苦 悩 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、皆さんもよくご存知のポスト印象派の画家、

 

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ

  Vincent Willem van Gogh

 

の命日・没後130周年にあたります。

       

ゴッホは1853年にオランダのフロート・ズンデルトで生まれました。

祖父が高名な牧師で父親もプロテスタント牧師、母親の叔父も有名な説教師だったという厳格な家庭で育ちながら、彼はそれに反抗してか大人も手を焼くほどの腕白で、中学も中退しています。

一方で中退後は美術商会社・グーピル商会ハーグ支店に務め、ロンドン店・パリ店でも働くと英語・仏語・独語を使いこなす明晰な頭脳の持ち主でもありました。

しかし最初は勤務態度良好だったものの、やがて仕事に疑問を感じ始めた彼の仕事ぶりが悪くなり、23歳の時クビに。

その後渡英して私立学校で独語・仏語を教えながら宗教活動に勤しむと、アムステルダム大学の神学部を目指すも、挫折。

1878年に入って伝道師として活動を始めるも、貧しい人に衣服を与え自分は裸で寝るなど極端な行動が目立ち、伝道師協会から免許停止をくらう始末。

伝道師の道も経たれた彼は、1880年の冬にフランスへ旅に出ますが、この時期に画家を志し独学でデッサンを描き始めます。

宗教から美術に転向した彼は、従姉で未亡人のケーに恋し、何度も自宅を訪れて求愛するも断られ、バーグに転居した後も娼婦のクリスティーヌと同棲を始めるなど、宣教師である父親や家族を悩ませる行動を繰り返します。

でも彼自身は
従兄の画家アントン・マウファから絵画の手ほどきを受けつつハーグ派の画家たちとも交流を深め、クリスティーヌが子供を産んだことで満たされた日々を過ごしました。


しかしその幸せは長続きせず・・・クリスティヌとの関係は1年半ほどで悪化し、1883年9月に別離。

3ヶ月後に実家に戻って作品を描き続けましたか、相変わらず女性関係で両親を悩ませたとか。

 

その後レンブラントの絵に感銘を受けたゴッホは、1886年3月パリに移住。

画廊に勤務していたテオのアパートに住み、彼の助力で多くの画家と親交を結び画風も大きく変化。

1887年3月には収集した浮世絵の展覧会を開いたり、同年11月に自らの作品の個展を開きますが、翌月には生活苦から精神に異常をきたします。

翌年2月アルルに移住すると、9月には有名な〝黄色い家〟に住み始め、その翌月にはゴーギャンとの共同生活を始めました。

       

しかし理想としたはずの生活は、短期間で破綻してしまいます。

同居2ヶ月後の12月23日、彼はゴーギャンと口論の末、自らの左耳たぶを切り落とす〝耳切り事件〟を引き起こし、精神病院に収容されることに。(口論の原因は不明。 また病名についてもてんかん説・統合失調症説などがありはっきりしていません。) 

       

                『耳のない自画像』

 

1890年5月に退院した彼はオーヴェール・シュル・オワーズに移住し、絵画コレクターで自らも絵を描く精神科医ガシェに診察・治療を施されながら制作に励みましたが、同年7月27日に自らの腹を拳銃で撃ち、その2日後の7月29日に37歳の若さでこの世を去りました。

私が知るゴッホの作品は、鮮やかというか派手な色使いの作品が多いですが、何と言っても記憶に残るのは、私が損保マン時代に話題となった、『ひまわり』。(↓)

 


宗教と芸術の狭間で苦しんだ彼の心情は私のような凡人には理解できませんが、その苦悩の中で生み出された作品が人々を感動させたことを知れば、彼もこの世に生を受けた価値を天国で感じているはず。

彼が存命中に売れた絵がたった1枚だったという逸話は有名(実際には数枚売れたそう)ですが、もしもっと売れていれば彼が自らの命を絶つことはなかったかもしれません。

そんな事を思いつつ、〝苦悩の画家〟の冥福を祈りたいと思います。

 

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