あ、最近ブログを読んでくれている方が増えて、非常にうれしく思います。
これからも、続けていきますので、よろしくお願いします( ´艸`)
テストはいろんな意味でオワタかもだけど、オプティミストの僕はそれくらいのれんに腕押し笑
先日のイベントで、インドのカースト制度の比較として、日本の自由さを述べているのを聞いて感じた
ことを書こうかと思います。
結局、日付変わりますね、こりゃ。
サッカーもいい感じに白熱してますねヾ(@°▽°@)ノ
勝ってほしいものですヘ(゚∀゚*)ノ
さて、そんなこんなで、サッカー見ながらの更新ですが。
自由についての限界について前回考察したのですが、カースト制度や階級制度における自由についても考えたいと思います。
階級制度化における自由とは、自己選択しない自由です。
これは、日本のような社会においては非常に懐疑的にならざるを得ないと思います。
しかし、案外これは日本においては非常に有益であると思います。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスのギリシャ哲学人たち。
この人たちは、端的にいえば奴隷制度を容認します、。
プラトンに関して言えば、社会におけるイデアによる分類で最も階級の低い人間、つまりは欲望に優れる者がその階級であると解しても良いでしょう笑
まぁ、ヒエラルキーが嫌いな方も、ヒエラルキーにおける機能を少し転換してみると割と有益であると思います。
最近はプラトンやアリストテレス結構好きです。
なぜか。
このひとたちが、目的論的な考え方に基づくからです。
つまり「~とは○○のためにある」といったことです。
あなたは~に優れているため-になるべきであるという発想。
「自由選択しない自由」とは自由選択できない人間に対して適応されるべきである。
それは、自由選択できない人は「自由選択すべきでない人間」ととらえればそれでよいと思うからです。
これは自分が普段生活している中で「何かしたい、けど自分では動けない」と言った人はそもそも本質的には「選択したくない」のではないのかと思うのです。
そういう能力にすぐれない人は無理に選択せずに人にこうあるべきであると生まれてきた瞬間に決まっている(と考えられている)役割(目的)を決めてもらう方が楽なのではないかと思うわけです。
ですが、これを無量に認めてしまうことも非常に危険です。
例えば「学生とは勉強すべきである」ということを完結してしまうことによる危険性というのは、学生になった人間の可能性を限定してしまう危険性があります。
だから、民主主義社会においてはこの貫徹をしてしまうと反発が強くて、なおかつ、うまくいかないでしょう。
それに、目的は神から与えられるものと考えられているので、いまいち受け入れがたいです笑
しかし、選択したくない人に対して自由を押し付けて選択を強いるのは非常に「楽」ではないのです。
なぜ奴隷制度を容認するのか、その原因はここにあります。
奴隷の人は奴隷であるべき人間なのです。(もちろん、奴隷貿易は許されるべきではありませんが、それはこの理論の中には含まれません。社会制度における問題はまた別のイデアの問題。)
カントも言うように、理性が欲望に劣後する人間というのは、そもそも、欲望の奴隷であり、そこに選択の自由を許容すべきではないかも知れません。
それに日本にも自由競争下における資本主義の奴隷が大量に発生しています。
まぁ、正直これは良いんです、しょうがないです笑
そういう点では日本の教育は非常に良くできている。
「一生懸命働いてお給料をもらいことが美徳」だと考えられているのでしょう。
ただ…結果経済発展の阻害要素かとも思います…
選択する自由だけじゃなく、選択しない自由も考えればより多くの人が楽であることができるのかもしれません。
またインドのカーストとかでは、また状況が全く違うと思います。
彼らは、それぞれの生活にそれなりに満足してますし、階級から抜け出すという概念があまりないという点で思想そのものが大きく異なります。
それぞれの階級での満足、これはある意味プラトンの理想国家に近いのかもしれない。
ただ、その国家においての階級変更は、それを認めない点においては、カースト等の古い階級制度はいけない。
その点に留意して、階級の制度においては一定の能力主義を認めるべきであると思います。
そこが相違点であると思います。
それぞれの階級の人が、それぞれの幸せを得ている世界という点では良いのかと。
物乞いの子も、両親が物乞いだから物乞いなだけであって、物乞いとしての幸せを持っているのです。
これを受け入れるのは奇妙な感じでしょうが、自由主義の中での格差とでは全く違います。
なぜなら、それが神が与えた使命であり、自分はそう生きるために生まれたのだから、その役割をはたしている限り幸せで、充実した人生であるのです。
まぁ、これの成否については考えるところはありますが、それぞれの幸せを求める点で非常に有意義。
家族制度等を否定して、とにかく教育を行うのは誰であるべきかという議論をするのは良くないとも思うんですが、それは日本に僕が生きているからでもあるでしょう笑
僕らは自由なのだろうか。
僕は、選択肢の多さ、これに日本の魅力を感じます。
食事も世界中のものが食べられる、しかも海外のものを大きく凌駕するクオリティーで。
本もいくらでも手に入る、サービスも良い。
しかし、この選択肢の多さにおぼれている人がいる。
激しい情報の波に襲われている人がいる(この点に関しては僕もそうかもしれないです。)
そういった中で、はい、自由だからなにしても良いよってのは無責任だ。
というか、現実こまっている人がいる。
そして、やりたくもないことを毎日やって、苦しんでいる人がいる。
そういう現実もあるわけですが、僕は自分を自由だと胸を張って言える。
「限られた選択肢の中での自由だろ」とか批判する方には、同意しかねます。
「限られた選択肢であっても、すべての選択肢を解明したわけでもない人には、それを指摘する権利はあるのだろうか。」と。
むしろ、限られた選択肢の中でもおぼれている人がいるのだから、それを無限にしてしまうのは非常に恐ろしいことだと思うんだ。
まぁ、選択肢を無限にしても、一人の人間の中にある選択肢ってのは、おおよそ限られてくるから、ある種常に有限であるのかと思う。
そこが楽じゃない方はヒエラルキーの中にある安らぎに目を向けてみるのもいいのかもしれない。
そんな僕も、今までの概念を破壊するような出会いを日々求めている。
旅したいな。
アメリカまであと2週間強…楽しみだ( ̄▽+ ̄*)
夜中に失礼しました。
明日も朝ブログ、よろしくお願いします!ヾ(@°▽°@)ノ
これからも、続けていきますので、よろしくお願いします( ´艸`)
テストはいろんな意味でオワタかもだけど、オプティミストの僕はそれくらいのれんに腕押し笑
先日のイベントで、インドのカースト制度の比較として、日本の自由さを述べているのを聞いて感じた
ことを書こうかと思います。
結局、日付変わりますね、こりゃ。
サッカーもいい感じに白熱してますねヾ(@°▽°@)ノ
勝ってほしいものですヘ(゚∀゚*)ノ
さて、そんなこんなで、サッカー見ながらの更新ですが。
自由についての限界について前回考察したのですが、カースト制度や階級制度における自由についても考えたいと思います。
階級制度化における自由とは、自己選択しない自由です。
これは、日本のような社会においては非常に懐疑的にならざるを得ないと思います。
しかし、案外これは日本においては非常に有益であると思います。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスのギリシャ哲学人たち。
この人たちは、端的にいえば奴隷制度を容認します、。
プラトンに関して言えば、社会におけるイデアによる分類で最も階級の低い人間、つまりは欲望に優れる者がその階級であると解しても良いでしょう笑
まぁ、ヒエラルキーが嫌いな方も、ヒエラルキーにおける機能を少し転換してみると割と有益であると思います。
最近はプラトンやアリストテレス結構好きです。
なぜか。
このひとたちが、目的論的な考え方に基づくからです。
つまり「~とは○○のためにある」といったことです。
あなたは~に優れているため-になるべきであるという発想。
「自由選択しない自由」とは自由選択できない人間に対して適応されるべきである。
それは、自由選択できない人は「自由選択すべきでない人間」ととらえればそれでよいと思うからです。
これは自分が普段生活している中で「何かしたい、けど自分では動けない」と言った人はそもそも本質的には「選択したくない」のではないのかと思うのです。
そういう能力にすぐれない人は無理に選択せずに人にこうあるべきであると生まれてきた瞬間に決まっている(と考えられている)役割(目的)を決めてもらう方が楽なのではないかと思うわけです。
ですが、これを無量に認めてしまうことも非常に危険です。
例えば「学生とは勉強すべきである」ということを完結してしまうことによる危険性というのは、学生になった人間の可能性を限定してしまう危険性があります。
だから、民主主義社会においてはこの貫徹をしてしまうと反発が強くて、なおかつ、うまくいかないでしょう。
それに、目的は神から与えられるものと考えられているので、いまいち受け入れがたいです笑
しかし、選択したくない人に対して自由を押し付けて選択を強いるのは非常に「楽」ではないのです。
なぜ奴隷制度を容認するのか、その原因はここにあります。
奴隷の人は奴隷であるべき人間なのです。(もちろん、奴隷貿易は許されるべきではありませんが、それはこの理論の中には含まれません。社会制度における問題はまた別のイデアの問題。)
カントも言うように、理性が欲望に劣後する人間というのは、そもそも、欲望の奴隷であり、そこに選択の自由を許容すべきではないかも知れません。
それに日本にも自由競争下における資本主義の奴隷が大量に発生しています。
まぁ、正直これは良いんです、しょうがないです笑
そういう点では日本の教育は非常に良くできている。
「一生懸命働いてお給料をもらいことが美徳」だと考えられているのでしょう。
ただ…結果経済発展の阻害要素かとも思います…
選択する自由だけじゃなく、選択しない自由も考えればより多くの人が楽であることができるのかもしれません。
またインドのカーストとかでは、また状況が全く違うと思います。
彼らは、それぞれの生活にそれなりに満足してますし、階級から抜け出すという概念があまりないという点で思想そのものが大きく異なります。
それぞれの階級での満足、これはある意味プラトンの理想国家に近いのかもしれない。
ただ、その国家においての階級変更は、それを認めない点においては、カースト等の古い階級制度はいけない。
その点に留意して、階級の制度においては一定の能力主義を認めるべきであると思います。
そこが相違点であると思います。
それぞれの階級の人が、それぞれの幸せを得ている世界という点では良いのかと。
物乞いの子も、両親が物乞いだから物乞いなだけであって、物乞いとしての幸せを持っているのです。
これを受け入れるのは奇妙な感じでしょうが、自由主義の中での格差とでは全く違います。
なぜなら、それが神が与えた使命であり、自分はそう生きるために生まれたのだから、その役割をはたしている限り幸せで、充実した人生であるのです。
まぁ、これの成否については考えるところはありますが、それぞれの幸せを求める点で非常に有意義。
家族制度等を否定して、とにかく教育を行うのは誰であるべきかという議論をするのは良くないとも思うんですが、それは日本に僕が生きているからでもあるでしょう笑
僕らは自由なのだろうか。
僕は、選択肢の多さ、これに日本の魅力を感じます。
食事も世界中のものが食べられる、しかも海外のものを大きく凌駕するクオリティーで。
本もいくらでも手に入る、サービスも良い。
しかし、この選択肢の多さにおぼれている人がいる。
激しい情報の波に襲われている人がいる(この点に関しては僕もそうかもしれないです。)
そういった中で、はい、自由だからなにしても良いよってのは無責任だ。
というか、現実こまっている人がいる。
そして、やりたくもないことを毎日やって、苦しんでいる人がいる。
そういう現実もあるわけですが、僕は自分を自由だと胸を張って言える。
「限られた選択肢の中での自由だろ」とか批判する方には、同意しかねます。
「限られた選択肢であっても、すべての選択肢を解明したわけでもない人には、それを指摘する権利はあるのだろうか。」と。
むしろ、限られた選択肢の中でもおぼれている人がいるのだから、それを無限にしてしまうのは非常に恐ろしいことだと思うんだ。
まぁ、選択肢を無限にしても、一人の人間の中にある選択肢ってのは、おおよそ限られてくるから、ある種常に有限であるのかと思う。
そこが楽じゃない方はヒエラルキーの中にある安らぎに目を向けてみるのもいいのかもしれない。
そんな僕も、今までの概念を破壊するような出会いを日々求めている。
旅したいな。
アメリカまであと2週間強…楽しみだ( ̄▽+ ̄*)
夜中に失礼しました。
明日も朝ブログ、よろしくお願いします!ヾ(@°▽°@)ノ