娘は振り返らない(その1その2 )。小学校の登校第一日目に送り出してから12年経とうとしている。黄色の帽子に紺色のランドセル。玄関口で行ってきますと言い一度も振り返らずに学校へ登校するようになって12年が過ぎようとしている。中学の入学式も、高校入試も、彼女は振り返らなかった。


今日は大学入試センター試験1日目。


今朝も彼女は振り返らなかった。受験生の背中がなかなかサマになっていた。


娘が育つ間に、大きな災害があった。大人達の怠慢でたくさんの取り返しのつかない事件があった。いいわけを前提にした社会を作り続けたために、僕たちは歪な醜いものを沢山作り出した。とても賢くてプライドの低い大人が、しかも大勢、ネットを賑わしていた。


公職にありながら不愉快な私情を垂れ流しにした国家公務員。

偽装を許し頭を下げるだけの経営責任者。

解決の見通しの立たない事故を起こした会社員の他人事の発言。


それでも、


命を賭けて海外で働くことに誇りを持つ男もいた。

小さな人のために、自分の将来を捨てて働く女もいた。

他への優しさに自らを葬った若者もいた。



お前さんには将来を託せるかな。僕ら大人の不甲斐なさを、ごめんと言って。



AD

学校では一度も教えられない論理学の話。


 小中と、論理学は学校で教わりました?と聞くとみな一様に「いいえ」という。そのとおり、日本の普通教育では教科としての論理学は無いし、特別力を入れているように思えない。思うに、言葉を介して正しくお互いの気持ちを理解し、確認しあう作業の下手な人が多い(かもしれない)のはその所為なのだろうか。


 理屈を正しくこねる事ができずに、どのようにして情緒を「より正確」に共有しあえというのか。不確かな言葉によって持ち得た情緒の共有など、本当は孤独な心の勘違いに過ぎない。そんな危なっかしい勘違いを基盤にして僕らが社会を成り立たせているとしたらちょっと怖い。


 一時期、子どもたちに「ディベート」なるものを大人達が盛んに教えようとしていた時期がある。議論の下手な日本人の子どもたちを見て心配した大人たちが刹那的に考え出した策だ。でも、その前に子どもたちが正しくディベートするための「論理的基盤」を、僕ら大人は子どもたちに教えてきていない。マスコミが「ディベートのお時間」の話に飽きて殆ど報道しなくなって10年以上が経っている。そのとき中学生だったり高校生だった若者が今、学校教員になっている。言葉の正しい共有の仕方の下手な子どもたちが先生になって何を子どもたちに教えるつもりなのか。一番基本的な論理を先ず教えなかった僕ら大人に責任がある。


「君が天才なら僕は全知全能の神さ」という皮肉は、皮肉っ「ぽく聞こえる」程度の理解では不十分だ。それが皮肉になりうる理由をきちんと説明できる力がなければ正しい言葉の共有も危なっかしい。

AD

(福沢諭吉先生、ごめんなさい。)


高校2年生になった娘が憮然としている。そしてため息をつく。父である僕もついさっきの出来事で脳が疲労している。ほぼ同時に,


「あのさぁ、参ったよ…。」

「…どうかした?」


娘の話。高校の生徒会活動の余りの形骸化に呆れたという話。父は…、PTA活動の末端に本質を失ってしまった有様を観て悲しくなったという話。


娘「なぁ、オレ達は何故本質を離れて張りぼてを維持するために何故こんなに窮々としているんだ?」

父「いや、窮々としてなんていない。下手をすると悩んでさえいない。」

娘「そうか、よくヤチが言う『塀の向こう側の出来事』か…。」


 通じないし動かない、意思があっても動く力を持たない、そんな大人には何も話す気が最近は無くなってきた。、頼むからそんな人には賢いつもりで振舞ってほしくない。困るんだ。権威を獲得することに血道をあげて本質を形骸化させてゆく姿を見るのは疲れる。諦めた大人が次の世代に「それが世の中」と勧めている状態に出会うと呆れる。勿論、ある程度は仕方がない。でも…度が過ぎる。


 若い人達だけには希望を持って、彼等にだけは諦めないで話し続けようと思う。


 僕に今年のPTA役員の誘いがあった。およそ本質から外れた『民主的方法』によって。もうヤケクソになって「協力的態度」で受けることにした。中身がどんなに面白いか、自分の顔に泥を擦り付けて覗いてこようと思う。それが文化と言うやつだ。(この位の皮肉は許してもらいたい。)


まぁ、そんなに気張るなと、この社会に辟易して他国に出て行った次兄が何か言いそうだ。僕は、この国で日本人を続けようと思う。父子ともに、時代遅れで。


最近、福沢諭吉の学問のススメを読んだ。僕の受けた教育の有様を思い返してみた。進むどころか劣化といわざるを得ない現象「も」起きている。

AD

父娘でボソボソと晩飯を食べている。何か学校の話を娘がしている。ご飯を飲み込んで味噌汁の椀に手をかけて娘の所在なげに食卓の上に載せられた左手を見る。それにしても爪の形が去年あの世に行った父によく似ている。


彼女の左の親指が、握って少しのばした人差し指の曲がり具合を確かめるように動いている。独りで指相撲でもするように。


「なんだそれ(笑)!じぃさんが飯の時によくそうしてたんだよ。」


「えぇぇぇ~w」


同居していたわけでもないし、そう年中実家を訪ねたわけでもない。なんでそんな癖があるんだろ?と、そう思って自分の左手を見たら…


僕も同じ事をしていた。


伝染。

 昔学生だったころ、提出した作文を僕に5回も書き直させた国語教師がいた。

「君、課題の図書をきちんと読んでいないだろう。君の作文からはきちんと読んだことが伺えない。書き直し。」

提出、また書き直し。

「決して君に難しい内容ではないはずだ。読書とは、丁寧に時間をかけ意味を自分のものにすることだよ。」

提出、また書き直し。やっと5回目でOKが出た。しばらくして、僕が5回の提出を忘れかけていた頃、廊下ですれ違ったその教師が僕に声を掛けた。

「やっぱりやらせてみるものだ。5回も書き直してきたのは君が始めて。そして一番の出来だよ。」

と誉めてくれた。しかし僕の方は少し気分が悪かった。彼から受けた言葉の嬉しさを実感するまでに3ヶ月かかった。そして、彼の言葉の意味から、「読書とは何か」理解したのは二十年も後だった。

今、娘がその頃の僕の年に近づいている。ほぼ毎朝「朝読書」というのがある。時間を聞いたら「10分」なのだそうだ。僕の恩師がそれを知ったら激怒するだろう。そして学校の大人は「読書を!」と言い続けている。


-自分の読書スピードを分析する為に『10分』読ませているなら解る。

 偏差値あげる為の「エクササイズ」としては…、いいんでないの?-