入 水 | ナベちゃんの徒然草
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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今から835年前の今日・1185(文治元)年3月24日、源平の最終決戦・『壇ノ浦の戦い』が行われ、ここで平家が滅亡しました。
 

  

 

その時に武将だけでなく多くの女性も命を落としましたが、その中で最高位だったのが平清盛の正室、

 平 時子

 

でした。

 

彼女は中級貴族だった平時信の娘として1126(大治元)年に生まれました。

宗盛を産んだ1147年に、武家であった平清盛との政略(公武合体?)結婚により正室となったようですが、清盛には前妻がいて2人の間には既に重盛・基盛の2人の男子がおり、清盛にとって宗盛は三男、時子は後妻でした。

 ※平清盛に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

その後二条天皇の乳母となった彼女は、長女・徳子(後の建礼門院)が高倉天皇に入内すると彼女の出産に立ち会うなど清盛一門と皇室の関係を深くする役割を果たします。

1180年に徳子が生んだ外孫が安徳天皇として即位すると、清盛と共に従三宮の宣旨を受け、また清盛が長男・重盛ではなく三男・宗盛を後継者とする意志を強くしたため、時子の出自が嫡流となりました。

そして1181年2月に清盛が亡くなると、彼女は剃髪し〝二位の尼〟と呼ばれ、平家一門の家長的存在に。

しかしその後の源氏との戦いで徐々に追い詰められた平氏は、壇ノ浦の戦いで滅亡したのですが、その際に時子は

「私をどこへ連れて行こうとするのですか?」

と問いかける、まだ6歳だった孫の安徳天皇を腕に抱き、

「心憂き世を去り、極楽浄土に案内致す。
浪の下にも都のさぶろうぞ。」

と答え、共に入水し自害を遂げました。

※この時、安徳天皇の母・建礼門院も入水しますが、源氏将兵の熊手によって引き上げられ、京に送還された後出家。 
大原寂光院で安徳天皇と平一門の菩提を弔い、1214年に59歳で没したとされています。 

 

この入水時に、彼女は〝三種の神器〟をも手にして海中に没し、神璽と神鏡は源氏軍が確保したものの、宝剣は見つからなかったと言われています。

       

           『安徳天皇入水像の碑』 山口県下関市・みもすそ川別館

 

それにしても、目に入れても痛くないはずの孫・・・しかも天皇を自らの手で海中に沈めるなんて、現代ではとても考えられない事。

そうしたのは、可愛い孫の行く末を案じ憎き源氏の手に渡すくらいなら・・・という、祖母としての愛情、あるいは平氏の総帥としての意地だったのか?

この辺りの心情、是非女性の皆さんに伺いたいところです。


もし貴女が時子の立場だったら、かわいい孫を水に沈められるでしょうか・・・と。

 

 

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