生年月日 不明
犬種 セッター
性別 不明
地域 秋田・岩手県境
飼主 中野里人氏
何んでも私がまだ十一、二歳の頃だつた。
郷里から三里余を距てた村の親戚に弟と一緒に遊びに行つて居た。それは春の初めで、雪の融解け切つた裸地に、斜にさす日の光のうちには雲雀が楽しさうに歌つてゐた。
従兄は其頃はもう十六七歳にもなつて居つて、地方の中学校に通つて居た。
恰度試験休みであつたので、鉄砲打ちに連れて行くからと云つて誘はれたのである。
此の村は羽後の國と陸中の國との國境を趨つてゐる脊梁山脈に食ひ入つた家屋五六十戸を有つた一小部落であつて、その山裾を縫ふて流れる小河は西方へ一里半ばかりして成瀬川の本流と合し、雄勝平野を灌漑して廻るのである。
山巒重畳といつたやうな山の伏起は、広野の平凡な町に生ひ立つた私達の好奇心を唆るにには十分であつた。
群山の中で特に秀でた峰が二つある。
一は真山と云ひ、一を本山と呼び做してゐた。
その二つの峰の頂上には鬱蒼たる深山木に囲まれて古い神社が建てられてゐた。
そして其處では年二回―春と秋との―祭典を催ほして山人の安體を神に祈るのであつた。
翌日は早朝から準備をして猟に出懸けた。
猟といつても従兄が村田銃を一梃持参するのに過ぎないので、云はゞ私達はその雇従者に過ぎなかつた。
折れさうな繊細い私達の腕には迚もあの重い鉄砲が打てそうになかつた。
其日は空はエメラルドのやうに晴れ上つて、初春の日光に萬物は輝きゆらいでゐた。
雪解の水に量を増した小河のあたりに、もはや弛み初めた地の香がして、歓喜に充ちた小河の水は勇し気に声を挙げて瀧のやうに渓から渓へと落ちてゐた。
先に立つて鉄砲を担いで居た従兄は、不圖うしろを振返つて見て嬀然(にこにこ)笑ひかけながら
「晝前は鴫打ちをやるんだから、河沿ひの草地を歩かう、ね?山は午後からだよ」
かう云つて、とつとゝ堤の上へ出て河を下りはじめたから、私達も其の言葉に随つて、石塊の多い路を踏んだ。
往くこと四五丁にして路は灌木に蔽はれた圓い丘陵に尽きてしまつた。それを迂廻しやうとして渓へ下りて行くと、ハア〃息を喘せながら従兄の家のセツター種の犬が横合の藪の間から突如にその栗色の姿を顕した。
そして如何にも捨てられた今日の出猟をうらむやうに、しかし茲まで追ひかけて来たんだから一緒に連れて行つてお呉れよといふやうに、何時もの柔順と敏捷とにかがやいた眼を瞠り、千切れるやうに尾を振つて、従兄の胸に縋り付くやうにした。
「仕様がないナア、今日は鴫打ちなんだからお前なんぞ要らなかつたのに……。帰つて午後から真山さまで待つてお出でツたら。
解らないか、ルシ!」
従兄は強く叱るやうに言つて、手を上げて打つ真似をすると、犬は眼を細めて其時は直ぐ地上に蹲むが、手を下げるとまた起き上つて尾を振つて、更に皈らうとする気はない。
「いゝぢやないの、兄ちやん?あたい達が従いて、邪魔させないんだから。連れてつた方がいゝよ」
此の犬が鴫打に何麼(どんな)邪魔をするのか克く解らなかつたから、頻りに同行を勧めたが、従兄が肯じなかつたので帰途までまたせるやうに紐を取り出して犬の首輪に結ひ付け、傍の丈夫さうな一本の木に繋いで、また歩み出した。
ルシは捨てられた悲しさにクン〃と哀つぽい声を出して啼きながら私達の跡を追ふとするが、繋がれてゐると気がつくと今度はグル〃と其の樹の根元を廻り出した。
中野里人「猟の一日・幼き頃の思ひ出」より 大正7年
犬種 セッター
性別 不明
地域 秋田・岩手県境
飼主 中野里人氏
何んでも私がまだ十一、二歳の頃だつた。
郷里から三里余を距てた村の親戚に弟と一緒に遊びに行つて居た。それは春の初めで、雪の融解け切つた裸地に、斜にさす日の光のうちには雲雀が楽しさうに歌つてゐた。
従兄は其頃はもう十六七歳にもなつて居つて、地方の中学校に通つて居た。
恰度試験休みであつたので、鉄砲打ちに連れて行くからと云つて誘はれたのである。
此の村は羽後の國と陸中の國との國境を趨つてゐる脊梁山脈に食ひ入つた家屋五六十戸を有つた一小部落であつて、その山裾を縫ふて流れる小河は西方へ一里半ばかりして成瀬川の本流と合し、雄勝平野を灌漑して廻るのである。
山巒重畳といつたやうな山の伏起は、広野の平凡な町に生ひ立つた私達の好奇心を唆るにには十分であつた。
群山の中で特に秀でた峰が二つある。
一は真山と云ひ、一を本山と呼び做してゐた。
その二つの峰の頂上には鬱蒼たる深山木に囲まれて古い神社が建てられてゐた。
そして其處では年二回―春と秋との―祭典を催ほして山人の安體を神に祈るのであつた。
翌日は早朝から準備をして猟に出懸けた。
猟といつても従兄が村田銃を一梃持参するのに過ぎないので、云はゞ私達はその雇従者に過ぎなかつた。
折れさうな繊細い私達の腕には迚もあの重い鉄砲が打てそうになかつた。
其日は空はエメラルドのやうに晴れ上つて、初春の日光に萬物は輝きゆらいでゐた。
雪解の水に量を増した小河のあたりに、もはや弛み初めた地の香がして、歓喜に充ちた小河の水は勇し気に声を挙げて瀧のやうに渓から渓へと落ちてゐた。
先に立つて鉄砲を担いで居た従兄は、不圖うしろを振返つて見て嬀然(にこにこ)笑ひかけながら
「晝前は鴫打ちをやるんだから、河沿ひの草地を歩かう、ね?山は午後からだよ」
かう云つて、とつとゝ堤の上へ出て河を下りはじめたから、私達も其の言葉に随つて、石塊の多い路を踏んだ。
往くこと四五丁にして路は灌木に蔽はれた圓い丘陵に尽きてしまつた。それを迂廻しやうとして渓へ下りて行くと、ハア〃息を喘せながら従兄の家のセツター種の犬が横合の藪の間から突如にその栗色の姿を顕した。
そして如何にも捨てられた今日の出猟をうらむやうに、しかし茲まで追ひかけて来たんだから一緒に連れて行つてお呉れよといふやうに、何時もの柔順と敏捷とにかがやいた眼を瞠り、千切れるやうに尾を振つて、従兄の胸に縋り付くやうにした。
「仕様がないナア、今日は鴫打ちなんだからお前なんぞ要らなかつたのに……。帰つて午後から真山さまで待つてお出でツたら。
解らないか、ルシ!」
従兄は強く叱るやうに言つて、手を上げて打つ真似をすると、犬は眼を細めて其時は直ぐ地上に蹲むが、手を下げるとまた起き上つて尾を振つて、更に皈らうとする気はない。
「いゝぢやないの、兄ちやん?あたい達が従いて、邪魔させないんだから。連れてつた方がいゝよ」
此の犬が鴫打に何麼(どんな)邪魔をするのか克く解らなかつたから、頻りに同行を勧めたが、従兄が肯じなかつたので帰途までまたせるやうに紐を取り出して犬の首輪に結ひ付け、傍の丈夫さうな一本の木に繋いで、また歩み出した。
ルシは捨てられた悲しさにクン〃と哀つぽい声を出して啼きながら私達の跡を追ふとするが、繋がれてゐると気がつくと今度はグル〃と其の樹の根元を廻り出した。
中野里人「猟の一日・幼き頃の思ひ出」より 大正7年