ここしばらくの私の見解の表明や、昨日、不愉快な気分だというようなことをブログで書いたところ、かなりの数の激励のメッセージが届いた。

レベルの低い相手と同じ舞台に立ってしまうと、
立った自分もレベルが低いと見なされてしまいます。
受け流すのが最良かと思います。

というものもあれば、

物議を醸しても・・・どうか自らの心のままに!表現をされることを!望んでいます。

というものもあった。

反論などのメッセージをいちいち読まれていることだけでも敬服に値すると思います。
ただ、その一部に対して感情的になっておいでではないでしょうか?

というご忠告も受けた。私も、感情的になるのがイヤだし、それがまずいと思ったので、一対一の反論より、読者全体へのメッセージを書いていたし、感情が表にでないことを心がけていたのだが、見る人がみると(この方は精神科医とのことだ)、隠していた感情が表に出てしまったのだろう。私が感情的になっていたのは事実なのだから。

さて、昨日は土居健郎先生を偲ぶ会

土居先生はどう思っておられたかはわからないが、私自身は、土居先生の最後の弟子(の一人)と思っている。

アメリカから帰ってきてから週2回精神分析を受けていたが、きわめて自然流の精神分析治療は、私の今に大きな影響を与えている。

オグデンの翻訳をほめてもらったり、『自己愛の構造』という本を出した際に、土居先生の理論とコフート理論を結びつけた部分に関しては完璧だとおっしゃってくれたり、老人医療についての私の考え方を是認していただいたり、いろいろな意味で心の支えになっていた。

土居先生のことばで忘れられないのは、「人間、死んでからだよ」ということをときどきおっしゃったことだ。

死後の世界を信じているのでなく、生きているうちはおべんちゃらもあるし、政治力も影響するだろうが、死んでから名前を残すのは、かなり大変だという意味だ。

もちろん、土居先生は亡くなってからも、その名はずっと残るだろうが、私はというと、これからライフワークを作っていかないといけない。ただ、世俗で急いで偉くなるより、もっと将来の評価を得たいというのは本音だ。私が私利私欲がないように見えるのは、偽善ではなくて、将来に、とくに死後に「あの人はいい人だった」と思われたいというセコイ了見のためである。

ただ、世俗の世界でももう少し偉い人になりたいと、昨日は多少思った。

私も偲ぶことばをみんなの前で言いたかった。お歴々の人のことばが続くのは当たり前のことなのだろうが、私も昨日だけは言いたいことがいっぱいあったのだ(基本的にスピーチは嫌いだということも知って欲しいが、土居先生だけは思いが特別なのだ)。

あと、数年生きていて下さったら、私も高いところから何かいえたのだろうかと不謹慎なことを考えていた。

おそらくそのきっかけになったのは、今回の主催者がおそらく土居先生に面識のない、私より10年後輩の東大精神科の新教授だったことがあるだろう。

若手の抜擢には嫉妬を感じはするが、私は悪いこととは思っていない。

どんな研究をしているのかはわからないが、教授選で勝つくらいだから、今が旬の研究者なのだろう。

ただ、問題なのは、この年齢で教授になってしまうと、これから25年も東大精神科のトップでい続けることだ。研究能力が維持されたり、研究のプロデューサーとしてのセンスがよければ25年持つのかもしれないが、そうでないとカビが生えた医局になってしまう。

学校の教師でも10年で更新しろという時代に、大学の教授が一回なってしまえば、65才まで居座れる制度はどうなっているのか?60歳定年を65歳に勝手に変えたのは、当の東大の教授たちだ。教授会という組合の既得権益という点では、JAL以上である。

実際、この教授の人間性が悪かった場合、25年もスタッフががまんしないといけなくなる。

実は、この点に関して悪い予感を感じてしまった。

この教授は偉い人にはそれなりに挨拶していたようだが、私を含め、私がそれなりに敬意を払っている精神療法、精神分析の専門家にはあまり挨拶をしていないようだった(私は一言も声はかからなかったのは確かだ)。立食パーティで主催者なのだから、席を回るくらいのことは、相当偉い人のパーティでも当たり前の姿なのに。

生物学的精神医学の人間は、精神療法や分析治療をやる人間を嫌うようで、全員追い出すことで、医局のスタッフも医学生もまったくカウンセリングが習えなくなることが全国の大学で続いているが、これが東大では25年も続くことになりかねないと不安になった。

トラウマを受ける人は増え、心のケアの必要性が高まっているのにである。

世間は、東大がいちばんあてになると思う人がまだ多い(政治家も官僚も勘違いしている人が多い)ので、東大の教授が私の予感があたるような人でないと切に願うのみだ。

もちろん、挨拶については改善されるかもしれないし、逆に挨拶ができなくても、向こうから言い寄ってくるので25年治らないかもしれない(そういう医学部教授は何人も知っている)

しかし、一応人の心を扱う仕事だから、その手の成長はぜひ期待したい。

薬を使えば、心の病に治療には、人間的な交流は挨拶も含めていらないという考え方もありえるのは事実(そのくせして、書き物には絶対そんなことは書かない)だが、土居先生はそう考えていなかったことだけは確かだと私は信じている。