イジメ | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

江戸時代に江戸城内で起きた〝刃傷沙汰〟といえば、1701(元禄14)年3月に起きた浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた 『刃傷松の廊下』 が有名です。

しかし実は、この事件前後に江戸城内では計7回の刃傷沙汰が起きていました。

その中で最後の事件となった


 千代田の刃傷

が起きたのが、今からちょうど200年前の今日のこと。

事件を起こしたのは、西の丸の御書院番に任命されたばかりの松平忠寛(外記〔げき〕)という旗本。
 

御書院番とは、将軍直属の親衛隊・・・彼は弓術・馬術に長けており、弱冠20歳で徳川家斉に仕えることとなった若手のホープでした。

しかしその一方で、新参者にも拘わらず常に自らの信念を曲げず周囲と迎合することがなかったため、先輩からは煙たがられていた由。

当時旗本の風紀は乱れ、古参の旗本が若手を奴隷のようにこき使っていたそうですが、彼は特に目をつけられ弁当に馬糞を入れられるなど陰惨なイジメに遭ったそうな。
 

その鬱憤が溜まりに溜まった末に爆発したのが、1823(文政6)年4月22日。

外記は殿中で本多伊織・戸田彦之進・沼間左京の3名を斬殺。

間部源十郎・神尾五郎三郎の2名に傷を負わせ、自らはその場で自刃して果てたのです。 まだ33歳の若さでした。

      
      自害する松平外記 (『視聴草』 宮崎成身・画)

 

松の廊下の刃傷事件では、斬りつけた浅野内匠頭が切腹させられ被害にあった吉良上野介は、お咎めなし・・・これが赤穂浪士の討ち入り事件の端緒となったことは、皆さんもご存知の通り。

しかし今回の御沙汰は、それとは様相がかなり違いました。

詮議が老中・水野忠成によって厳重に行われた結果、外記の父親は免職になったものの松平家は改易を免れ、外記の子・栄太郎が家督相続を許されたのです。

 

一方、殺害された3人の所領は没収され、負傷した神尾が改易、間部は隠居を申し付けられるという、厳しい処分が。

おそらくこれはイジメた側の非を咎めると同時に、緩み切った旗本に厳しくお灸を据える意図があったのでしょう。

幕府の目論見通り、事件以降御書院番の風紀は引き締まったとか。

イジメをひた隠しにして責任を逃れている今時の学校や教育関係者とは、大違い。

いずれにせよ、イジメはした方・された方それぞれに悲劇をもたらすことを、この刃傷沙汰は教えてくれます。

最後に、同事件を題材にした小説をご紹介しましょう。

 『ふくろう』 (梶よう子・著 講談社・刊)

 

    

 

同作はこの刃傷に至る顛末と、その後の人間関係を描いたもの。

そのイジメの陰湿さには反吐が出そうになります・・・が、現代社会でも同様の事例は大人・子供それぞれの世界にあるはず。


書中に、こんな記述がありました。

「榊原様はからかいだと口にされましたが、その通りでしょう。誰もその(イジメられて自害した)藩士の死を悼んではおりませんでした。

からかった者たちにしてみれば、それ以上でも、それ以下でもないのです。 ただひと時の戯れでしかない。」


これがイジメの問題点・・・つまり被害者の苦しみを加害者が分かっていないことが、イジメが無くならない原因なのでしょう。

被害者が仕返しした途端イジメが無くなったディズレーリの事例が、それを逆証明していると言えます。(↓)

 

 

 

           人気ブログランキング