今から80年近く前の今日、第二次世界大戦の序章ともいうべき
ノモンハン事件
が勃発しました。
〝事件〟とは言うものの、実際にはモンゴル国境地域で起きた、日本軍(関東軍)と(モンゴル軍を支援する)ソ連軍の歴とした戦闘・紛争でしたが・・・。
もともとモンゴルと中華民国との間で国境線は協定されていたのですが、1932年に成立させた満州国は、そのノモンハン地域の国境線を従来より10~20km程南方のハルハ河にする旨を主張。
青・・・モンゴルが主張する国境線 赤・・・日本軍が主張する国境線
日本とソ連とは、それ以前から国境紛争が起きており、1938年7月には、張鼓峰で両軍の大規模な衝突が発生していました。
そしてこのノモンハンでの国境問題に、モンゴルと1934年に同国と軍事同盟を結んでいたソ連軍が口も手も出す形になったのです。
1939年5月11日、係争地でパトロールを行っていた満州国軍とモンゴル軍が交戦となり、その後日本軍(関東軍)とソ連軍双方が集結して、代理戦争が勃発。
5月11~31日と8月20日から停戦合意に至る9月15日まで、誰も住んでいない大草原で2回に分けて大規模な戦闘が行われたのです。
広大な草原を戦場とした陸軍機甲部隊同士の対戦となりましたが、戦車など近代的な装備を整え、兵力でも日本軍を圧倒していたソ連軍に、日本軍は大苦戦。
ソ連軍の戦車
停戦に至ったのは、ナチス・ドイツとの密約によってポーランド侵攻を目論んでいたソ連がノモンハンとの二局戦を嫌ったから・・・と戦後長年言われてきました。
その後も関東軍は再びソ連軍と戦うことを目論んでいたようですが、
実際には停戦直前の9月1日にドイツがポーランド侵攻を開始して第二次世界大戦が始まったことで国際情勢が緊迫したため、参謀本部からの強い中止命令によってノモンハン再戦は(幸いにも)実現しませんでした。
しかし1990年のソ連崩壊以降に同国の機密文書が公開されると、戦後日本軍大敗と言われてきたこの事件について、事実は大分違っていたことが判明。
確かに装備はソ連軍の方が上であり、総兵力は日本軍約58,000名に対しソ連軍約69,000名。(これに加えてモンゴル軍8,500名)
弾薬もソ連軍が豊富なのに対し日本軍は常時不足する中、無駄弾は撃たず一発必中を心がけ、夜襲をかけるなど銃剣を用いた接近戦で相手を倒すという前時代的な作戦ながら、戦死者は日本軍8,440名に対し、ソ連軍はそれを上回る9,703名。
ソ連軍の戦車に対し、日本兵はすぐ近くまで接近して火炎瓶を投げつけて燃やしたというのですから、勇猛果敢というか無謀というか・・・。
ソ連軍に対峙する日本軍の兵士たち
喪失した戦車は日本軍が92輌中40輌に対しソ連軍は戦車・装甲車823輌中約400輌、失った航空機は日本軍約160機に対しソ連軍約360機と、むしろ損害はソ連軍の方が大きかったとも言えます。
しかしだからと言って、日本軍が勝利したわけではありません。
国境線は、モンゴル側が主張するラインに押し戻されましたから。
この戦闘で、日本軍は装備・兵器近代化の必要性を痛感したはず・・・なのですが、残念ながらその体質は変わらず。
事件を隠蔽し現場責任者を左遷させ、その後も(物資不足もあるとはいえ)兵器の開発を怠り、戦法は相変わらずの肉弾戦と精神論に終始して大東亜戦争へと突き進んだのは、ご存知の通り。
同事件につき詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。
『はじめてのノモンハン事件』
(森山康平・著 PHP新書・刊)
左翼的 (日本軍に批判的) な記述が若干鼻につきますが、この事件について分かりやすく説明・分析されています。
さて、最後にこの戦闘における指揮官をご紹介します。 それは、
辻 政信 少佐
1902(明治35)年に石川県に生まれた彼は、陸軍幼年学校・陸軍士官学校とも主席で卒業した秀才。
大東亜戦争中はマレー作戦・ガダルカナル島戦などの参謀を務め、最終的に大佐まで昇進し〝作戦の神様〟と言われました。
しかし一方で(自信過剰から)指揮系統を無視して独善的に指揮を執った参謀としても有名。
参謀本部が圧倒的な兵力・軍事力を有するソ連軍と正面衝突を避けようと再三自重を促したにもかかわらず、報復を名目に独断で戦闘を継続したのも頷けます。
そればかりか、失敗の責任を部下に擦り付け自決を強要したことでも知られる人物。
このノモンハン事件の時もご同様でしたが、彼自身は作戦失敗の責任を取らされて左遷されたものの終戦まで生き残ります。
そして戦後は数年間隠遁生活を続けた後、突然戦記を上梓するとそれがベストセラーに。
有名になったことから政治家に転身し、衆議院議員4期・参議院議員1期を務めます。
しかしその参議院議員在任中に視察先のラオスで失踪し、1968年に死亡宣告を出されるという数奇な人生を歩みました。
もしかしたら、彼に自決させられた部下たちの怨念が・・・。
ただし、そんな彼が自らのノモンハン戦記の中で記しているこの部分に、私は共感します。
『(敵の)不拡大を欲せば、侵犯の初動に於いて徹底的に殲滅することが必要であり、我が譲歩で満足するような良心的な相手ではない。
日英会談を効果的ならしめる方法は寧ろ、不言実行の威力である。
万一ノモンハンで明瞭な敵の挑戦を黙視せば、必ずや第二・第三のノモンハン事件が(中略)続発し、遂に全面戦争に至る虞(おそれ)なしとしない。』
敵をソ連だけではなく支那・朝鮮に、そして関東軍を外務省に置き換えれば、彼の警告は現代にも通用すると思いませんか?