コノ件も4回目になるのだが
ま、そのなんだ
コノ件に関し、
江戸時代の国学者たちの私欲ってのが垣間見えて嫌になってきた。
足利尊氏の退いた場所の候補とされる
台東区・石浜。
ココで地元の『平一揆』(豪族連合)の助力を得たとされてる。
この説を唱えてたのが平田篤胤さん。
血筋は違えど(養子入りしてる)家系的には桓武平氏、千葉氏の流れらしい。
この人の先祖ってのが
観応の擾乱の時に鎌倉府に反旗を翻し(武蔵平一揆の乱)土地を奪われた。
その拠点のひとつが、どうやら『石浜』らしいのね。
んでオイラが
多摩川南岸の稲城市・多摩市が屏風岩なんじゃ?
って考えに辿り着いた際に出てきた人物が
小山田与清と云う人物。
平田篤胤さんと同時期の国学者でもある。
苗字から考えて、現在の小野路近くにある
『小山田』と云う地域と関連がありそう。
こちらは桓武平氏・秩父氏の流れっぽい。
小山田有重が小野路城・小山田城というものを1100年代に築いてる。
ようは地元アゲな印象が拭えない。
ま、
多摩川と云う天然の堀と関戸の要害のある一宮付近、
然も鎌倉街道沿いに陣を退き
鎌倉府からの援軍を待つというのは至極まともにも思える。
まぁ、国学者同士の争論と云うのもあるだろうし
お互いの御先祖様の顕彰やら
国学の流行ってのもあるじゃろう。
後世の評価ってのも加味されてるんじゃないかな。
んで、あきる野市の屏風岩&牛浜ってのも候補に挙がってるんだが
こっちは自分には意味不明。
例え退いたとして、上流域への移動とか
体勢の立て直しと云う部分では難があると思われる。
そんな感じでオイラの屏風岩に関する妄想・考察は一旦しゅーりょー。
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