植野明磧先生の名著『良寛さん』の読後感を書かせていただいています。今回は巻末「良寛さんの生涯」の9つめの章「島崎の木村家へ」です。ブログ筆者が改行を加えています。

島崎の木村家へ

 ところが、いつの間にか良寛さんは、もう六十九才になりました。当時の人間の平均寿命からすると、かなりの高齢者だったわけです。

  ゆく水は せけば停
まるを たか山は こぼてば岡となるものを
  過ぎし月日
つきひの かへるとは 文ふみにも見えず うつせみの
  人もかたらず いにしへも かくしあるらし いまの世も 
  かくぞありける のちの世も かくこそあらめ かにかくに
  すべなきものは 老
おいにぞありける

 里に近い乙子の森の生活ではあっても、薪を採るのも、水を汲むのも、みな自分の手でしなければならない良寛さんは、だんだんその労苦に耐えにくくなってきました。そして、老の身のあわれを、ひしひしと思わざるを得ませんでした。
 良寛さんが、また、その詩のなかでも言っているように、「無常は、信
まことに迅速」です。良寛さんの体力の衰えが、ほかの人にも目立ってきたのです。

 そのとき、かねてから良寛さんの道徳に惹
かれて、たびたびこの庵室を訪れていた島崎の豪農、木村元右衛門もとえもんが、良寛さんの自炊生活の姿がいたましく、自分の家に迎えようとするのです。島崎村は、国上山の南方十二キロ、出雲崎の北東九キロのところにあります。

 自然と別れ、里に住むことを好まない良寛さんは、はじめは固く辞退したものの、加わる老衰の悲しさを如何
いかんともし難く、遂に元右衛門の厚意に応じて、その家の納屋を改造した一室に移り住むことになりました。

  あしびきの深山
みやまを出でて空蝉うつせみ
               人の裏屋に住むとこそすれ

 それは、文政九年(一八二六)の冬のはじめのことだったのです。
 良寛さんを、自分の家に迎えることのできた元右衛門は、その後、人に宛
てた手紙のなかで、
「自分の家に、良寛様のようなお方が来て下さったことは、まことに世間の風聞がよく、まるで狐が虎の威光をかりるようなものだ」
という意味のことを書いているようです。
 また、当時、飯塚利久という学者の書いた『橘物語』に、
「良寛禅師が島崎に来てから、村の風紀が良くなり、人情も厚くなった。まことに賢き聖
ひじりのためだ・・・・・・」
と述べています。
 これらによっても、良寛さんが、いかに周囲から慕われ、人々の尊敬を受けていたかがうかがわれるのです。
 そしてまた、元右衛門の手紙によって、その当時、すでに良寛の偽筆が横行していたことも分かるのであって、良寛さんの書が、どんなに人々から重宝がられていたかということも、知ることができるのです。

 ところで、このころ、ややもすると沈みがちで、気不精になりがちだった良寛さんに、新しい生気と、明るさをもたらしたのが、若くて美しい、貞心尼との出会いでした。
 良寛さんは、この愛
まな弟子の愛慕に支えられて、心豊かな余生を送ることができたのです。


 年齢を重ねるとともに体力が落ち、体を動かすことに不自由を来たすというのは、今年の7月に満80歳になった私の母の様子を見ていると実感できます。
 老いというものは、「年齢」と「身体の不自由」という2つの変化が、1次関数のように直線のグラフではなく、2次関数のように曲線のグラフを描くように変化するのですね。
 母は、私が命を吹き返した2011年に時点では、杖をつきつつも、息子の私よりも元気に自力歩行ができたのですが、4年経った現在は、自力歩行が困難になり、なんとか自分用が足りているという状況になりました。母のこのような状況を見ているので、良寛和尚の晩年も大変だっただろうな、と、容易に推測できます。
 それにしても、貞心尼の登場によって、良寛和尚の最晩年に、どれほどの光明が射したことでしょう!!

 『橘物語』の「良寛禅師が島崎に来てから、村の風紀が良くなり、人情も厚くなった」という記述を読んで、良寛和尚の偉大さが伝わってきました。たった一人の聖ひじり良寛和尚が村全体を善導なさったとは、本当に感動的で、素晴らしいお話です!!


「島崎の木村家へ」の章 おわり