追 放  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今からちょうど160年前の今日、公武合体派が尊皇攘夷過激派を京都から追放したクーデター・・・その名もずばり

 八月十八日の政変

が起きました。
 

朝廷・孝明天皇(明治天皇の父↓)を尊王とし、外国を打ち払う〝攘夷〟を唱える長州藩を中心とした志士が、1862年から京都で行動を活発化。 

 

         

 

翌1863(文久3)年5月には長州藩が下関海峡にて外国船を砲撃する事件を起こして攘夷を示したものの他藩は続かず。

そこで長州藩の久坂玄瑞らが、孝明天皇に攘夷を約束した第14代将軍・徳川家茂(↓)を攘夷実行へと動かすべく、天皇による攘夷親征(大和行幸)を画策。

 

 

孝明天皇が石清水八幡宮に行幸する際に大阪城にいた家茂も同行させ、そこで天皇自ら攘夷のための軍議を開いて幕府から軍事権・施政権の奪回を目論んだのです。

 

この動きに危機感を持った公武合体派の薩摩・会津両藩は、それぞれの藩士・高崎正風と秋月悌次郎を公武合体派の領袖だった久邇宮朝彦親王(中川宮)に差し向け、長州藩が朝廷を利用しようとしていると注進。

 

また孝明天皇も自ら軍を指揮してまで外国を打ち払う気は無く、中川宮に対し長州藩を京から排除せよとの密命を下します。

 

そして同年8月18日早朝、会津藩兵1,500と薩摩藩兵150などが御所の九門を閉鎖。

 

長州藩が警備を担当していた堺町御門も他藩の警備に変更され、朝廷から長州藩寄りだった公卿・三条実美や姉小路公知、第13代長州藩主・毛利敬親とその子・定広にも京都からの追放処分が下されました。

 

この政変によって失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7名は、京に滞在していた長州藩兵約2,000に守られながら長州へと〝七卿落ち〟、長州藩も京を追われたのです。

 

結果、会津・薩摩両藩だけでなく淀藩・徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩ら27藩が政変に協力したことで徳川幕府の権威低下は顕著となり、天皇・朝廷の権威復活に繋がりました。

 

しかし京を追放された長州藩も黙っておらず、翌年6月に起きた 『池田屋騒動』(↓)をきっかけに京都へ出兵。