かつてジャイアント馬場選手と共に全日本プロレスを支え、〝若大将〟・〝怪物〟といわれたプロレスラー、
ジャンボ鶴田 選手
今日は、彼の命日・二十三回忌にあたります。
1951(昭和26)年に現在の山梨県山梨市で生まれた彼の本名は、鶴田友美。
生まれた当初は身体が小さくて女の子のようだったのでカワイイ名前をつけられたのに・・・身長196cm・全盛期の体重は125kgにまで成長。😨
この日本人離れした体格で運動能力も超一流だった鶴田さんは
中央大学1年までバスケットボール選手でしたが、当時プロリーグもなくオリンピック出場の可能性が殆どなかったことから退部。
出場できる可能性が高いレスリングに転向を決意し、自衛隊の道場に通い始めて僅か1年半足らずで全日本選手権2連覇を達成。
グレコローマン100㎏超級の日本代表として見事1972年のミュンヘン五輪に出場しました。
その活躍がジィアント馬場さん(↓)の目に留まりスカウトされた彼は、「全日本プロレスが就職するのに一番いい」 と言って入団。
アメリカ修行を経て、鳴り物入りでデビュー・・・当時日本航空に就航したボーイング747にあやかって、リングネームは〝ジャンボ鶴田〟となりました。
だからというわけではないでしょうが、1984年に結婚した保子夫人は元日航のスチュワーデス。
全日本プロレスの看板レスラーとして脂の乗り切った鶴田選手の実力は外人レスラーも高く評価・・・1989年にはインターナショナル・PWF・UNのヘビー級タイトルを独占、3冠王に輝きました。
対戦相手によって、得意技・バックドロップの落とす角度を変えたとまで言われるほど卓越したテクニックを持っていた鶴田選手でしたが、一方で生真面目なインタビューの受け答えなどから、完全なエンターテイナーになり切れない印象が私にはありましたが・・・それもそのはず、彼はかなりのインテリだったのです。
1994年には筑波大学大学院修士課程に合格して体育研究科コーチ学を修め、1996年には慶應義塾大学・桐蔭横浜大学の講師、更に翌年には母校・中央大学の講師をも務める、まさに文武両道レスラーでした。
しかし、そんな逸材の命を縮めたのは、B型肝炎ウィルス。
元々キャリアであったことは分かっていたそうですが、インターフェロン療法がうまくいかず1992年に長期入院を余儀なくされた鶴田さんが、その直後から勉学の道をプロレスと並行して歩もうとしたのは、自らの命の限界を悟ったからなのかもしれません。
師匠・ジャイアント馬場さんが逝去した直後の1999年2月に引退を発表。
引退後アメリカで講演する鶴田さん
その後肝臓ガンへと病気が進行したため肝臓移植を決断するも、国内で手術が認められる身内の適合ドナーが見つからず。
そしてドナーが見つかったフィリピンで移植手術中にショック症状を起こして大量出血・・・2000(平成12)年5月13日に、まだ49歳の若さで帰らぬ人となりました。
今頃は天国のマット上で師匠・ジャイアント馬場さんが見守る中、弟子の三沢光晴さんとバックドロップ合戦に汗を流しているのかも。
2m近い大男だったのに毛虫が大嫌いだったという、非凡なインテリ・プロレスラーのご冥福を、かつての雄姿(↓)を観ながら心からお祈り致します。