に敵対するマフィア組に襲撃され、ポールは九死に一生を得た。助言をくれた相手の盟友が命を奪われて険悪な様相をいよいよ呈してきた状況に不安を覚え、その後も仲間が集まって話し合いが始まったのだが、ポールは我知らずイライラし始め、その話の場にいられなくなるほど落ち着かなくなってしまう。病院に駆けつけて診てもらうと、パニック障害と診断されたのだった。マフィアのボスとしてそれはありえないとポールは認めなかったが、彼に付き添う用心棒のジェリー(ジョー・ヴィテレッリ)は以前に偶然知り合った心理カウンセラーのベン・ソボルを紹介することにした。バツイチの彼には10代の微妙な性格の息子1人と結婚を間近に控えたテレビ報道アンカー、ローラ(リサ・クードロー)との将来が待っていたが、そこにポールたちが押しかけてきたので車をぶつけた時の車両保険の話かと思えば、そうではなくマフィア総会までの短期間でパニック障害を治して欲しいと言ってきたのである。

 

あまりにも無理難題な注文をふっかけてきてマフィアに対する恐怖も一緒くたになって怯えてしまったベンはポールたちにイヤイヤつき合わされる羽目になる。マスコミにも騒がれるほどの有名なマフィアのボスを診断することは意外に問題ではなかったようだが、それでもポールにはマフィアのボスとしての威厳が伴われるためになかなかどうして彼のパニック障害の原因がつかめない。

 

この間の悪い時にベンはマイアミへの休暇を取っていたが、なんとポールも追いかけてきた。あまりの執拗なしつこさにベンも彼の治療を正式に受け持たざるを得なくなった。そうして彼の治療を進めていくうちに明確になってきた。今のポール同様にマフィアのボスであった父親に関わる過去だった。

 

名優だけあってさすがのデ・ニーロも泣きの演技は出来ないのかなと一瞬思ったが、『ケープ・フィアー』では同情をひくための涙目の演技を見せていたのでそうとも限らない。いろいろ考えたら、ああ、ただのセルフ・パロディなんだなと真面目に考えていた自分を少しだけバカにした。まあ、それなりに楽しめるパロディでもあり、しかも『1』の物語を会話のタネにもしていたからなんだか可笑しいし、れっきとしたドラマとしてもシンプルに筋が通っている佳作だった。

 

この時期にはもう以前ほど肩肘張った演技(或いはその準備作業)も寧ろ必要ではなくなってきている感があり、言い換えれば今後デ・ニーロが出ている映画は全てデ・ニーロのために用意された映画だとも言えそうな雰囲気が窺える。それまではあくまでも挑戦だったというわけだ。自分の時間も増えて落ち着きを漸く手に入れたあとで、あとはどのような仕事をこなしてくれるのか着目されていくことになったのだろう。

 

デ・ニーロの父親も画家として作品を作り続けていったが、次第にうまく行かなくなり、やがてフランスに渡って行った。その時にジュニアのデ・ニーロも彼を連れ戻すためにパリに渡ったが、その時のシニアは相当の窮乏振りだったという。そんな父親への尊敬ないし愛情の意を、逝去した同年に製作された『ブロンクス物語』での献辞として示している。

 

またジュニアはインタビューをかなり沢山断ってきている。自分の過去を探るのがそんなに面白いのかと、断る時はいつも寧ろ剣幕を立てるほどであったそうだ。では極力過去のことは触れまいという前提であっても断られることはやはり多く、ようやくアポイントにこぎつけてもインタビューにならないことも多々あったらしい。従って彼の幼少時代はどんなであったのか、少なくとも筆者にはまだわかっていないし、あまり詳らかにはされていないと思ったほうがいいだろうか。

 

ただしたまさか『カジノ』(95)を観ていると、ここでもまたマフィアじゃないようななんかのボスがひっくり返ってしゃがれた声で喋っているのが出てきたのを見かけた。『グッドフェローズ』(90)は随分前に観たが似たような脇役キャラクターが出てきたかどうかまでは覚えておらず最近では少し時間もないので再度の確認もまだだが(といいつつ執筆後双方とも観てたりで記憶の整理も作業のタイミングも前後して効率が悪い。それにしてもマーティン・スコセッシ監督作品には毎度のように唸る)、出てきたとしたらデ・ニーロの実績を知らない観客に教えるための配慮であり、映画ぐるみのデ・ニーロのための名声維持対策でもある。時が経てば人は忘れてしまう、所詮人間はそんなものだが、それでもやはり忘れてはならないとしてかようなパロディを仕掛けてくるのではないか。それもこれも全てデ・ニーロ自身の、いまだ筆者には明らかになっていない過去も含めての、人生全体に起因するのだ。

 

考えようによっては余計なお世話だが、こうして勝手に(?)理解することでロバート・デ・ニーロという俳優像に人間としてのカラーが配色され、水墨画となるかパステルカラーに彩られた抽象画となるか、印象は人それぞれに、それぞれの形で植えつけられていく。筆者の場合はこの父親への思い入れをまずこの映画に注ぎ込むことで、このボスと同様に捌け口を探し当てたのではないか。それはちょっと考えすぎかもしれないが、少なくとも役へのなりきり方としてはやり易い役柄ではなかったか。もちろん『レナードの朝』(91)での鍛錬の成果(酷評されていた)の名残もある。とっくに何もかもが自分のものに出来ているからこれでもうデ・ニーロはもう安心だ。

 

コメディにはとっくの昔から出ている。しかしセルフ・パロディとなるとちょっと事情が違う。そこからは各自でデ・ニーロを知ってもらうように映画を通して全ての観客に向けて示唆しているようである。彼の全てはあのビトー・コルレオーネから始まったことを、とうの昔から映画のあちこちでしゃがれた声で示してきたのだ。これはハリウッド全体がデ・ニーロを崇拝している裏付けに他ならない。これでタイトル通りに僭越ながらアナライズしてみました。

 

さて、ここまでひと通り書き終わったら『ゴッドファーザー』シリーズをまたじっくりと深く堪能してみるかな。やっぱりマーロン・ブランドとロバート・デ・ニーロが同じに写されているのだとまたしても感じたら、その時こそまたデ・ニーロの演技の真骨頂を心ゆくまで実感できる瞬間なのだ。

 

 

ゴッドファーザー PART II

 

1975年日本公開 監督/フランシス・フォード・コッポラ

出演/アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ