今でも、彼女に憧れる人は少なくないでしょうネ。
今日は、女優からモナコ王妃へと華麗なる転身を果たした
グレース・パトリシア・ケリー
Grace Patricia Kelly
の命日・没後40周年にあたります。
彼女は1929年、元オリンピック・ボート競技の金メダリストにして一代で財を築いた父と、ドイツ人で元モデルだった母の間に、アメリカのフィラデルフィアで生まれました。
3人姉妹の真ん中に生まれた彼女は、子供の頃は引っ込み思案で不器用な少女だったそうですが、演劇には早くから興味を示していたそうです。
高校卒業後、両親の反対を押し切って女優を志しニューヨークへ。
アルバイトをしながら演技の勉強に励んだようです。
1951年、22歳でスクリーン・デビューを果たし、『真昼の決闘』でゲーリー・クーパー(↓)の相手役に抜擢される幸運に恵まれます。
その後はアルフレッド・ヒッチコック監督に気に入られ、『ダイヤルMを回せ』・『裏窓』・『泥棒成金』 等、数々の作品でヒロインを演じました。
1955年には 『喝采』 でアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞。
一流女優としての地位を確立し、その気品ある美貌から〝Cool Beauty〟と賞賛されたのです。
しかしアカデミー賞を獲得した時、彼女は意外にも
「オスカーを受賞した日は、私の人生の中で一番寂しい時間だった。」
というコメントを残しています。
その理由は、この時彼女に恋人がおらず、授賞式を終えた後誰も待つ者がいないホテルに寂しく帰ったから・・・。
しかしその直後、彼女の運命を大きく変える出来事が。
オスカー獲得の余勢を駆ってカンヌ国際映画祭に出席しモナコを訪れた際、同国のレーニエ公と出会ったのです。
レーニエ公は彼女の美貌に一目惚れして、即座にプロボーズ。
そして翌年の1956年4月に、2人は〝世紀の結婚式〟を挙げて、世界中の注目を集めました。
結婚後も映画出演のオファーが引きも切らず・・・しかし周囲の反対により、彼女がスクリーンに復帰することはなく、その後大公との間に1男2女をもうけます。
1957年に長女の妊娠を悟られぬよう、カメラマンからお腹を隠したエルメス社製のバッグが後に〝ケリーバッグ〟と命名され、一躍有名になったことをご存知の方も多いはず。
しかし一方で、フランス語が喋れないアメリカ人だった彼女は社交界で余所者扱いされてしまい、モナコの人々と打ち解けるまで何年もの辛い月日を過ごしたとも言われています。
王妃として公務をこなす傍ら、グレース王妃基金、ガーデン・クラブ、モナコ・バレエ団の創設等を通してモナコの芸術・文化の発展に尽力したケリーでしたが、1982年9月13日に乗用車を運転中、心臓発作に襲われ交通事故を起こし、翌14日に53歳の若さで帰らぬ人に。
美女と謎めいた死・・・M・モンローやダイアナ妃と同じく、ケリー王妃の事故には陰謀説が囁かれ、未だに事故原因ははっきりと解明されていません。
※ダイアナ妃といえば、グレース・ケリーとのこんなエピソードが。
1981年3月に、彼女がロンドンで開催された詩の朗読会に出席していた時のこと。
この催し物の主賓がチャールズ皇太子で、婚約中だった19歳のダイアナ妃(↓)も出席していました。
ところが用意されたドレスの寸法が合わず、彼女は恥ずかしさのあまり肩を落としていたのですが・・・その様子を見ていたグレース王妃が、ダイアナを化粧室に連れて行くと、緊張がほどけたダイアナは泣き崩れたのだとか。
そんな彼女に、グレース王妃はこう声をかけたのだそうです。
「あなた、心配しないで。 これからもっと悪くなるから。」
・・・この一言で、ダイアナの肝は据わったとか。
経験者ならではのアドバイスと言えますが、その後の2人の運命を暗示していて空恐ろしくもあります。
嗚呼、もし彼女がレーニエ公と出会わなければ・・・と残念に思う映画ファンは、私だけではありますまい。
しかし幸いにも、私たちは今でもスクリーンの中に美しい彼女の姿を観る事ができます。
最後に20世紀の映画界を彩った絶世の美女の艶やかな姿を懐かしみつつ、冥福をお祈り致しましょう。