「空母が一隻も…」元零戦パイロットの真実


 日本と米国が死闘を繰り広げた大東亜戦争で真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなどをくぐり抜けた旧帝国海軍の元零戦パイロット、原田要氏(95)が長野市内に住んでいる。当時の人たちはいかに戦争という国難を乗り越えたのか。東日本大震災と原発事故に直面している今、そのことを聞きたくて原田氏の住まいを訪ねた。(笠原健)

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 「当時は日清戦争や日露戦争の雰囲気がだいぶ残っていました。少年時代は戦争の勇ましい話、英雄的な話ばかりを聞いていましたからね」

 --昨年、日米開戦から70年がたちました

 「空母、蒼龍(そうりゅう)に乗り込み択捉(えとろふ)島の単冠湾(ひとかっぷわん)に着くと空母の赤城(あかぎ)、加賀(かが)、飛龍(ひりゅう)、翔(しょうかく)、鶴瑞鶴(ずいかく)のほか戦艦や駆逐艦が集結しており、連合艦隊のすべての艦船が集まったかのように壮観でした。そこで『米国と外交交渉をしているが、恐らく交渉は不成功に終わるだろう。そのときはハワイを攻撃することになる』と告げられ、米国と戦争することになるかもしれないということを初めて教えられました。『男の働き場所がきたなあ。お国のために働こう』と武者震いしました」

 --真珠湾攻撃に参加しましたね

 「上空での艦隊護衛を命じられました。せっかくハワイまで来たのだから、『真珠湾を攻撃する部隊に加えてほしい』と上官に直訴しましたが、『艦隊を守ることも大事な役目だ』と言われました。軍隊ですから、上官の命令には逆らえません。次々と発艦していく攻撃隊がうらやましくて途中までついて行き、引き返しました。攻撃隊が帰って来ると戦争に勝ったような雰囲気になり、お祝いの酒も出ました。戦勝気分で攻撃隊に参加した人たちは『戦艦を沈めた』『飛行機を吹っ飛ばした』と鼻高々でしたが、攻撃隊に参加していないわれわれは、はらわたが煮えくり返るような思いをしました」

 ■不安を覚える

 「ただ、攻撃にいった人たちに『空母は何隻いたんだ?』と聞いたら『1隻もいなかった』と言われました。われわれ空母のパイロットは空母の能力や実力を非常に理解していましたから、『空母が1隻もいないのはどういうことなのか。これはエライことだなあ』と不安を覚えました。それが次の年のミッドウェー海戦での大敗北につながります。攻撃隊に加わることができなかったのは本当に不満でしたが、守りの重要さをミッドウェー海戦で知ることになりました」

 --ミッドウェー海戦は大東亜戦争の分岐点になりました

 「ミッドウェー海戦から戦争は坂を転げ落ちるように守り一辺倒になりました。ミッドウェー海戦の前にセイロン島攻撃に参加しています。ドーリットル爆撃隊による空襲があって、ミッドウェー海戦へとなっていきました。セイロン島攻撃から帰国して上陸すると『海軍さん。今度はミッドウェーを獲りに行くそうですね』と言われました。上官からは『ミッドウェー攻撃に行く』と指令を受けていましたが、『何故、普通の人たちが知っているのか。大丈夫なのか』と不安になりました。勝ちに傲り過ぎていたのではないかなと思います」

 ■生きては帰れない

 --ミッドウェー海戦を生き残り、今度はガダルカナル島の戦いを迎えます

 「ガダルカナルのときは『もう生きては帰れない』と思いました。ミッドウェーで大敗北をして、われわれは鹿児島の笠ノ原基地に連れていかれ、缶詰め状態になりました。その理由について『ミッドウェーの敗北が分かってしまう』と説明されました。戦争は負けに傾いていますが、自分は戦闘機のパイロットという自信を持っていましたから、『どこかで使ってくれないかなあ』と思っていたら、『商船を改造した空母、飛鷹(ひよう)ができたからガダルカナルを取り返しに行く』と言われました」

 ■今でも忘れられない

 --昨年12月14日に信州大付属長野中学校で講演をされましたね

 「戦争は本当に悲惨です。スポーツのようにルールがありません。国際法はありますが、簡単に破られてしまいます。死んでいった人たちの思いを次の世代に伝えていくことが務めだと思っています。空中戦では敵機との距離が10メートルぐらいになるときがあります。相手の顔まで見えるときがあります。それが火だるまになって落ちていく。相手の顔を夢にまで見ますし、逃げ回っている相手を撃ち落とすわけですから、95歳を過ぎた今でもそのときの気持ちが忘れられません」

 ■国旗や国歌を尊ぶ

 --講演を続けるきっかけとなったのは

 「湾岸戦争です。それまでは戦争の残酷さを思い出すのが嫌で忘れようとしていました。しかし、若い人が、ミサイルが撃ち上げられるのをテレビで見ながら『花火のようで面白い』と喜んでいるのを見て、『これではいけない。戦争の話をしなければいけない』と思うようになりました」

 --歴史を軽視したり、国旗や国歌に敬意を払おうとしない人たちもいます

 「若い人には今ある平和に安住するのではなく、平和をもり立てていく努力をしてほしいと思います。国旗や国歌を尊重しないと日本民族のプライドをなくしてしまい、どこかの国の植民地や属国になってしまいます。どの国でも国旗や国歌はシンボルであり、ないがしろにしてはいけないと思います」


 ■原田要(はらだ・かなめ) 大正5年8月11日生まれ。長野市(長野県旧浅川村)出身。昭和8年に横須賀海兵団入団、12年に第35期操縦練習生を首席で卒業。16年に真珠湾攻撃に参加、翌年ミッドウェー海戦に参加、同年10月、ガダルカナルでの空中戦で墜落して重傷を負い、本土へ。北海道の千歳航空隊で終戦を迎える。戦後、託児所を開設し、47年に学校法人「ひかり幼稚園」として認可を受け、園長に就任。平成22年に園長を退任した後も園児と触れ合う日々を送っている。


 ■真珠湾攻撃 昭和16年11月26日、南雲忠一中将が指揮する機動部隊が択捉島の単冠湾を出撃。12月8日(米国現地時間7日)、6隻の空母から発進した攻撃機が米ハワイ・オアフ島の真珠湾にある米太平洋艦隊を攻撃。同艦隊に壊滅的な打撃を与えた。


 ■ミッドウェー海戦 昭和17年6月5日の日米空母の戦い。真珠湾で撃ち漏らした米空母撃滅のため南雲忠一中将率いる機動部隊がミッドウェーに向かったが、待ち構えていた米軍の攻撃を受けて、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻の空母を一挙に失った。


 ■ガダルカナル島の戦い 日米両軍は昭和17年7月から18年2月にかけてニューギニア東南のソロモン諸島のガダルカナル島で攻防を展開した。日本軍は次々と部隊を派遣したが、飢餓に苦しみ撤退を決定。この戦いで南太平洋の日本の勢力は大きく減退した。


 ■零戦 零式艦上戦闘機の通称。昭和15年に採用され、大東亜戦争で帝国海軍の主力戦闘機として運用された。抜群の運動性能と旋回能力に加え、20ミリ機関銃2挺を備える攻撃力、長大な航続距離を誇った。米軍からは「ゼロとは戦うな」と恐れられた。


 ■セイロン島攻撃 インド洋の制海権を巡る旧帝国海軍と英国東洋艦隊の戦い。南雲忠一中将率いる機動部隊は昭和17年4月5日、セイロン島を空襲し、2隻の重巡洋艦を沈めた。4日後の同月9日には英国の空母、ハーミズを撃沈した。


 ■ドーリットル爆撃隊 米国は国内の戦意高揚のために日本本土への空襲を計画。米軍のジェームズ・ドーリットル中佐が1942(昭和17)年4月18日、空母ホーネットから中型爆撃機B25を率いて飛び立ち、東京、川崎、横須賀、神戸、名古屋を爆撃した。本土空襲に衝撃を受けた日本軍部はミッドウェー作戦を発動した。


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 産経新聞(2012/01/02 22:10)