昨日の首相をどういう人にすべきかという問題だが、大統領などに権力が集中している国と違い、日本の場合、首相というのはお飾り的な要素がある

現実に、小渕首相が倒れて(おそらくは脳死だったと思われるーー当時の青木首相代理が、脳死を疑う記者からの質問を却下しているが、倒れてから、心臓死に至るまで医師団による病状の記者会見が行われなかった)数日間首相不在の時期があった

もし首相が大統領や首長と違ってお飾りだったとすれば、世襲とかルックスで選ぶより、学歴で選んだほうが、子供たちの勉強の動機につながると言いたかっただけで、首相そのものが、いわゆる高学歴のほうが外交交渉そのほかがうまくいくとか、政治が上手くいくとか言いたいわけではない

ただ、日本の政治家の世襲文化がいろいろな形で、子供の学力に悪影響を及ぼしている疑念は私は強く持っている

件の小渕元首相だが、脳死の推進議連にもいたし、ドナーカードももっていた

もし脳死だったとすれば、彼の持論でいけば、心臓死までの医療は無駄な医療費(私は脳死反対論じゃだから無駄とは思わないが、生前の意思が無視されたことになる)ということになるし、肝臓や心臓は年齢を考えると使えないが、角膜を上げることができれば、一人、目の見えない人を救うことはできた

そういう法律をふみにじるようなことをした、その娘は、彼の死後の衆議院の選挙で、常に、日本でいちばん、2位との差が大きい大量得票をしている

彼女も大学受験をしていない付属校あがりである

そして、福田赳夫や中曽根康弘をうむ、北関東一の東大合格者数を誇った群馬県は、今は関東地方でいちばん東大に入らない県になり、茨城の半分という体たらくである

最近、淫行まがいの行動が報じられて、政務官を辞任した徳田毅という人がいる

帝京大学中退とのことだ

これは、徳洲会病院に昔勤めていて、今は日本で5指に入る心臓外科の名医に聞いた話だが、彼には5.6人兄弟がいて、みんな私立とはいえ医学部に入り、医者をやっているのに、一人だけ入れなかった人間が、国会議員になっているとのことだ

そういう人間に親が喜んで投票する姿をみて、子供はどう思うのだろうか?

「あなたには勉強して、いい学校に入ってほしいけど、あの人は学歴の高い人より、能力がずっと高いのよ」ときちんと説明しているのだろうか?

私は子育て本で、東大卒の官僚などが気に入らなくて、「東大卒はろくな奴がいない」「勉強ばかりしていてもろくな人間にならない」と言うのは勝手だが、子供が寝てからとか、子供のいないところでしろと主張している

そんなことを言っている親が子供に勉強しろと言っても、子供はダブルスタンダードに敏感だ

そして、東大卒などろくなものじゃないと子供に世襲させる会社の社長が、積極的に新入社員の採用では東大卒を取ろうとする

しかし、後段のほうは、子供に伝わらず、前段の発言はマスコミに乗る

かくして、日本の子供は、親が学歴のありがたさを教授している勝ち組の人間の子供しか勉強しなくなり、学歴まで世襲されていく

さて、そもそも論として体罰が法律に触れるから、仮に体罰でスポーツが強くなったしても、それは反則であるし(要するに違法なやり方で勝つというのはドーピングと同じ)「体罰をしてでもレベルアップを図らなければならないのは、軍隊ぐらいのものではないかと思います。
というわけで、結論として、法律を変えない限り、体罰が社会に与える影響はズルをして成果を上げる方法であり、日本社会の成長を妨げるものであると思います。」(引用終わり)

というメッセージをいただいた

これはその通りだと思う

やはり、本来、悪いことをした子供は体罰より、警察を入れて、ちゃんと法治国家の形で取り締まってほしい

実際、今回の体罰報道について、体罰が一方的に悪いという話になっているが、体罰の禁止を徹底すべきという話にしかならないのは、問題の所在が明らかにならない結果にしかつながらないのではないかと感じてしまう
今回はさらに、あまり論じられない形で、もう少し多面的に体罰問題を考えてみたい

一つは、ことばの定義である

体罰が仮に許されるとして、犯罪(法で禁止される以上、体罰そのものが犯罪といえないことがないが)レベルのものと、そうでないものを分けて考える必要がある

要するに、子供に怪我をさせたら、それは体罰ではなく、教師による傷害事件である

相手が、暴力をふるってきて、それに対して身の危険を感じて、暴力で返すなら、それは体罰でなく、正当防衛である

学校の中だからと言って、日本国の法律が適用されないとすれば、そちらのほうが問題だ

いくら、子供が悪いことをしたといっても、教師の障害が免罪されるわけではない(正当防衛の場合は別だが)

もう一つは、体罰は、ことばの定義上「罰」であるということだ

子供が、ものを盗んだり、ほかの友達を殴ったりした場合に、罰として物理的な処罰をすることはときと場合によって許されると、6年前に文部科学省が表明をしたというのは、前にも書いたとおりだが、たとえば、気合いが入っていないとか、スポーツでミスをしたからというのは適用の範囲外だ

悪いことをしたわけではないのだから、罰ではない

要するに教師の気に入らないことをしたからといって、その子をは平手打ちをしたりするというのは、私的制裁であって、体罰とは言えない

悪いことと、教師の気に入らないことが違うという線引きが確実に必要だ

こういう論点が、ちゃんとなされていないで体罰がいいか悪いかを論じるのでは、悪いに決まっているということになってしまう

次に論じたいのは、内申書やAO,推薦入学問題だ

今回の桜ノ宮高校でも、クラブ活動がやめると進級できないとか、推薦入学にかかわっているということが問題になっていた

体罰やいじめの泣き寝入りが多い理由に、教師に嫌われると内申で意地悪される、推薦を受けられないという恐怖感が親や子供にあるという問題は大きい

1992年に新学力観による観点別評価が採用され、内申点の中でペーパーテスト学力が4分の1まで引き下げられた

その後、中学校の校内暴力と、不登校が激増した

常に教師の目を気にしないといけない、教師に気に入られないといけないということがそれだけストレスだということだろう

このふざけた評価システムをやめない限り、教師は体罰をふるわなくても、内申を使って公然といじめができる

「おまえはペーパーテストは100点でも、意欲、態度が0点だと」

この問題もほとんど問題にされない

尾木とかいう人はどう考えているのだろうか?

第3の論点は、日教組問題だ

何かにつけて日教組が目の敵にされるが、今は日教組は組織率が2割を切っていて、そんなに力があるとは思えない

かつて広島が日教組が強くて、学校が大荒れになり、学力が下がったことが問題になった

そのために、今でも、広島では、公立不信が強く、昔から私立校のほうが進学実績がいいことが問題とされている

ただ、その一因が、日教組が生徒に甘く、体罰を禁止というスタンスだからだという批判は教育関係者から受けていた

6年ほど前の体罰必要論のときも、日教組のせいで、体罰をやらなくなって、生徒がのぼせあがっているというような論をはく人はたくさんいた

日教組の弱体化が、なんらかの形で体罰の横行(といっても、昔よりはむしろ減っている気がするが)につながっていること、あるいは、原発のときと同じく、右の連中は、3.11の前は脱原発を左翼の幻想のように批判し、今回の自殺が起こる前は、体罰をしないから子供がのぼせあがるというようなことを言っておきながら、手のひらを返したように大衆迎合をしたり、だんまりを決め込んでいる

そういう右の連中のずる賢さが、私には、不快でしょうがない

反ポピュリズムと言いながら、ポピュリズムそのものである

そんなことだから、北方領土の日だって、安全な日本国内で騒音をまき散らすことはできても、ロシアに行って抗議活動ができない小便チビリのような臆病者の集団になるのではないか?

あるいは、昔のように「体罰復活!」とでも嫌われても街宣車を出せないのだろうか?

しかし、警察は騒音防止条例に違反していても、なんで右翼だとつかまえないのだろう?