談 判  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

党首会談からPTAの三者面談まで世の中には様々な話し合いがありますが、146年前の今日行われた会談ほど日本の行く末を大きく左右したものはないでしょう。


1868年3月13日、そして翌14日の2日間にわたって行われた


 西郷・勝 会談


江戸城の無血開城が決められた歴、史的な話し合いでした。


これに先立つこと2ヶ月前の1月11日、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍の総大将・15代湘軍徳川慶喜は、あろうことか兵を置いて側近と共にいち早く海路で大阪を脱出し江戸に逃走。

遺された幕府軍は散り散りに配送し、勢いを得た新政府軍は有栖川宮を東征大総督にいただき錦の御旗を立てて東進。

幕府側は徹底抗戦を主張する者がいたものの、陸軍総裁・勝海舟らは徳川家存続を条件として江戸城の明け渡しを決定し、慶喜は寛永寺に謹慎。


しかし新政府軍の西郷は慶喜切腹を要求し、戦闘も辞さない強硬派。


3月15日には江戸総攻撃の準備が着々と進められている中、3月13・14日の両日に渡って現在の港区・三田にあった薩摩藩江戸藩邸において、両者の会談が行われたのです。

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(※教科書にも載るくらい有名な絵ですが、実際には彼ら2人以外にも西郷と数日前に下交渉をした驀進・山岡鉄舟や薩摩藩・桐野利秋など双方数名の同席者がいたようです。)


この時の勝は、もし決裂した場合は江戸市内に火を放つ手筈を整え決死の覚悟で会談に臨んだそうですが、結果的に、徳川慶喜は切腹ではなく備前藩預かりとし、幕府軍の軍艦・武器を新政府軍に引き渡して江戸城を開城することで合意がなされました。
(※実際に開城されたのは翌4月11日)


もしここで会談が決裂していたら・・・新政府軍はイギリスから、そして幕府軍はフランスから後押しを受けて大規模な戦争に発展し江戸市内は火の海。

現在のリビアのようにドロドロの内戦へと発展し、西欧諸国の介入・植民地化は避けられなかった可能性が高く、日本史は大きく書き換えられていたことでしょう。


しかし、ここでひとつの疑問が・・・。

それまで強硬派だった西郷が、なぜ幕府側の要求を呑んだのか?

これにはいくつかの説が存在します。

① 薩摩出身で第13代将軍・家定の御台所だった天璋院篤姫が西郷宛て

  に徳川家存続を切実に願う嘆願書を届けたから。

② イギリス公使パークスが、内戦勃発による治安の不安定化と交易中断

  による損害を恐れ、西郷に圧力をかけた。

③ 西郷と勝は既に旧知の中であり、お互いの力量を認め合う仲。

  特に西郷は京都で勝から幕府の存在を前提としない新政権の構想を
  教示された借りがあり、今回はその勝の意見を呑むこと
顔を立てた。


①なら大河ドラマを放映したNHKが喜びますが、国政が(失礼ながら)女性の手紙1本で変わるってのはねェ・・・。

また②もありそうですが、あまり気に入りません。

個人的には〝女の涙〟でも〝外圧〟でもなく、③の〝男同士の信義則〟で決まった、と思いたいですが・・・皆さんのご意見は如何でしょうか?

えっ、歴史は女性が作るのョ!・・・ですって?あせあせ



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