化粧地蔵から1分強歩き、「引地川」に架かる「引地橋」を渡りました。

 

    

橋を渡ると、県道43号線から左に分かれる道があり、一旦旧東海道は県道43号線から分かれました。分かれた道は至極普通の住宅地の道路でした。

 

分かれた道は1分少々で再び県道43号線に合流しました。

 

県道を歩いていた気が付いたのですが、マンホールのデザインが藤沢の藤になっていました。

    

県道に合流してから7、8分、藤沢宿の「京見附跡」に着きました。藤沢宿にはポイント毎にこのような案内板があり、そこには浮世絵も描かれていました。藤沢宿の京見附は、古図などからは判然としませんが、この辺りであったと伝えられています。近くには「見附」という屋号を持つ家もあるそうです。

 

「京見附跡」のすぐ先に「伊勢山橋」という橋がありますが、橋の下は川ではなく「小田急江ノ島線」が走っていました。

 

    

「伊勢山橋」の手前右側の石段を上ると「真願寺」がありました。17世紀中に願誉秀故上人が開山した常光寺の末寺で、文政3年(1820)にこの寺から出火した火災は南風により白旗神社や荘厳寺までの一帯も類焼したそうです。

 

「伊勢山橋」から2分弱の所にある「白幡交差点」から北を見ると、200~300m先に白幡神社の鳥居が見えました。ここまで焼失したということは、かなり大規模な火災だったようです。

 

街灯には「藤沢宿」の幟が下がっていました。

 

「白幡交差点」角の信用金庫の植え込みの中に藤沢宿の古地図がありましたが、この辺りは藤沢宿の西のはずれのようです。

 

案内図の20mほど先に「伝源義経首洗井戸」と書かれた標柱が立っていましたので案内に従い路地に左折しました。

 

    

マンション横の路地を約50mほど行くと

 

    

右手に墓と奥に井戸がありました。

 

1189年に自害した義経の首を鎌倉で首実検した後、浜に捨てられていた義経の首が、潮に乗って川をさかのぼり、里人に拾われこの井戸で清められたと伝えられています。

 

義経の首洗い井戸から約3分、右手の路地を少し入った所に「常光寺」がありますが、

 

山門を入って左手に6体のお地蔵さまが並んでいて、その後ろに「カヤの大木」が立っていました。「かながわの名木100選」に選ばれている名木で、樹齢約300年、幹回り5m、樹高25m、幹がまっすぐに伸び、中ほどから大きく枝を四方に張り出した巨木で、樹勢も旺盛で堂々としてました。

 

    

「常光寺」から旧東海道(国道467号)に戻り20mほど歩くと、「問屋場跡」がありました。藤沢宿には大久保町と坂戸町の2か所に問屋場がありました。ここは坂戸町の問屋場跡で、後に初代藤沢警察署になり現在は消防署の出張所になっています。

 

    

「問屋場跡」の100mほど先左手に「蒔田本陣跡」がありました。

 

蒔田本陣には朝鮮通信使も宿泊した格式ある本陣で、江戸時代の地誌「相中留思記略」に記された蒔田本陣の絵からも、他の建物との違いが画然としています。

 

    

「蒔田本陣跡」から2、3分歩くと「明治天皇行在所」の記念碑が立っていましたが、工事中の幕の陰になっていて、日本橋に向かって歩いていると見落としてしまいます。

 

    

記念碑から100m弱先の右手の路地の辺りが「堀内本陣跡」のようなのですが、説明板も碑もありませんでした。江戸時代の初期は大久保町の堀内家が本陣を務めていましたが、焼失したため坂戸町の蒔田家が明治3年まで本陣を務めました。

 

斜め向かいには、歴史を感じさせる重厚な建物が建っていました。

 

   

さらに1分強歩くと国道467号線と県道30号線との「藤沢橋交差点」が見えてきました。道路の反対側(北側)には「ふじさわ宿交流館」がありました。

 

    

旧東海道は藤沢橋交差点で県道30号線を左折するのではなく、手前の路地を左折します。路地へ直接わたる横断歩道がないため、藤沢橋交差点まで行き、すこしバックしました。

 

藤沢橋のたもとには「江の島弁財天道標」と呼ばれる道標が立っていました。この道標は江ノ島への道筋に立てられた道標の一つです。この道標は、管を用いて鍼を刺す管鍼術を江ノ島で考案したという杉山検校(1610~1694)が寄進したと伝えられています。正面には弁財天を示す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と刻まれています。市役所新館脇歩道橋付近に移設されていたものを、新庁舎建設の際、当時の浮世絵に描かれていた道標を参考にこの地に移設されました。

 

    

交流館の前には、その浮世絵と藤沢宿の説明板がありました。

 

県道30号線の藤沢橋の西側に架かる赤い欄干の橋が「遊行寺橋」です。旧東海道はこの橋を渡りました。

 

    

江戸から来て「遊行寺橋」を渡って右手が藤沢宿の中心地である大久保町、橋のたもとには高札場があり、右には今はありませんが「江ノ島一の鳥居」があり「ゑのしま道」の道標も立っていました。

 

つづく