すいません、この日は日々の出来事を書いたっていうよりも
自分で考えることが非常に多い日だったので、この日だけは別枠で書こうかと思いましたヘ(゚∀゚*)ノ


2月25日<無常>
ランのところにゴー!
ピックアップに乗って行きました、ここでも運転手さん半ば道にまよっとるがなw
ってか、ラさんのところに行くまでに迷わない運転手さんいないw
その時のピックアップトラック自由な法学部生の思想・行動の記録。-ピックアップトラック
んで、この前注文した商品が作られてました!
うん、良いね、これでストックが減るのだろうか、これが一応一大プロジェクト!
どうなったんだろうw

<番外>
ミャンマーの人は本当に優しい、いや本当に、びっくりするくらい。
でも、それは俺らが思うことで、実際のことはわからないです。
自分の優しさという概念の小ささに何と哀れなことかと思った。
自分の力の小ささの何とちっぽけなことか。

道に腕がない人人が座っていても、なんとなく通り過ぎていける自分。
その人の隻腕にだかれている目がろくに開いてない子どもの唸り声も、聞こえていないかの様に通り過ぎる自分。

その人達の手の中にある一握りのお金を見て、「誰が渡したんだろうか」とか、当事者感情を持てない自分。
みんな通り過ぎていく、、、黒塗りの人達
その中の一人って感覚。

その人の人生にとっての自分は、黒塗りで、マンがでいえば、もちろん登場人物欄にすら載ることのない人間でしかない。
その人の人生に、大きな跡を残ししたいとか、とりたてて思うわけではない、でも行動できない自分が哀しい、哀しい人間に見えるだけ。

ヤウンドゥの先生方は何を思うのか。
僧侶の方は何を思うのか。
学校を自分たちの手で作りあげる人は何をするんだろうか。
でも正直比べても意味ないから、自分の優しさって何なんだろうっておもうだけ。
基準がわからない、でもそれは自分でちゃんと決めればいいだけって思った。
今は、それをしっかり言語化しようと思う。
ヤウンドゥの先生は月2000円で生きている、その意味をもう一度考えてみよう。

生きることで精一杯の人たち、生きること以外考えられない人たち。
そんなことを「考えなくても、生きれてしまう」私たち、なんだかなー。
そもそも、ボランティアで…少なくとも名目上はそういうことで、この国に来たって事実がすでに贅沢なんだよね。
そんな選択肢がない人はいくらでもいる、あの人たちはその象徴ではないだろうか。
表現的には良くないけど、正確ではあると思う。

僕は僕自身に与えられている最大の贅沢とは、「生きる意味そのもの」を考えられるくらい「生」が生活そのものになっていること。
あの人たちにはそんなもんいらない。
意味が後付けであることも本能的に知ることができた。
死に近い、あの人たちが、生きることだけを考えている現実に、なんだか寂しさを感じた。
相対的に死から遠い僕が神を信じていなくて、神を信じる人が死に近いなんて、皮肉じゃないか。

人がやさしいったって、睨んでくる人もいる、笑ってくる人もいる、物を乞う人もいる、バスで3人掛けのシートに一人で座っちまう人もいる、ストリートでサッカーやったら味方いないし、今はまだ異国から来た、良くわからんおっさん程度にしか思われてないんだけど、もう少し、近くに、そのうち、手をつないで歩めるように、自分の思う友達となれるように、もっともっと近くに。
あと二日で、このミャンマーともお別れ。