辻説法 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

私が1981(昭和56)年に就職した際、最初に配属されたのは東京の銀座営業所でした。

営業車で銀座界隈を毎日のように走り回っていた時、数寄屋橋の交差点で街宣車の上から声を張り上げて熱い演説をしていたのが


 赤尾 敏 

でした。 雨が降らなければ土・日も休みなく声を張り上げている姿を見かけては、

 

(もう高齢なのに、凄いバイタリティーだなァ・・・)

 

と感心するばかりでしたが、今日はこの衆議院議員を務めた経験もある右翼活動家の命日・没後30周年にあたります。

       

 

赤尾氏は1899(明治32)年に金物商の息子として愛知県名古屋市で生まれました。

父親は家業を継がず自ら独立して商売を始めた自由主義者のインテリだったそうな。

 

その血を受け継いだのか、高等小学校に入学した際ある教師から 「太閤秀吉は草履取りから天下を取った」 と聞かされ、「オレだって勉強すれば総理大臣になれる」 と将来を夢見たそうな。

 

旧制愛知第三中学に進学後17歳の時に結核を患い、療養のため父親が牧場を経営していた三宅島に移り住み祖父と同居を始めた彼は、幸いにも元気を取り戻します。

そして19歳の時に武者小路実篤の 『新しい村』 という本に出会い、牧場でユートピアたる〝新しい村運動〟の実践を目指すように。

島の孤児らを引き取って平等に作物を分配するなどしましたが、祖父が亡くなったこともあり、結局農場は島の有力者に詐取される羽目に。


しかしこの三宅島滞在中、後に社会党委員長になる浅沼稲次郎と出会い交流したことで社会主義を学び、後に日本共産党書記長となる徳田球一らの支援を受け、名古屋で東海農民組合連合会などを組織し、左翼運動を始めました。

右翼活動家としての赤尾氏しか知らない方は驚くでしょうが、この時代には天皇批判演説を行って身柄を拘束されたことも。

そして活動資金のカンパを要求したことを恐喝未遂だとして逮捕された際、それまで信頼していた愛知新聞の記者から掌返しで批判されたことから左翼活動に失望し、転向を決意。

獄中で仏教やキリスト教の書物を読み込み、関東大震災も獄中で経験した彼は、出獄後の1926年にメーデーからヒントを得て 『建国祭』 を企画。

平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人も集めて成功させると、頭山満らの賛同を得て 『建国会』 を結成し理事長に。

(この建国会には、一時期あの児玉誉士夫も入会していました。)

右翼でありながら、大東亜戦争に関しては 「アメリカと戦争するのは共産主義国ソ連の策略に乗るだけだ」 と激しく反対した彼は、開戦後の1942年に行われた翼賛選挙で東京6区から出馬し、大政翼賛会の推薦を受けない非推薦候補ながら見事当選。

ゾルゲ事件で逮捕・処刑された元朝日新聞記者・尾崎秀実は、取り調べ中の供述で


「戦時中、反ソ反共の立場から公然と理論的に戦争に反対したのは赤尾敏ひとり。」

と述べたそうな・・・スパイにも一目置かれた筋金入りの国士は、有権者にも一定の支持を得たのです。

そして当選後も威勢のよさは変わらず、施政方針演説をする東條英機にヤジを飛ばして退場処分を受けたことも。

しかし戦後GHQによって公職追放され、解除後の1951年に大日本愛国党を結成し総裁に就任。

翌年の総選挙に出馬するも落選すると、1954(昭和29)年から数寄屋橋で辻説法を始めました。


    

 

その後各種選挙に立て続けに立候補しましたが、それは立候補しないと選挙期間中演説が出来なくなるからだったとか。

1960年10月には、かつての盟友だった浅沼稲次郎・社会党委員長の刺殺事件が起きましたが、その犯人は赤尾氏に私淑した大日本愛国党員(※事件直前に離党)の青年でした。

 

また同党に入党僅か1ヶ月だった少年Kが、皇室を侮辱する小説 『風流夢譚』 を雑誌に掲載した中央公論社々長宅に侵入して起こした殺傷事件(嶋中事件)に関して殺人教唆などの容疑で逮捕されたことも。

(※Kも犯行当日の朝に離党を申し出ており、赤尾氏は証拠不十分で不起訴。)

 

常に親米反共を主張し、高齢で長時間立てなくなっても街宣車の上に椅子を持ち込み座りながら熱弁を振るい続けた彼は、1989年7月の参院選に史上3番目の高齢となる満90歳で立候補。

テレビの政見放送でも意気軒高なところを見せましたが、落選。

その約半年後・・・誕生日に最期の辻説法を行ってから3週間後の1990(平成2)年2月6日、心不全により91歳で大往生を遂げました。

赤尾氏の遺体を乗せた霊柩車は有楽町を回り、いつも辻説法をやっていた場所でクラクションを鳴らし、火葬場に向かったそうです。


もしネット時代の今ご存命であれば、赤尾氏はもっと多くの方に認知・支持され、保守の旗頭になっていたかもしれません。

現在の政治家からは殆ど感じることができない憂国の思いと、連日続けた辻説法のエネルギーの源泉は何だったのか?

そんなことが気になる方には、赤尾氏の姪にあたる赤尾由美さんが出版したこちらの著書のご一読をお勧めします。


 『愛の右翼 赤尾 敏』 (マキノ出版・刊)

 

       

触れ合った人々の証言から、赤尾氏の素朴な素顔が浮かび上がってきますょ。

同書の中で、弟(著者の父)が兄・敏氏について、

「世の中が左に傾いているときに、真ん中へ戻そうとしたら、強く右に引っ張らなければならない。 だから敏さんは極端に右に引っ張っているんだ。」

と語っておられますが、実に言い得て妙だと思う次第。

 

久しぶりに同書を読み返しながら、右翼というより〝愛国の志士〟の冥福を祈りたいと思います。笑3

※余談ですが、同書によると数寄屋橋で停めていた街宣車は、違法駐車だったそうな・・・。あせあせ

 

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