境界性人格障害という診断を受けながらいたって温厚なメッセージをいただいた。

機会があれば、多少なりと私からのレスポンスをしたいが、ちょっと時間と紙面を使いそうなので少し待ってほしい。あと私の基本的な考えとして、このブログに対するメッセージについてはブログでお答えして直接のお返事は差し上げないことをご理解いただきたい。

入試直前期に何をすべきか?という質問。基本はやればやるほど伸びそうな理科や社会のような科目なのだろうが、英数もあまりやっていないと試験勘が鈍る可能性があるので、これもときどき練習しておきたい。それ以上に、過去問を使うなら、どれだけ解けるかを試す以上に、どの問題から取りかかろうなどのシミュレーションをしっかりやってほしい。

またまた鋭いメッセージもいただく、日本の取り締まりや規制のいい加減さや弱いものいじめについて書いたら、「日本はもともと法治国家でなかった」というメッセージをいただいた。これについては、私も前に書いたことがあるが、おおむね同意見である。

私がみた弁当屋の規制の番組を続けてみていた人から、試写会の質疑応答の中年女性が実は仕込みのタレントだった、それで大阪のおばちゃんのイメージを勝手に作っているという指摘もいただいた。

事実だったらひどい話だ。こういう形で大阪のおばちゃんのステレオタイプが作られるとしたら、大阪出身者として許せない話だ。

さて、数日前から私にかみついてくる人は、メッセージの件名のところに不快なメッセージを書いてくる。

この人は地方や大阪のテレビ局は「規制がない」と書くようなものの見方をする人だから相手にする気はない。規制が少ないと書くのならまだわかるが、規制がないことはあり得ない。

本日は、私を「完全に論破した」「反論できずに逃げた」とか書いている。反論しないのとできないのとは違うが、「完全に」ということばを遣う時点で、ものの見方がまったく違うから議論のしようがない。理系の実験ですら、有意差が出ても、「完全に」証明できることはめったにないのだが、こういうものの考え方しかできない人を生む教育とはどういうものなのだろうと思う。

論破という考え方も幸せなものの考え方だ。

私も新左翼の人たちと精神障害者の解放運動をしていて痛感したが、論破したつもりになっても、これはむなしい。相手も世の中も変わらないのだ。

私自身、ブログや本を書いても、世の中がまったく変わっていかないことにときどきむなしさを感じるが、じわじわと世間様に説得力をもつのにはどうしたらいいかと感じるし、自分の影響力のなさに落ち込むことも多い。

自分が「論破」したと思えたり、「頭がいい」と思えるのは幸せなことかもしれない。

格差社会では、大衆は幻想をもつことで、負け組でも幸せを感じるほうがいいのか、それとも格差を埋めて、物理的に格差が埋まるほうがいいのか?私はずっと後者だと信じてきたが、こういうおめでたい人間が、私に勝ったと思って喜べている現状を見ていると、幸せはしょせん主観的なものだし、主観的に幸せなほうがいいのかもしれないと痛感させられる。

ただ、もっと賢い人に相手にされないメッセージを送りつけて「○○を完全に論破した。相手は反論できなかった」というほうが、いいだろう。この論法なら首相でもノーベル賞学者でも論破できる。そのほうがもっと幸せなのではないか?私もうざい思いをしなくて済むし、その人ももっと幸せになれて一石二鳥だと思うが。