記事入力 : 2012/09/30 10:12

▲キム・サンフン大領は「大韓海峡(朝鮮海峡)は現在の位置ではなく、対馬の南側にあった」と主張する。


 金滉植(キム・ファンシク)首相が国会に出席して「たとえ歴史的根拠があったとしても、今さら対馬を韓国の領土だと主張するのは説得力に欠ける」と発言した。私もこの意見に同感だ。


 このため、キム・サンフン大領=大佐に相当=(54)と会うことが決まった瞬間「私自身、極右主義者と思われてしまうのではないか」という一抹の不安が脳裏をよぎった。現役軍人のキム大領は、学者ではないが「対馬の領有権」の研究に没頭している。何度も論文を発表し、『日本が隠してきた対馬・独島(日本名:竹島)の秘密』という本を出版、国会でも特別講演をしている。


 キム大領は、勤務先である関東大学の学群団(江原道江陵市)でプレゼンテーションを準備し、私が来るのを待っていた。初めて電話で話したときの激情的な口調とは違い、極めて紳士的な印象だった。


―独島問題を解決するために、わざと対馬にこだわっているのか。


 「私は対馬が韓国の領土だという客観的証拠資料を前提に話している。日本は、こういった事実があるということを知っていて、対馬を隠すために、独島に必要以上に固執しているのかもしれない」


―歴史的に対馬が韓国の領土だという資料は数多くあるだろう。しかし、それに劣らないくらい、対馬が日本の領土だということを記載した文書や地図も多い。


 「おっしゃる通りだ。例えば1750年代に製作された『海東地図』には『白頭山は頭、大関嶺は脊椎で、嶺南の大馬と湖南の耽羅を両手とする(以白山為頭 大嶺為脊 嶺南之大馬 湖南之耽羅 為両趾)』と書かれている。19世紀に作成された慶尚道の行政地図にも『対馬郡』と出ている。しかし、私はこうした古地図や古文書を証拠に語っているわけではない」


―キム大領が言う決定的な証拠資料とは何か。


 「日本の開港直後、米国は日本本土から約1000キロ離れた太平洋の無人島『小笠原』を見つけた。米国がこれを自国の領土に編入しようとしたため、日米間の領土紛争が起った。このとき、日本はその島が記載されている自国の地図(1785年)を提示した」


―すでに日本はそのような地図まで準備していたのか。


 「地図の作成者は林子平氏で、日本の領土主権にいち早く目覚めた人物だ。林氏は『海上防衛を重視し、周りの無人島を日本の領土として編入すべきだ』と主張した。朝鮮を征伐し、国家防衛の領域を拡大しなければならないとも主張した。いわゆる征韓論の元祖ともいうべき人物だった。林氏は日本と周辺国を偵察して5枚の地図を作成した」


―領土交渉で米国はその地図を見て諦めたのか。


 「米国は、林氏の日本語版の地図では客観的証拠にはならないと主張した。苦心した日本幕府は、林氏の地図を翻訳した『フランス語版』があるということを知った。これを証拠物とすることで、領土交渉に成功した。そして、その地図では対馬が朝鮮領になっていた。日本が米国との領土交渉の際に使用した地図には、そう出ていたというわけだ」


―その地図を直接確認したのか。


 「これまで発見された筆写本の地図には、独島は韓国領、対馬は日本領となっている。韓国国籍を取得した保坂祐二教授(世宗大学独島研究所所長)はこれを根拠として『国際的に公認された地図にこのように出ていることが、独島が韓国の領土であるという決定的な証拠』と主張した。しかし、その地図上でわれわれが見落としていたのは、独島だけではなく、対馬も韓国の領土になっていたという点だ」


―話が矛盾している。筆写本で対馬は全て日本領土になっていると今言ったばかりではないか。


 「その通りだ。しかし、その筆写本は全て捏造(ねつぞう)された可能性が高い。数年前に国会図書館の206号室の独島特別展示館で、フランス語版の原本を探し出すのに成功した。対馬の色は、韓国領を示す色で彩色されていた。私はこの地図を原本だと確信している」

 ―対馬が韓国領土と表示されていれば原本で、そうでないものは何らかの手が加えられたものと決め付けるのは、論理的とは思えないが。


 「記録によると、1806年にあるオランダ人が林氏の原本地図を一つだけ欧州に持ち帰った。これを持ってクラフロトという東洋学者が現地の偵察などを行った後、1832年にフランス語版を作り上げた。国会図書館のフランス語版がまさにその地図だ。古書収集家のハン・サンボク先生が国会図書館に寄贈したそうだ」


 そこで、ハン・サンボク氏(72)に電話インタビューを申し込んだところ、1980年代初めにオーストラリアで購入したもので「1832年の印刷本」になると説明してくれた。しかし、当のハン氏は「地図で対馬が韓国と同じ色の黄色で塗られているからといって韓国領だと主張できるかどうかは疑問」との反応を示した。

 以下はキム大領とのインタビュー。


―韓国の国会図書館に保管されたもの以外に、他のフランス語版の原本が発見されたことはないのか。


 「フランス語版は全部で数十部製作されたと記録されている。しかし、筆写本以外には発見されていない。『小笠原諸島』をめぐり米国と領土交渉を行った日本代表が、1863年にフランス大使を訪ねた。同代表がフランス語版を回収し、廃棄した可能性が高い。その直後に日本は対馬を日本の領土として帰属させている(1868年)。これに前後して、対馬を日本領と表記した筆写本が一挙に作られたのだと思う」


―林氏の日本語版原本は直接見たことがあるか。


 「日本語版でも、対馬が日本領となっている筆写本だけしか出回っていない。東京の国立国会図書館に原本が保管されているというが、確認できなかった。しかし、林氏が作成した『朝鮮八道地図』の原本は見つけた。林氏の故郷の仙台にある東北大学博物館のインターネットサイトで見つけた。大学側が“原本”と紹介していた。その地図でも対馬は朝鮮領と書かれていた。私がこれらの資料を根拠に2010年末に論文を発表すると、1カ月もたたずにインターネットに掲載されていた地図が削除されてしまった。その部分は『ノーイメージ(写真なし)』になっていた」


―対馬の領有権についてよりも、どうして現役軍人が対馬の研究に没頭するようになったのか気になる。


 「2008年初めに米国ジョージワシントン大学で研修を受けていたときのことだ。ニューヨーク・タイムズに歌手キム・ジャンフンさんが出した独島の広告を目にした。民間人もこうして努力しているのに、現役軍人として何か寄与しなければという気がした。ジョージワシントン大学は故・李承晩(イ・スンマン)元大統領が通った大学で、同元大統領が政府を樹立した後『対馬返還』を要求したことを思い出した。何が根拠で、そうした主張を展開したのか知りたかった」


 故・李承晩元大統領は、大韓民国政府の樹立(1948年8月15日)の3日後に行った初の記者会見で日本に『対馬返還』を要求した。翌年の年頭会見と年末会見でも「対馬という韓国の失地を回復するのだ。日本人がいくら主張したとしても、歴史は変えられない」と主張した。こうした圧力を受け、日本の首相が「実際に韓国人が2000人ほど居住している」という対馬の状況を天皇に報告している。しかし、6カ月後に韓国戦争(朝鮮戦争)が発生した。


―故・李承晩元大統領について何か資料はあったのか。


 「ジョージワシントン大学の図書館7階の特殊文書室で、同元大統領の1907年の卒業アルバムを見つけた。そこには『李承晩氏に国籍を聞くときは失礼のないように。彼の成績は全科目A、Bと、私たちの中で最も優秀だった。従って2年半で早期卒業できた。彼は歴史や哲学などのYMCAとの討論会で常に主要メンバーだった』という文章が、当時同じ学科の同級生によって書かれていた。李元大統領が大学で歴史関連の2科目を履修し、その後ハーバード大学(修士)とプリンストン大学(博士)でも歴史について研究したことが分かった」


―それが故・李承晩元大統領の「対馬返還」要求とどんな関係があるのか。


 「同元大統領が米国滞在時代に書いた『ジャパン・インサイド・アウト』(1941年)を見た。真珠湾への奇襲攻撃の7カ月前に、すでに日本が米国を相手に戦争を起こすことが予測されていた。その書籍には『日本と朝鮮の間、朝鮮と満洲の間などに境界があったということを忘れてしまっているようだ。日本がこうした境界を一つ、また一つと破りながら…』というくだりがある。同氏には実際に根拠があって『昔は境界線があった』と言ったはずだ。『対馬の領有権』に対する主張も、こうした脈絡から出てきたのだと思う」


―キム大領には過去、同分野について専攻、または勉強した経験はあるか。


 「全くない。ただ、そうした関心が生じたことで、米国で開かれたある古美術・地図展示会で1864年に発行されたアジアの地図を買った。地図の下には『米国ペリー艦隊の日本の現地偵察と測量によって作成した。日本と条約が締結されることによって米議会の指示で、米国政府が作成した』と書かれてある。この地図には大韓海峡が現在の位置ではなく、対馬の南側となっていた。日本の領土は彩色されていたが、対馬は韓国と同じく無色になっていた。これが研究にのめり込むようになったきっかけだ」


―当時、米国としては東洋のどの国にどんな島が属していたのか、知る手段がなかったのかもしれない、とは思わないか。


 「ペリー艦隊は前述した『小笠原』をめぐり日本と領土紛争を展開した当事者だ。当時、日本は林氏のフランス語版の地図を提示することで、交渉での勝利をものにした。そして、これを根拠に米国政府が製作した地図だった。だから対馬がどの国に属するかは知っていたはずだ」


―地図一つだけで多くのことを推測し過ぎているとは思わないか。


 「1855年に英国で製作された地図には、日本の各地方が区域別に番号で表示されている。その地図の下には『対馬と壱岐島は日本王国に含まれない』とある。1945年に国内で発行された『朝鮮解放記念版最新朝鮮全土』にも、対馬は韓国領と表記されている」


―しかし第2次世界大戦の敗戦国である日本と、米国などの戦勝国の間では、戦後処理のために「日本は韓国の独立を認め、済州島、巨文島、鬱陵島をはじめとする韓国に対する全ての権利と所有権、請求権を放棄する」とするサンフランシスコ条約(1951年)が締結された。この条約に『独島』と『対馬』は明記されていなかった。これで、故・李承晩元大統領の『対馬返還』要求も水泡に帰してしまったわけだ。


 「私たちは『戦勝国』の立場ではなかったため、交渉には参加できなかった。また、何よりも朝鮮戦争の最中だった。外交的制約が多かったのだ。このため、李元大統領は1952年に独島を含む『平和ライン』を設定したのだ。しかし、対馬を念頭に置き『この境界線は将来的に究明される新たな発見・研究、または権益の出現によって発生する新たな情勢に合わせて修正できることを宣言する』と付け加えられている」


―対馬に対する領有権主張は本当に現実性があると思うか。


 「当時のサンフランシスコ条約で『小笠原諸島』が米国に移った。しかし、日本の執拗(しつよう)な要求で1968年に引っ繰り返った。米国が過去の合意を受け入れて、その島を日本に返還したのだ。当時領土交渉の基準となった地図によれば、対馬の領有権は韓国にあるのではないか」


 キム大領からは引こうとする気配が一切感じられず、私はそのままソウルに帰るほかなかった。


 崔普植(チェ・ボシク)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版