印象派 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、いわゆる〝印象派〟の画家として日本ではモネと共に人気が高い

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール

  Pierre-Auguste Renoir

 

の命日・没後100周年にあたります。

       

 

ルノワールは1841年に、フランス南部にある磁器工場が立ち並ぶ街・リモージュで仕立て屋の息子として生まれました。(7人兄弟の6番目)

他の印象派画家がブルジョワ階級出身の中で珍しく労働者階級の出だった彼は、3歳の時に家族共々パリのルーブル美術館近くに移住。

生まれつき美声だった彼は、9歳の頃作曲家グノー率いる教会の聖歌隊に入り、高い評価を受けます。

その才能を見込んだグノーは熱心にオペラ座の合唱団入りを勧めましたが、知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申し入れを受けた父親がこれを断り、聖歌隊も辞めさせてしまいました。

でも結果的に、それがルノワールにとっても人類にとっても正解だったのかも・・・。

 

13歳の時に絵付け職人見習いとして磁器工場に入りましたが、その頃は産業革命が進む時代・・・磁器業界にも機械化の波が押し寄せて失業したルノワールは、扇子の装飾職人を経て、20歳の時に画家になることを決意。

 

1861年11月にシャルル・グレールのアトリエに入塾すると、そこでモネやシスレーなど後の印象派画家たちと知り合いに。

そして師匠グレールの放任主義にも助けられ、自由に作品を描き研究を重ねた彼は、1862年に官立美術学校にも通い、翌年サロン・ド・パリに初応募するも落選。

 

しかし翌年に再応募して入選を果たし、以後は常連に。

1869年には一時期モネとキャンバスを並べて描いたこともありましたが、1870年に普仏戦争が勃発すると騎兵隊に従軍。

1871年にパリに戻りましたが、その頃からサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間たちは落選が続くように。

そこで彼はモネやビサロと共に共同出資で会社を設立し、1874年にサロンから独立したグループ個展(第1回印象派展)を開催。
(※上の写真はこの頃のルノワール)

 

しかし保守的な画壇では彼らの斬新な表現は受け入れられず酷評され、その後第2、3回の個展の評価も同様。

有名な大作 『
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876年 ↓)も厳しい評価をされたとか。

 

  

 

※この作品は、1990年に大昭和製紙のオーナー経営者・齊藤了英氏が約119億円で購入、「俺が死んだら一緒に荼毘に付してくれ」 と発言したことでも有名。           

 

当時は国内外から非難を浴び、ちょっとした騒動になりましたが・・・幸いにもそれが現実になることはなく、現在は他の収集家の手に渡っているとか。

 

しかし世の中には先見性があり彼らの作品に理解を示す人もいて、中でもシャルパンティエ夫妻はルノワールにとって大事なパトロンとなりました。

 

1878年には経済的な苦境を脱するため、やむなく印象派展から離脱しサロンに再出品して入選した彼はその翌年、後に妻となるアリーヌと交際を開始。

1881年からアルジェリア・イタリアを旅してインスパイアされた彼は古典主義への関心が強まりましたが、1890年以降は温かい色調の女性裸体画を数多く制作。

1892年の 『ビアノに向かう娘たち』 が4,000フランでフランス政府買い上げになったり、レジオンドヌール勲章(3等)を授与されるなど、珍しく生前から一流画家としての評価が固まりました。

 

    

3人の子宝に恵まれたものの、その一方で1897年に自転車から落下して右腕を骨折したことが原因で、以後慢性リウマチに悩まされるようになった彼は、1990年からその療養を兼ねて、南仏カーニュ=シュルメールで過ごし、1919年12月3日に78歳で病没するまで、
約4,000点もの膨大な作品を遺しました。

 

       

                1910年・70歳頃  


亡くなる数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを欲し、それを返す時息子に

「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」

と呟いたとか・・・芸術の底の深さを感じさせるエピソードですネ。

日本の浮世絵に影響を受けた半面、マティスやピカソだけでなく梅原龍三郎や岸田劉生など多くの日本画家に影響を及ぼしたロマン派を代表する巨匠の冥福を、今宵その作品を鑑賞しつつ祈りたいと存じます。

 

 

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