早いもので、今日は中高年野球ファンには忘れられない、あのサイドスロー・ピッチャー
小 林 繁 氏
の七回忌となります。
私が大学野球部時代にピッチャーをやっていた頃が全盛期だっただけに、今もって忘れられない選手の一人。
小林氏は1952年の鳥取県生まれ。
由良育英高校からノンプロの全大丸に進み、大丸神戸店勤務時代は和服売場を担当。
野球選手とは思えぬスリムな身体で和服を着こなし、当時から女性にはモテたそうな。
1971年に巨人からドラフト6位指名を受け翌年に入団すると、独特なフォームのサイドスローで、堀内・高橋両エースの後継者として活躍。
第1次長嶋巨人の優勝にも貢献しました。
しかし彼の名が球史に残ることになったのは、何といってもあの〝空白の1日・江川事件〟の犠牲者になったからでしょう。
1977年のドラフト前日、巨人軍は野球協約条文の不備を突き、江川投手と電撃契約。
しかしプロ野球機構がそれを認めなかったことで巨人はドラフトを拒否。
阪神が1位指名で交渉権を獲得するという異常事態となりました。
(※実はこの年、巨人はドラフト2位で落合博満選手を指名する予定でした。 もしボイコットがなければ同選手は最初からジャイアンツのユニホームを着ていたはず。
この事件は2人のみならず、何人もの男たちの運命をも変えたのでした。)
年が明けて1月末、当時の金子コミッショナーからの〝強い要望〟により江川投手は一旦阪神に入団、その後に阪神が指名した選手とのトレードで巨人入りすることに・・・そこで白羽の矢が立ったのが小林投手でした。
江川氏の後日談によると、彼自身は巨人側に
「トレードならば他の選手に迷惑がかからないよう金銭で」
と要請していたそうですが・・・しかし結果的に小林投手はキャンプイン前日という土壇場でトレード通告をされ、日本中を揺るがしたこの問題はようやく収拾へと向かったのです。
(といっても、この後江川投手が一軍登録されたのは6月でしたが・・・。)
小林投手は記者会見で、
「阪神に移籍した後の仕事で判断して欲しい。 同情は買いたくない。」
という潔いコメントを残し、阪神へ。
これによって小林投手は〝悲劇のヒーロー〟、片や江川投手は「エガワる」 という流行語になるほど〝ヒール役〟のイメージが定着する事となったのです。
その年、小林投手は22勝をマークして沢村賞を獲得する大活躍。
特に対巨人戦は8勝を挙げ、まさしく〝男の意地〟 を見せつけてくれました。
巨人ファンであると同時に江川ファンでもあった私でしたが、こと小林投手の活躍には心より拍手を送ったものです。
そして私自身よく彼の投球フォームをブルペンでふざけて真似していましたが、は関西の若手お笑い芸人だった明石家さんまさんが彼のモノマネでブレーク・・・一気に全国区で名前を売ったのもこの頃だったはず。
その後も毎年10勝以上を挙げましたが、「15勝出来なくなったら引退」 と公言していた同投手は、1983年に13勝しながら引退を発表。
以後解説者やコーチなどを務めていましたが・・・何年かぶりに彼の姿をTVで見たのは、2007年秋に流された江川投手との〝協演CM〟でした。
事前打ち合わせ・リハーサル一切なしのぶっつけ本番で、1時間以上にわたって収録されたというこのCM・・・2人はあの事件から実に28年ぶりの顔合わせだったとか。
「とにかく直接お会いして謝りたかった」 という江川氏に対し、「お互い、シンドかったょな。」 と相手を気遣いつつ、大人の会話に終始した小林氏・・・50歳過ぎてもカッコ良かったです。
その小林氏が日本ハムの一軍投手コーチとして2週間後のキャンプインの準備をしていた福井県内の自宅で突然倒れ、心筋梗塞により57歳で天に召されたのは、2010年1月17日昼前のこと。
訃報が伝えられた17日当日・日曜深夜の日テレ系スポーツ番組では、江川氏がメイン・コメンテーター。
CMでは未公開だった収録部分がふんだんに流される中、目を充血させた江川氏が 「もう一度マウンド上で対戦したかった」 と絞り出すようにコメントしたのが印象的でした。
突然の逝去を予期していたわけではないでしょうが、このCM録りによって騒動の渦中にあった当事者同士の対面が果たされたことは、今となればご両人にとってはもちろん私たちプロ野球ファンにとっても、心の奥底に淀んでいたシコリが多少なりとも解れたのではないでしょうか。
プロ野球ファンにとって実に感慨深いCMを放映してくれたことに敬意を表し、今夜は〝黄桜〟で献杯しつつ小林氏のご冥福をお祈りしたいと思います。
お時間のある方は、このCMのロングバージョンをご覧ください。(↓)
・・・最期に握手した時、2人はどんな会話を交わしたのか?
ちょっと、気になります。