閉じようと思っていたけれど、ぽつぽつと読んでくださる方がいることに気づき考えを翻しました。
今日書いたnoteです。
以前書いて取り下げPCに眠らせていたものを再掲しました。
なぜそうしたのかという気持ちと近況、もう一度だけと決めてスタートラインの立とうとしているけれど鬱々としてしまう体と心の模様など。
丸と丸がくっついた8。
2024年は8の年。
逆さにしても8。
上も下もないってこと。
ない混ぜになった世界では、
誰が上でも誰が下でもなくなり、
価値があったものが価値を失い、評価されなかったものが浮上してきたり。
混沌の中では、
全てを共有することになる。
共有せざるを得なくなる。
ある意味で、
強制的に平等な世界になってしまう。
あちらこちらで続く争い事、起こる災害。
どちらがどうだ、あちらの対応がどうだったと。
目線を身近に持ってきてみれば、
誰かを断罪したり非難したりと、自分の岸と向こう岸とで意見を戦わせ。
倫理に反することを吊し上げるけれど、その倫理は誰の信じる正義なのかわからない。
自分とは違う、そんなモノは不要だと叫ぶメディアもSNSも、世界のどこかで起こっている、民族浄化と大差ないように私には思えます。
世界の、社会の病気を共有している、させられている。
2024年は、共有の8。
太極拳の稽古をしている時にマスターがこう言っていました。
「マーシャルアーツでは、力はな、共有するもんや。」
いつかブログで書いたことがあったと思うのですが、
「8はコンテージアス、感染」。
伝染、伝播していくもの。
パレスチナのことも被災地を巡る諸々のことも、それらの不味さは私達一人一人の不味さにも通ずる。
他人事だと思うからどうとも言えるけれど、
自分ごとだと思うと、そんな世界になるまで放っておいた自分が恥ずかしくて何も言えなくなってしまう。
私達は、共有している。
上も下も、右も左もない。
それに気付かされるのはいつも痛い思いをしてからだったりする。
体や自然をみればよくわかります。
それが痛むことで初めて気づかされる私達。
円環2つがぐるぐるしている、8。
ゆっくりと螺旋階段を踏み外さぬように着実に。
noteを書いて思ったことは、
私の数秘術は、マッサージとヨガと私の経験のあれこれが練り合わさったもの。
とても当たり前だなあとつくづく思いました。
気を練る、という言葉が太極拳や空手にはありますけど、黙々と自分を捏ねるような時間や経験が当たり前ではなくなってきているように感じます。
大晦日から七草粥までは、コロナでベットの上で過ごしました。最近はとにかく暇さえあれば本を読んでいます。
頭が空っぽになる程、飽きるくらいに寝て、空きっ腹の脳みそに入れる活字はとてもおいしいです。
0、零はパワフル。
佳き一年にしていきましょう。
Kiki
今日の私のテーマ曲。
一気に元気が昇ってくるイントロ。
賑やかなのが苦手じゃない方はどーぞ!


