さて、
・守山崩れによる松平氏の弱体化
・那古野城の奪取
・尾張南東部の帰属
という経緯を経て
古渡城を居城とした信秀は
勢いに乗って
松平氏の本拠・三河国岡崎に向けて進出する。
当時の三河国・松平氏の状況は
・守山崩れで松平宗家・清康が横死
・宗家に反抗する桜井松平氏・信定が
清康嫡子・広忠を三河国から放逐、岡崎城を占拠
・広忠が今川氏の後援を得て三河国に復帰、松平信定を下す
・1538年、松平信定が死没
・桜井松平家やそれに与する勢力と松平宗家との内訌が継続
という感じである。
この内訌状態に桜井松平氏と姻戚関係にある
織田弾正忠家が介入し、三河国の西部に進出。
信秀は1540年頃に安祥城を攻略した模様。
この安祥城、そもそもは松平宗家の本拠らしい。
守山崩れで横死した松平清康の居城であったらしく
岡崎城は、この清康が攻略し、嫡子・広忠を置いたという。
この事から察するに
今川氏の後援を得て三河国に復帰した広忠は
自身が置かれていた岡崎城の奪回には成功したものの
矢作川以西に関しては統制出来ず、
それら勢力は軒並み織田信秀に与してしまったのであろう。
ただし、尾張と三河の国境付近、刈屋城を居城とし
近隣に勢力を持つ水野氏は
当主・忠政と松平清康との関係が強固であった為、
1541年の時点で水野忠政は
松平広忠に娘・『於大』を嫁がせている。
だが1544年に忠政が死没し水野信元が家督を継ぐと
一転して織田方となり、
これによって織田信秀の三河西部の掌握が成される事に。
因みに水野氏が刈屋城を居城にしたのは忠政の代からであり
それまでは国境となる境川の西岸に位置する
緒川城を居城としていた。
織田方に転属した水野信元の正室は松平信定の娘であり、
織田信秀の実弟で
守山城主である織田信光とは嫁を介した義兄弟という事になる。
織田信秀の庶長子・信広が安祥城に置かれたのは
水野氏の帰属を経たこの頃の事ではなかろうか。
織田信秀はこうして着実に三河西部を掌握して行ったのだが
これにより松平宗家が今川氏に帰属していく。
そもそも広忠の三河国への復帰も
それ以前の伊勢国での亡命生活も
今川氏の助力の賜物なのであるが…。
その帰属の証として
松平広忠の嫡子・竹千代が
今川氏の本拠・駿河に送られる手筈となっていたが
この送り届けの役目を担っていた戸田氏が造反。
広忠の嫡子・竹千代は
今川・松平両氏と敵対する織田信秀の元に送られる事に。
これによって戸田氏は織田方と看做され、
約定を保護にされた今川氏によって討滅されることになる。
これが1547年の事。
戸田氏は渥美半島の田原城を拠点とする勢力で
松平清康が三河国を掌握した頃、松平氏に帰属、
その後、弱体化した松平氏が今川氏に帰属するとこれに倣うも
そもそも戸田氏自体、三河東部の権益争いの事もあって
今川氏や松平氏とそりが合わなかったのであろう。
それだけ当時の織田信秀の勢力伸張が著しかったと考えられる。
ここまでは一応順風満帆に信秀の三河攻略が進んでいたのだが
これと同時期、尾張国の北にある美濃国では変事が起こっていた。
まぁ、いわずもがなの斎藤道三による国盗りである。
斎藤道三に関して詳しく書くと、凄い事になりそうなので
とりあえず要約すると
長井規秀という人物が
美濃国の守護代・斎藤利良の死没の際、
その名跡を継いで斎藤利政となり、
美濃国の実権を掌握。
守護・土岐氏の家督相続争いに乗じ土岐氏を放逐、
美濃の国の国主になっちゃった。
これが1542年の事。
この時に守護・土岐頼芸とその息子頼次が
尾張国に放逐され、
織田信秀はその復権を名目として
美濃国への侵攻を行うようになる。
この美濃国への介入は1548年まで続くのだが
1544年には信秀の弟で犬山城主であった信康が
この斎藤氏との戦いで戦死。
更に1547年には美濃加納口の戦いで大敗を喫する。
翌1548年には尾張国内に於いて
清須城の織田信友が古渡城に攻め寄せ、
更に1549年初頭には
斎藤勢との合戦で戦死した実弟・信康の子で
犬山城主となっていた織田信清と
藤左衛門家庶流・楽田織田氏の楽田城主・織田寛貞が造反。
尾張北東部の離反というかなり厳しい状況に陥る。
この1548年~1549年の内憂の時期と
古渡城の破却と末森城への移転時期が重なる。
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