近畿vs四国 | 昭和を懐古する部屋(パニック障害と共に歩むじじぃの話)

高校野球が始まりました.“春はセンバツから”ですからね.もはやこれも,昭和の死語ですなー.昭和おやじは愛媛の産,高校野球の観戦歴は約50年,四国代表の勝利を心から願い,その声援にこの身をささげる者です(キモー).期待の明徳義塾は本日登場で,まぁ何とか勝ちました.馬淵監督,50勝おめでとうございます.

 

今では四国代表の戦績は今一つ振るわず,他地域代表の草刈り場となっておりますが,昭和おやじの幼少時,高校野球が隆盛を誇った1970,80年代の四国代表は強力であり,近畿代表と四国代表の対決,という様相を呈しておりました(信じられないかもしれないけど,ホントなんだってばぁ).時の流れは速すぎる.四国勢は当時から体格で劣勢に立たされていましたが,温暖な気候の下,豊富な練習量と甲子園戦術(これも死語かな)でなんとか勝ち抜いておりました.

 

その近畿勢との対決ですが,まぁ,劣勢でしたね.いつの時代も近畿勢は強いわぁ.しかも,ここぞという時の試合で,ことごとく敗戦を喫していた記憶しかあーりません.悪いことだけがいつまでも記憶に残るのです.それでは恒例のベスト,いや,ワースト3編として,近畿勢に立ち向かった想い出の四国勢達,いってみよー!(余りにもローカルかつピンポイントな話題で恐縮です.興味の無い方はスルーを).

 

第3位:明徳高校

 現在の明徳義塾高校です.甲子園初登場は1982年(昭和57年)の春,監督は名伯楽の松田昇さんでした.好投手弘田を擁して優勝候補の一角でしたが,くじ運悪く2回戦であの箕島高校と激突しました.当然ですが箕島はばりばりの優勝候補で,エース上野山を中心にして例年通りに強力な布陣です.

 

試合はスコアレスで延長に突入,先攻の明徳が13,14回と2度リードするものの両回ともに箕島が追いつき,最後は43で逆転サヨナラ勝ちを収めたのでした.箕島といえば3年前の星稜との奇跡の18回戦が余りにも有名で,この試合は影が薄いのですが,四国勢としては忘れられない試合です.

 

この時,松田監督は77歳.この試合での心労が影響したのか,約半年後に鬼籍に入ります.この明徳義塾高校,平成の世に変わっても近畿勢には劣勢で,PL学園大阪桐蔭に痛い目に遭わされています.今年は何とかして欲しいー,ものです.

 

第2位:高知商業

高校野球のオールドファンにとって,高知商業と近畿勢の因縁といえば,瞬時にPL学園が思い浮かぶのではないでしょうか.1978年夏の決勝,1983年夏の準々決勝,1985年夏の準々決勝と,ここぞという場面で行く手を阻まれています.1978年は2年生左腕の森(後に阪急ブレーブス,ううう懐かしい),1983年は津野(後に日本ハム),1985年は中山(後に大洋)と,常に強力なエースを擁しながらもPLはそれを上回る戦力で迎え撃ち,“もぉー,どうにも勝てん”と思ったものでした.

 

その中で1試合だけ懐古するならば,1978年でしょう.高知商業は東海大四と倉吉北をクラッシュした後,仙台育英,報徳学園,岡山東商も比較的楽に降ろして決勝進出,エース森も絶好調です.一方のPLは,準決勝で中京を延長12回奇跡の逆転劇で降ろすという死闘を演じて消耗気味,高知商業の勝利を疑いませんでした.決勝戦当日も森は相変わらず好調を維持,力強いストレートを中心に強気の投球でPL打線を抑え込み9回表を終了して20,昭和おやじはここで勝利を確信しました.

 

ところが9回裏,PLの先頭打者が出塁するや地元PLへの応援で甲子園の雰囲気が一変,エース森の顔面からは血の気が引き,明らかに弱気の表情に変わった様が見て取れました(ココ212秒からご覧あれ,恐る恐るボールを投げています).その後,西田真二(後に広島)の同点打を経て最後は力のないストレートがど真ん中に吸い込まれ,それを逃すはずもなくPLが32の逆転サヨナラ勝ちを収めたのです.

 

 

イヤイヤ,懐古するってツライ.でも頑張ります(なんのこっちゃ).

次回は,待望の第1位.往年の高校野球ファンであれば既に予想がついているであろう,伝説のあの高校が登場しまーす.