皆さんは、
工藤 俊作 海軍中佐
という旧日本海軍の軍人をご存知でしょうか?
教科書には掲載されていないため殆ど名を知られていない方ですが、今日は是非とも後世に語り継ぎたい、この武人の命日にあたります。
1901(明治34)年、現在の山形県東置賜軍高畠町の農家に生まれた工藤少年は、小学生の時に校長から立派な艦長の逸話を聞いて感動し、1920年に海軍兵学校入校。
1923年に卒業後、練習艦に乗り組み南洋航海を経験すると、翌年少尉に任官。
海軍少尉時代
駆逐艦や重巡洋艦等に乗り組んだ後1937年海軍少佐に昇進。
そして1940年11月に駆逐艦・『雷(いかづち)』の艦長に就任し、大東亜戦争の開戦を迎えました。
そして開戦から4ヶ月後の1942(昭和17)年3月1日、(現インドネシア・ジャワ島付近の)スラバヤ沖海戦で日本海軍が英国海軍の巡洋艦エクゼターと駆逐艦エンカウンターを撃沈。
スラバヤ沖 交戦海域
そして海に投げ出され約24時間漂流していたイギリス艦乗組員を、たまたま通りかかった『雷』が発見。
すると戦闘海域に停泊するという危険を顧みず、自船の乗組員数の2倍近い敵国漂流者422名を救助。
中には重油に覆われた海面に飛び込んで、衰弱した乗組員を助けた者もいたとのこと。
雷の甲板上の救助された英兵士たち
この人道的救助を部下に命じたのが、工藤艦長でした。
そして彼は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語で
「貴官らはよく戦った。
貴官らは本日、日本帝国海軍のゲストである。」
と訓辞して艦載の食料・水の殆どを供出して歓待すると、翌日全員をオランダ病院船に引き渡したのです。
工藤艦長は、身長185cm・体重95㎏と当時の日本人としては非常に大柄で、柔道三段の猛者。
しかし性格は至って温厚で、兵学校時代に(後に終戦時の総理大臣を務めた)鈴木貫太郎(↓)校長の薫陶を受けた彼は艦内での鉄拳制裁を厳禁し、階級で部下を区別せず分け隔てなく接していたといいます。
そういうリーダーだったからこそ、部下は彼の命令通りに敵兵を救助したのでしょう。
しかし工藤艦長はこの8ヶ月後に中佐に昇進したものの、体調を崩して1945年3月に前線を退き故郷で終戦を迎えました。
ところで、この美談・・・戦後の長きにわたり、公になることはありませんでした。
それは工藤中佐自らが戦後公職に就くことはせず、また海軍の同窓会などに顔を出さず、毎朝戦死した動機や部下の冥福を仏前で祈る日々を送り、1979(昭和54)年1月12日に78歳でこの世を去るまで家族にすらこの救助活動を一切口にしなかったから。
また『雷』が工藤艦長の転任後に多くの乗組員共々沈んでしまい、殆ど当時の救助活動に従事した証言者がいなくなったため。
しかし工藤中佐逝去から8年後の1987年・・・その時に救助され、後に外交官として活躍したサムエル・フォール卿が、アメリカ海軍機関紙に『騎士道』と題してこの事実を寄稿したことで、初めてこの史実が明らかにされたのです。
Sir Samuel Falle
この救助活動に関しては、こちらの著書で詳しく知ることが出来ます。
『敵兵を救助せよ!』 (草思社・刊)
著者の惠隆之介さんは取材中、フォール卿から
「貴君は武士道について知っているか?
武士道とは日本人の道徳の規範だった。
そして戦いにおいては、勝者は敗者の健闘を称え労ることが武士道の基本である。」
と諭されたことがあったとか。
私たちは、理不尽な行いがまかり通り精神主義一辺倒だと思われがちな旧日本軍の中にも、このような合理的思考を持った軍人が実在したことに誇りを持つと同時に、日本人として〝武士道〟を再認識したいもの。
大柄な柔道家でありながら、趣味は読書・・・部下からは敬意と親しみを込めて〝大仏〟と呼ばれていた武人のご冥福を、あらためてお祈りしたいと存じます。🙏