名著『良寛さん』の巻末にある著者 植野明磧先生の自伝「良寛さんを求めて」を読んでいます。この読み物を紹介し、併せて読後感を書かせていただきます。本文は太字にして適宜改行を加えました。
このように、無明むみょうをさまよう小羊にも似たわたしに、偶然ひと筋の光明を投げかけてくれた人、それが良寛和尚だったのです。相馬御風そうまぎょふう氏その他の、良寛和尚に関する書物のおかげです。
わたしは良寛さんから、「教えるというのは、子どもから学ぶことなのだ」ということを教えられたのです。これまでのわたしは、意気のみ盛んで、子どもたちとはあまりにも遠い距離に位置していました。それで、わたしには、子どもの本当の姿が見えないばかりでなく、子どもの声が聞こえなかったのです。人間不在の教育とは、まさにこのことをいうのでありましょう。
それからのわたしは、なんとしても子どもに近寄りたいと願いました。それは、子どもと共に遊び、子どもと共に学び、子どもと喜怒哀楽を共にするという教師の生活態度を確立することに他ならないのです。
やがて、わたしは、これまでに聞くことのできなかった子どもの声をかすかに聞き、全く見えなかった子どもの姿をほのかに見ることができるようになると、一人一人の子どものかけがえのない命の尊さを知り、子どもたちへの新たな愛情が芽生えてくるのを覚えました。
そして
これまでややもすると動揺したわたしの初志を定着させ、生涯この道を行くというわたしの人生の方向を不動のものとすることができるようになったのです。それは昭和五年(一九三〇)のころでした。
明磧先生は、昭和二年に天王寺師範学校を卒業されたということですから、「それは昭和五年のころでした」というのは、教職3年目のころでしょう。
明磧先生が発した「子どもの本当の姿が見えないばかりでなく、子どもの声が聞こえなかったのです。人間不在の教育とは、まさにこのことをいうのでありましょう」という言葉は、まさに、今の日本の公教育の断面そのものではないでしょうか。
もちろん、明磧先生は、教材研究もされたことでしょうが、教職3年目にして「こども研究」に教師としての軸足を乗せた、ということでしょうね。
私は、明磧先生ほどではないですが、初任校の4年間で巡り合った上司がよかったために、学級経営に邁進まいしんすることを決意して、学級担任時代を過ごすことができました。今でもありがたく思っています。
というのは、教職2年目から4年目までの3年間仕えた田中正夫校長(故人)に、学級会(特別活動の1領域)・学級指導(現在の学級活動)・児童会活動を徹底して指導されたのです。
当時、私は教職2年目を迎え、5年生から6年生へと単学級40名の子どもをそのまま担任しました。
田中校長いわく「幼稚園2年、小学校6年の、足かけ8年間、顔ぶれの変わらない学級で育った彼らは、学業、運動、生活全般について、序列の中で生きている。40人、どの子も生き生きと自分を主張できるように、楽しく学校生活を送れるように、どの子も自己実現できるように、序列意識をぶち壊す学級づくりが必要だ。(素人学者)さんの今年の課題は、彼らが卒業するまでに、学級会の話し合い活動を基盤にして、学級経営力を徹底して磨くことだ。君には毎日、課題を出すから、そのつもりでやってほしい」と言われ、その後、教職4年目が終わるまで、学級づくりについて指導を受けました。
これが私にとっての「こども研究」と言えば、言えなくもないのですが、私の性分でしょうか、「話し合い活動の研究」だの「言語コミュニケーション分析入門」だの「ソシオメトリー入門」などの教育研究書を読み込み、それを日々の自分の学級で試行するということを繰り返していました。
良寛和尚を心の中に据えた明磧先生とは、明らかに教育指導の立ち位置が違う(素人学者)の仕事ぶりでした。
(つづく)
このように、無明むみょうをさまよう小羊にも似たわたしに、偶然ひと筋の光明を投げかけてくれた人、それが良寛和尚だったのです。相馬御風そうまぎょふう氏その他の、良寛和尚に関する書物のおかげです。
わたしは良寛さんから、「教えるというのは、子どもから学ぶことなのだ」ということを教えられたのです。これまでのわたしは、意気のみ盛んで、子どもたちとはあまりにも遠い距離に位置していました。それで、わたしには、子どもの本当の姿が見えないばかりでなく、子どもの声が聞こえなかったのです。人間不在の教育とは、まさにこのことをいうのでありましょう。
それからのわたしは、なんとしても子どもに近寄りたいと願いました。それは、子どもと共に遊び、子どもと共に学び、子どもと喜怒哀楽を共にするという教師の生活態度を確立することに他ならないのです。
やがて、わたしは、これまでに聞くことのできなかった子どもの声をかすかに聞き、全く見えなかった子どもの姿をほのかに見ることができるようになると、一人一人の子どものかけがえのない命の尊さを知り、子どもたちへの新たな愛情が芽生えてくるのを覚えました。
そして
これまでややもすると動揺したわたしの初志を定着させ、生涯この道を行くというわたしの人生の方向を不動のものとすることができるようになったのです。それは昭和五年(一九三〇)のころでした。
明磧先生は、昭和二年に天王寺師範学校を卒業されたということですから、「それは昭和五年のころでした」というのは、教職3年目のころでしょう。
明磧先生が発した「子どもの本当の姿が見えないばかりでなく、子どもの声が聞こえなかったのです。人間不在の教育とは、まさにこのことをいうのでありましょう」という言葉は、まさに、今の日本の公教育の断面そのものではないでしょうか。
もちろん、明磧先生は、教材研究もされたことでしょうが、教職3年目にして「こども研究」に教師としての軸足を乗せた、ということでしょうね。
私は、明磧先生ほどではないですが、初任校の4年間で巡り合った上司がよかったために、学級経営に邁進まいしんすることを決意して、学級担任時代を過ごすことができました。今でもありがたく思っています。
というのは、教職2年目から4年目までの3年間仕えた田中正夫校長(故人)に、学級会(特別活動の1領域)・学級指導(現在の学級活動)・児童会活動を徹底して指導されたのです。
当時、私は教職2年目を迎え、5年生から6年生へと単学級40名の子どもをそのまま担任しました。
田中校長いわく「幼稚園2年、小学校6年の、足かけ8年間、顔ぶれの変わらない学級で育った彼らは、学業、運動、生活全般について、序列の中で生きている。40人、どの子も生き生きと自分を主張できるように、楽しく学校生活を送れるように、どの子も自己実現できるように、序列意識をぶち壊す学級づくりが必要だ。(素人学者)さんの今年の課題は、彼らが卒業するまでに、学級会の話し合い活動を基盤にして、学級経営力を徹底して磨くことだ。君には毎日、課題を出すから、そのつもりでやってほしい」と言われ、その後、教職4年目が終わるまで、学級づくりについて指導を受けました。
これが私にとっての「こども研究」と言えば、言えなくもないのですが、私の性分でしょうか、「話し合い活動の研究」だの「言語コミュニケーション分析入門」だの「ソシオメトリー入門」などの教育研究書を読み込み、それを日々の自分の学級で試行するということを繰り返していました。
良寛和尚を心の中に据えた明磧先生とは、明らかに教育指導の立ち位置が違う(素人学者)の仕事ぶりでした。
(つづく)