「スッタ・ニパータ」
 

仏教の最初期のパーリ語による経典。

スッタは経、ニパータは集まり、あわせて「経集」となるが、多くの翻訳は『ブッダのことば』と題する。

その用語や内容などからみて、現在伝わる経典中の最古の資料と考えられている。

その内容はきわめて素朴で平易でありつつ、人生の真実にそのまま触れ、仏教術語を用いずに、釈迦(しゃか)の教え、ないし原始仏教の核心を、むしろ淡々と語る。仏教思想の源泉を知るのに最適の書といえる。(引用:コトバンクよりhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF-1551846)

 

「スッタ・ニパータ」の1章の「3、犀(さい)の角」を、私なりに時々、解析していきたいと思います。

 

「犀(さい)の角」とは何でしょうか?

 

犀(さい)の角は一本です。

すべての存在を存在させ、その存在を変化、運動、移動させる、ひとつの動きの象徴だと思います。

 

35、 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

 

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。

とありますが、暴力は体の暴力でなく、自分の観点からの決めつけのことだと思います。

 

人間勝手、自分勝手な観点から、自分も含めあの人はこうだとか、あの存在はこういう存在だと、勝手に決めけことが暴力なのです。

自分も他人から勝手に決めつけられたら、窮屈ですよね。

これが悩みへと発展していきます。

 

自分の観点固定に気づけず、外せず、子供と接した場合。

子供は親の勝手な決めけの最大の被害者になります。

だから子を持つなと説いているのでしょう。

 

友達も同じです。

関係性が深まれば深まるほど、人間勝手な期待にお互いが応えなければなりません。

 

この現実は人間の五感と脳の観点がつくり出した結果態の錯覚です。その錯覚にハマり込むのではなく、それを成り立たせているひとつの法則、源泉動きでひとつ生きなさいというメッセージだと思います。

 

その状態になった時に、自分の観点を統制できるので、この現実を楽しめるようになるのでしょう。

 

 

36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 

会話をしたり、一緒に遊んり、活動をしたりして、楽しければ、愛情が生じます。そうして、自分なりに相手の喜ぶことをしてあげたいと、お互いに尽くしたとしても、判断基準が違うので、誤解が蓄積されます。

 

例えば、猛烈に愛し合った虎と牛の場合。

虎は自分の食べたい新鮮な肉を我慢して牛のために捧げ、牛は自分が食べたい新鮮な草を我慢して虎のために捧げ続けたら、いつか我慢の限界がくるでしょう。

お互いが最善を尽くしても結果は破綻です。

自分の判断基準からみて相手に注ぐ愛情は、禍いとなります。

 

自分の判断基準から自由になって、源泉動きひとつで生きなさいというメッセージだと思います。

 

川名哲人