昨日のふざけたメッセージを送りつけた主から、メッセージは私信だから勝手にブログの俎上に乗せるなという。

では、私はほかのメッセージについてもそうしなければいけないというのだろうか?

このブログを読んでいる人間なら、メッセージが引用されて、それに対してコメントをよきにつけ、あしきにつけしているのは、ご存知のはずだし、当初は、自分のご意見を送りつけてコメントをしろと言わんばかりの態度だったのに、口汚くののしるメッセージについてだけは、ブログに載せるのはいけないというのはどういう神経だろうか?

私にしても、このメッセージの主の実名も何もわからない。匿名のいたずら電話や、いたずら手紙を受けて、それを私信扱いする人間がいるのだろうか?ちゃんと姓名や自分の連絡先を載せて初めて私信というものだろう。匿名で嫌がらせを書かれて、私信だから泣き寝入りをしろというほうがおかしい。

この人にとっては私がマナー違反だそうだが、仮にマナー違反だったとしても、それは個人のしつけの問題だ。ことさらに私が東大卒の人間だからと考えるのは、どういうひがみ根性なのか嘲笑いたくなる。

このクソ男については、名前を変えて何度メッセージを送ってきても、内容が社会常識に沿っていない限り罵倒し続けることにしたい。匿名のメッセージであっても罵倒されるのは不愉快だ。私がどんなに不愉快な思いをしたのかを理解してもらうためには、そのくらいしないとわからないだろう。

さて、スマートフォンを買って、子供にやり方を教えてもらううちに、アンサイクロペディアでも罵倒されていることを思い知らされる羽目になった。子供たちは面白がって、いろいろな人のものを読んでいるようだ。読者数の少ないブログで私の悪口を書くより、これは有効だというのもよくわかった。しかし、私は、この卑怯な男がアンサイクロペディアに、私がブログ上で私信を公開したとか投稿するのを止めるすべはない。

ただ、私についての批判の主なものは、私の著述が昔と今で書いている内容がころころ変わるとか、矛盾があるとかいうものである。

500冊も本を書いていて全部同じ内容ならそれこそ読者をだますことにしかならないが、一つだけわかってほしいことは、私は教育にせよ、医療にせよ、学者や単なる理論家でなく、実践家であるということである。

精神科医をやっていて、相手によってアドバイスを変えることは当然だし、通信教育の生徒だって、一人一人違ったアドバイスや受験計画を立てるために緑鐡をやっている。

本というのは、自分が選んでお金を出して買うものなので、鬱っぽいときには、私が鬱の人用に書いた本を買ってくれるだろうし、頑張りすぎてしまっているときには、そういう人向けの本を買ってくれるだろう。

だから私は一方で、あなたはもっと怒っていいという本を書き、もう一方で怒りのコントロールの本を書いている。

読む層が違うのだから矛盾とは思っていない。

受験勉強だって、丸暗記が向いている子と、理解を伴った暗記が向いている人間もいる。

もう一つは、たとえばビジネス書などで、ある仕事術を私が勧めたとして、それが合わないのに、それでも「和田先生を信じる」というような人がいれば、残念ながら、やはりアホと言われても仕方ない。ファンの人に対してこんな言葉を使いたくないが、自分に合った仕事術や勉強法を探すべきで、特定の著者の信者になるべきでない。

アンサイクロペディアに投稿するような人は、そういう信者体質の人なのか、矛盾がどうしても許せないようだ。

ただ、社会に出てからなら、あるやり方を試して、それがダメなら別のやり方を試すのが当たり前だが、受験生とか、高校生には、その発想が持てずに、私のやり方と心中という気の毒な人がいるかもしれない。

これについては申し訳なく思っているし、謝って済むのならおわびをしたい。

本来なら合わなければ別のやり方を試せと本の冒頭に書くべきなのだろうが、出版社が許してくれないことが多いのだ。

ブログをSNSにおくなどして不特定多数の人に読めないようにしたいのだが、こういう話は、一般読者の人に知ってほしいので、ブログかHPは続けないといけないのだろうと反省した。

ただ、矛盾とか変節とか言われるのを恐れて、考えが変えられないとか、そのときに気づいたことを言えないということは絶対避けたいので、そこを応援してほしい。