大東亜戦争末期、日本は本土の制空権をほぼ失い、東京大空襲を始め各主要都市は米軍による大規模な空爆に晒されました。
しかしそれとは別に、鉄道など交通施設も攻撃の対象となり、そのため軍人だけでなく一般市民も犠牲になりました。
その中でも最悪の被害者を出したのが、今から77年前の今日・1945(昭和20)年8月5日に起きた
湯の花トンネル列車銃撃事件
でした。
湯の花トンネルは、現在の八王子市高尾町の中央高速・八王子JCT近くのJR東日本・中央本線上にある、全長162mの短いトンネル。
この日、午前10時10分に新宿駅を出発し長野に行く予定だった419列車は、電気機関車ED16型7号機に牽引された8両編成。
軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されていたものの、富士演習場に行く予定の19名の軍人を除き、殆どが一般乗客でした。
8月2日の空襲により八王子駅が焼失していたこともあり、列車は予定より1時間遅れの午後0時15分に浅川駅(現・高尾駅)を出発。
この時すでに空襲警報が発令されていましたが、停車中に満員すし詰めでイライラしていた乗客から「早く列車を出せ」と怒声が飛んだこと、またこれ以上の遅延を回避し万一の際は湯の花トンネルかその先の小仏トンネルに避難することを考慮し、列車を出したとみられます。
現在の湯の花トンネル入口
そして1,000分の15~25という急勾配をゆっくり進み、湯の花トンネルの手前に差し掛かったところで、太平洋上から飛来した2機(もしくは3機)の米軍戦闘機P-51ムスタングが列車を発見、急降下して23インチロケット弾と機銃掃射で襲いかかりました。
幸いロケット弾は外れたものの、機関車と1号車が激しく機銃掃射されたため、列車は2号車の半分までトンネルに入ったところで停車してしまい、後続車両は格好の標的に。
米軍機は繰り返し機銃掃射を行い、乗客は車外に逃げたものの、49名の死者(国鉄発表、慰霊会は65名以上と主張)、130名以上の負傷者が出たとされています。
P-51ムスタング
現場は撃たれた人の腸が飛び出したり、赤ん坊が撃たれて母親が半狂乱になったりと、まさに阿鼻叫喚・地獄絵図のようだったとか。
戦闘機が去った後、列車は送電線が機銃掃射によって切断されたため動けず、蒸気機関車によって牽引され浅川駅に戻されました。
確かに交通網遮断は重要な戦術ではあります。
しかし日本軍がほぼ完全に制空権を失い、抵抗する力が残っていないことを知っていながら、なぜ反撃できない列車にこのように執拗な機銃掃射を行ったのか?
そこには別の意図があったとしか、私には思えません。
余談ですが、この列車にはたまたま筑摩書房創業者の古田晃氏が乗っていたそうな。
※古田氏に関する過去記事は、こちら。(↓)
彼が車内で原稿用紙に目を通していた時に機銃掃射が始まり、近くにいた乗客が撃たれその血が飛び散ったそうな。
その〝血染めの原稿用紙〟が長野県塩尻市にある市立古田晃記念館に展示されています。
お近くに行かれた際は、是非同記念館にお立ち寄りください。
※記念館HPは、こちら。(↓)
・・・本当の戦犯とは、一体どこの国だったのでしょうか?