今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、
広瀬 武夫 中佐
の命日にあたります。
1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。
9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。
同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海軍兵学校に入校する傍ら講道館で柔道を学び4段の腕前に。
16歳の広瀬青年
兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、海門・比叡・筑波・扶桑 に乗船して太平洋での遠洋航海を体験、その間清水港では豪傑ぶりで鳴らした清水次郎長との交友エピソードも残しています。
日清戦争に従軍後、1985(明治28)年には海軍大尉に昇進。
必ずやロシアと戦う時期が来ると考えた彼は、敵国を熟知する必要性を痛感し独学でロシア語を学び始めます。
その努力を評価され2年後にロシア留学生に抜擢されると、ロシア語を学ぶ傍ら軍事施設を見学するなどして同国の情報を収集。
1899(明治32)年には駐留武官となってドイツ・フランス・イギリスを視察。
3年後の帰国時わざわざイルツークまで鉄道に乗って輸送能力を調べ、更にそこからは酷寒のシベリアを馬ゾリで横断し実情を探索。
ちょうどその頃、日本ではあの八甲田山の陸軍遭難事故があったのですから、それよりも過酷な条件の中16日で約2,000kmを走破したことは、実に驚くべき離れ業です。
そして彼の予想通り、やがて日露戦争が勃発。
戦艦 ・朝日の水雷長として出撃した広瀬大尉は、1904(明治37)年3月27日・・・ロシア艦隊の停泊する旅順港の入口に船を自沈させて動きを封じる決死の作戦実行部隊に志願。
第2回目の閉塞作戦は4隻の船を沈める計画であり、その中の一隻・福井丸の指揮官となって出撃。
そして一旦船を離れたものの、行方不明となった杉野孫七上等兵曹捜索のため帰船。
3度も船内を捜索したものの見つからず、仕方なくボートで離船した際に敵砲弾の直撃を受け戦死・・・まだ35歳という若さでした。
生涯独身で、部下への体面から女性とデートしても一切手を出さなかったという超硬派。
次郎長との付き合いや横綱・常陸山と義兄弟の契りを交わしたことからも、気骨ある人柄が偲ばれます。
その生真面目で職務に忠実な性格、そして我が身の危険を顧みず部下を探し回ったということで、彼は2階級特進で中佐となり日本軍初の〝軍神〟として崇め奉られました。
彼の壮絶な戦死はヨーロッパにも軍人の鑑として伝えられ、イギリス・ドイツでは絵葉書にもなり海軍士官教育の模範になったといいます。
また亡くなった後にロシア海軍軍人の娘・アリアズナ嬢との文通が明らかになりましたが・・・彼女は愛する異国人の悲報を聞きその場で卒倒、しかも以後生涯にわたって胸につけた喪章を外さなかったとか。
敵国の白人女性をそこまで惚れ込ませた広瀬中佐の人間的魅力は、その言動や逸話の数々から容易に想像できますが、その彼の生涯については、この本によって詳細を知ることが出来ます。(↓)
『 広瀬武夫 旅順に散った「海のサムライ」 』
(櫻田 啓・著 PHP研究所・刊)
私は常々不思議というか、不満があるのですが・・・なぜ現代の学校教育では、ケネディ大統領やチャーチル首相などの外国人や信長・秀吉・家康など中世の有名人・天下人を扱っても、広瀬中佐のように国の行く末を案じ部下を救うために自らの命を賭けた素晴らしい日本人を取り上げないのでしょう?
ただ軍人だから、と言う理由で除外するのはおかしいと思うのです。
伝説に近い有名人だけでなく、人の道を貫き私たちと同じ世紀を生き抜いた人物とその生き様をこそ、未来を担う子供たちに教えるべきではないでしょうか?
以前拙ブログでご紹介した、400名以上の溺れかかった敵兵を救助した工藤俊作中佐など、学校で教えない誇るべき先達の逸話を、私たちは子々孫々に語り継がねばなりません。(↓)
いい加減自虐教育から逸脱しなければ、子供たちが自分の国に誇りを持てなくなってしまいます。
最後に、お祖母様が広瀬少年に叩き込んだ 〝八か条〟 をご紹介致しましょう。
◆ 他人の悪口を言ってはなりません
◆ 嘘をついてはなりません
◆ 弱い者いじめをしてはなりません
◆ 人を軽蔑してはなりません
◆ 愚痴をこぼしてはなりません
◆ 人をねたんではなりません
◆ 約束は守らねばなりません
◆ 口にしたことは実行しなければなりません
・・・嗚呼、耳が痛い。
同郷の作曲家・滝廉太郎にとっても憧れだったという武人・広瀬中佐のご冥福を、尊敬の念と共に衷心よりお祈り申し上げます。