ギョコ目事件以来、密かに「おばけ屋敷」と呼ぶようになった家に住んだのは、7月下旬から9月末まで。その事件をきっかけに、確信を持って言うようになった。引越し初日からあった、いくつかの「?」なことが、まっすぐにつながったというところか。 引越した次の朝、目ざめてみると、ふとんの裾あたりが、かびがはえたように白く、周囲のたたみの上も白かびふうだった。よく見ると、1センチぐらいのウジ虫だ。天井からポロリとまだ落ちてきていた。全体を白っぽく感じさせるほどの量を考えてみてほしい。コワイ! 近所の人は、「おおかた蛇でも死んでるんだべ。よくねずみを追っかけて天井裏へ入りこんで出られなくなっちまうことがあるからヨ」という。だが、天井裏にはホコリがつもっているだけで、蛇はおろかねずみの死がいもなかった。ウジ虫事件はその晩だけだった。 いくら古い農家だって、原因もなくウジ虫が落ちてくるなんてあり得ないと思いつつ、とりあえず掘っ立て小屋ができるまで、そこに住むしかなかった。毎日の中で、一番嫌だったのは、トイレ。廊下の角にあったが、とにかくボロで、言うまでもなくボットン便所。しゃがんでいるうちに床が抜けるのでは?という恐怖におびえるような始末だった。その角からさらに廊下を行くと、メチャクチャだだっ広い風呂場があって、どういうわけかそこは、まだ新しいコンクリートだった。 2歳だった長男は、無類の風呂好きで、赤ん坊の時から機嫌が悪くて泣きやまないと、「風呂にいれよう」。それがここの風呂は、どうしてもいやがって入るのを拒み、しかたなく、まだ借りてあった団地まで、風呂に入りに行った。「へんだよネェ」と言いつつ、頭のかたすみに、エドガー・アラン・ポーの「黒猫」がちらついたりした。 大家のおばあさんは、とても上品な、でもちょっと陰気な感じの人で、月1回~2回来て、泊まって行った。ギョロ目のあと10日ぐらいして来た時、憤然として「猫を私の部屋に入れたでしょう?」と言う。聞けば、押し入れのふすまの中側が、ひっかかれてビリビリにやぶけているとのこと。猫じゃなくて人間の子どもを(無断で)入れはしたが、ふとんは貸してやったし、いっさい押し入れには手をつけていない。「押し入れもあけて猫を中に入れたということですか?」と聞いたらだまってしまったが、どうして猫がふすまの中側をひっかくことができたのか、私たちのせいにされても困るばかりである。 無断で子どもたちを入れたことを、あやまるつもりでいたのに、言い出せなかった。 とにかく、どんな粗末な小屋でもなんでもいいから、その屋敷での生活を終わらせたいと思った。 住みついて、親しくつきあえる町内の人も増えてきた頃、「あそこの家のダンナさんは家出して行き方知れずになったんだよ」と聞かされた。 なにか重要な建物に火をつけたとも。ずい分たって、畑で木によりかかって死んでいるのが見つかったのだとか。 よかった。ホッとした。何がって、風呂場のコンクリートに塗り込められていたのじゃなくて。 8月のお盆頃には、いつもこの頃のことを思い出す。
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忘れん坊のメモ帳7

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あるタレントさんの怪談ライブが人気を呼んでいるのだそうな。 ちなみに、チケットは、シナナイの意の4771円。 で、私はタダで怪談を一席。今から35年も前のことだ。 この場所に掘っ立て小屋を建てるべく、当時住んでいた団地から、夏休みになるとすぐに、お宮のそばに家を借りて移り住んだ。大家のおばあさんは鎌倉に住んでいて、つきに1度か2度来るだけだから、おばあさんの部屋以外は自由に使ってよいという。大きな家だった。 「中学校の先生だったんだって」ということで、小学校高学年生、中学生の勉強を見て欲しいと町内の人からいわれ、夜はいつも子どもたちがたむろしていた。 今年は中止になったのだが、こども神輿の行事があり、その当時は村?の伝統を受け継いでいて、男子だけで家々を廻り、集まったお布施を年長の者が勝手に上に厚く下に薄く配分し、その夜はお宮さんに泊まることになっていた。ところが、要領のいい中学3年、2年が、いつのまにか帰ってしまって、要領の悪い中学生と小学生が残され、夜中近く怖くなって「先生、とめてくれ」とやってきた。 「帰ればいいじゃん」「今さら帰れネェよ、なァ、みんな」臆病と言われたくない気持ちもわかるので泊めてやることに。しかし6~7人を泊めるスペースがないので、一晩だけだからと、無断で大家のおばあさんの部屋に、ふとんだけ貸してやって「みんなでゴロ寝だぞ」 しばらくは修学旅行気分で騒いでいたが、休に静かになり眠ったようだった。数日後、勉強と称するおしゃべりに皆が集まった時に、まんまと取り残された者をからかったり、だしぬいた者をからかったりしつつ、「でも疲れていたらしくて、みんなアッというまに眠っちゃったネー」 そしたら違うと言う。 「オレたち、騒いでいたらさァ、ユキが先生見てるから怒られるゾって言うからさ、見たら、ホント、ここんとこ(と、となりとの仕切りのふすまを指さし)に目玉がギョロギョロして見るからさ、いけネェ、先生みてるよって、みんな静かになったんだよ。そのうちホントに寝ちゃったけどさ」とくったくない調子で話す。 「だって、ここにタンス置いてあるよ。こっちからはあけられないから、電気消してまっくらだったでしょ。どうして目玉が見えたの?先生が見てるったって、目だけ見えるはずないじゃん」 シーン……。「オ、オレ、帰りにお墓のそばとおるんだよ。ひとりじゃ帰れネェよ」と、目玉第一発見者のユキ。「しょうがない、送ってってやるよ。いっしょに行こう」と私に言う夫。彼も一人で送るのはいやだったにちがいない。
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長い間の念願だった、2階集会室への流し台が設置された。外階段の……もっとも仕事場には2階へ上がる内階段はないのだが……踊り場がわりあいに広いので、そこに小さな小さな流し台を置き、下の物置の水道から水を引き、下水へ流す工事をしてもらったのだ。 毎日の維持にもこと欠いているのに、どうしてこんなことができたのか?この工事も含めていくつか集会室を多目的に使用できるよう設備をする趣旨で、助成金申請をして、なんとそれが認められたのだ。36年間で初めてのこと! 神奈川ネットワーク運動と言う地方政党があって、そこが創設した「市民社会チャレンジ基金」の趣旨の中の、「既存の枠組みにとらわれない新しい発想で社会を変えていく、そんなチャレンジを待っています」に、ビビッと反応した。「これって峠工房の歩みそのものじゃん」 かくて慣れない文章との格闘と相成った。助成金なるものはNPO法ができるまでは、だいたいにおいて無認可には冷淡であったし、さらに遡れば、門前払いの感があった。頭ン中がパッツンパッツンになるような思いをして、なんとか体裁を整えて申請書を出しはしたものの、過去の歴史を省みると、申請が通る自信というか確信というか、そんなものはまったく無く、「ま、これもひとつの勉強のつもりで」などと、先走って自分をなぐさめたり、「でも、ひょっとしたら?」なんてかすかな希望を抱いてみたりの3ヶ月余であったが、うれしい初体験でよかった。 趣旨書の通り、2階流し台に続いて、規格サイズ外のため、網戸をがまんしていた集会室の窓に特注網戸も入る。どう猛なやぶ蚊から、住人以外の人を守る必需品なのだ。夏休みにまにあわなかったので、あまり急いではいないが、業者さんを頼んでの36年間につもった不用品のかたづけも済めば、宿泊も可能な多目的室になる。こどもたちの体験合宿のみならず、遠方からお出かけの人には、山小屋値段3000円也で泊まってもらおうかななどとも思う。 そして、相変わらずの維持費難の日々。あーあ。
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忘れん坊のメモ帳5

とうとう8月になってしまった。 6月、7月は、いったいどこへ行ってしまったのか、というような気分だ。 よーっく思い起こしてみれば、6月にキャンプやったよなァ、7月2日に出身高校の生徒たちに話をしたっけ、福祉バスでの遠足にもつきあったなァ、などとずい分前のことのようだ。そして、その合い間に印刷や下請の仕事に追われたりしていたのだな、と、忘れているわけではない……まだ大丈夫だ。 8月からは、心を入れ替えて仕事に取り組まないと、9月だと思って目がさめたら、「おおみそか」だったてなことになりかねない。こわいこわい。