戦国時代真っ只中の1567(永禄10)年、武田信玄は13年に及ぶ今川氏との同盟を破棄して東海方面への進出を企てます。
それに対抗するため、今川氏真は縁戚関係にあった北条氏康と結託し、武田領内への塩の供給を遮断・・・いわゆる 「塩止め」 戦術に出ました。
甲斐・信州には海がないため塩の自給はできず、領民は困窮。
苦しむ人々を見かねて塩を送り届けたのは、それまで何度も武田信玄と合戦を繰り返した越後の上杉謙信でした。
日本海・糸魚川から信州に向けて牛車に乗せられた塩が運ばれ、それが松本に到着したのが1568(永禄11)年の1月11日だったといわれています。
実際には、史実としてこの出来事を証明する書状は存在しないそうですが、松本ではこれを記念して1月11日に初市が立つようになり、それが現在でも〝飴市〟として存続しています。
またその時に牛を繋いだと言い伝えが残る〝牛つなぎ石〟もあるそうですから、おそらく事実だったのでしょう。
『敵に塩を送る』
は、この故事に由来しているわけです。
<上杉謙信>
さて、この言葉・・・ 「危機に瀕したライバルをここぞとばかりに叩くのではなく、逆に敢えて助ける」 美談として捉えられていますが、とかく抱かけているイメージと史実は、少々違っていたようです。
それは、『贈る』 ではなく 『送る』 ・・・この漢字一文字の違いにあります。
謙信は、決して塩を無償提供したわけではありませんでした。
上杉氏にすれば製塩業は領内の主要産業であり、内陸の武田領は貴重なお得意様。
ですから謙信とすれば宿敵・信玄を助けたというより、軍資金調達と自国産業振興のために敢えて今川・北条連合軍には同調せず塩止めをしなかった・・・というのが正しいようです。
さすが生き馬の目を抜く厳しい時代を生き抜く戦国武将・・・謙信は単なる善人ではなく、しっかりと損得勘定を計算していたんですネ。
今から500年近く前には彼のような強かな戦略家がいたのに、現在日本の政治家ときたら・・・。