善 戦 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

中高年世代の相撲ファンならご記憶でしょう。

端正な顔立ちと188cmの長身と体重140kgという立派な体躯を持ち合わせた人気力士、


 蔵 間 

のことを。 今日は彼の命日・・・早いもので二十三回忌にあたります。


1952(昭和27)年に現在の滋賀県野洲市に生まれた蔵間竜也(たつや)少年は、小さい時からスポーツ万能。

水泳・ラグビー・柔道と多種目で活躍し、特に大柄な身体を生かした柔道ではそこそこの稽古で2段に。

たまたま地元講道館の支部長が当時の時津風親方(元横綱・双葉山)の知人だった縁で紹介され、彼は八幡高校を中退して角界入り。

(自称)〝双葉山最後の弟子〟となった彼は、1968年九月場所に初土俵を踏むと順調に番付を上げ、1975年5月場所で十両入りし関取となると翌年七月場所に新入幕。

端正な顔立ちで人気を博し、大柄で筋肉質の身体は相撲ファンの期待を集めました。

私自身もちょうど熱心に相撲を観ていた時期で、蔵間関に期待していた一人でしたが、実は彼の大ファンだったのが昭和天皇。

天覧相撲の際、説明役の春日野理事長に 「蔵間は、どうなの?」 とわざわざお尋ねになったそうで、理事長はその際に 「大関になります」 と太鼓判を押したとか。

それだけ期待が大きい逸材だったことは、確かでしょう。

         

しかし彼の幕内時代は、上に北の湖関や千代の富士関など強い力士が目白押し。

加えて彼自身も勝負に淡泊で、粘りながらも勝てない・・・常に勝ち越しギリギリという戦績が続き、ついた渾名が1970年代にテレビで人気となったキャラになぞらえて〝善戦マン〟。


1978年に10勝したのが最高で、あとは鳴かず飛ばず・・・贔屓にしていた昭和天皇が、再び天覧相撲の際

「蔵間、大関にならないね。」

とがっかりされ、それを聞いた春日理事長が

「私は陛下に嘘を申し上げました。」


と平身低頭で謝罪した、なんて話も。

その直後蔵間本人を理事長室に呼んで厳しく叱責・・・まぁ蔵間関にすれば、とんだとばっちりだったでしょう。

結局関脇が最高位で、昭和天皇が崩御された1989年に十両で引退。

確かに腰痛という持病に苦しめられたこともありましたが、おそらく生まれながらにして恵まれた運動神経と体躯、そして美男子と三拍子そろっていた彼には、「なにくそ」 と心中期すようなコンプレックスがなかったことが、伸び悩む原因だったのかもしれません。

通算765勝787敗25休、勝率が5割を切る.493。

    

現役126場所で全勝が1場所もなかったことが、それを端的に表しているといえましょうか?

そして屈曲な体躯の持ち主だった彼を、白血病が襲います。

引退直前の健康診断で慢性骨髄性白血病と診断された彼は、引退後年寄・錣山を襲名したものの病気のため翌年廃業。

その後はタレントに転身し、大相撲のコメンテーターとしてニュース番組に出演していましたが、なぜか彼の優勝予想は全く当たらず。

現役力士から、「頼むから名指ししないでくれ」 と泣きつかれたといいますから、その外し方の凄さがわかります。あせあせ

しかしその裏で病状は静かに進行し、骨髄移植を検討し始めた矢先の1995年1月上旬に急性に転化し緊急入院。

そして阪神淡路大震災が起きた9日後の1995年1月26日、多臓器不全でこの世を去ってしまいました。

まだ42歳という若さで・・・。

土俵上では善戦したのに、病気との戦いでは簡単に土俵を割ってしまったことが、何とも皮肉というか残念至極。

 

しかし亡くなる数日前に録音したという遺言に残された、

「誰からも同情されたくはなかった」

という言葉には、勝負師としての意地が・・・。

あらためて昭和時代を代表する二枚目力士のご冥福をお祈り致します。笑3


             
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