放し飼いや捨て犬が普通だった日本では、それゆえに野犬が問題化しました。

各地域の行政機関は畜犬取締規則や畜犬税によって飼育頭数の抑制やマナー啓発をはかるものの、無責任な飼主とのイタチごっこが続きます。

大人しくうろついているならまだしも、彼らは高齢者や子供を遠慮なく襲撃。ただの獰猛な犬なのか、狂犬病による凶暴化なのかは外見上判別できないため、被害者は咬傷だけではなく狂犬病感染の恐怖にも怯えることとなりました。

その状況は東京も同じで、明治時代からおびただしい数の野犬群が徘徊していました。当時の報道記録には、多くの咬傷被害が並んでいます。

 

明治21年には京橋で13歳の少年が野犬群に襲われ、瀕死の重傷を負います。直ちに野犬狩りがおこなわれ、京橋署が59頭、麹町署が20頭を捕獲。うち68頭を殺処分、残りは繋留処置となります。野犬の遺骸は1頭18銭で皮革業者へ払い下げとなりました。

明治24年には高齢者が襲撃されて負傷、警視庁の野犬狩りで10頭が駆除されました。 北豊島郡上石神村でも、ハンターに棄てられた猟犬が伊藤捨吉・お里兄妹を襲撃。父親が駆け付けて犬を撲殺するも、6歳になる娘は咽喉を噛まれて即死しています。

明治25年には南葛飾では被害を受けた養鶏農家が野犬を駆除。 殺した犬の生首を晒していたら、その中にペットの犬が含まれていて飼い主激怒というトラブルに発展しました。

明治30年には中目黒で野犬に噛まれた人が狂犬病を発症。伝染病研究所へ担ぎ込まれるも、既に手遅れで死亡しました。附近の飼犬に繋留命令が出され、 山田警視総監も畜犬取締規則遵守の徹底を通達しています

明治37年には小石川の寺内栄吉君が焼芋を奪おうとした大型野犬に襲われ、思わず口の中に芋を隠したら頬を噛まれて重傷を負います(駆け付けた巡査が犬を捕縛し、狂犬病感染の有無を調査中との報道)

 

大正、昭和と都市開発が進んでも、帝都東京は野犬や狂犬病の被害に悩まされ続けます。

東京オリンピック誘致活動で飼育マナーの啓発がはかられるも、野犬による襲撃事件は絶えることがありませんでした。

捕獲の際の狂犬病感染によって殉職する警官や駆除業者も続出。日本人道会も捨て犬の収容施設を設置しますが、焼け石に水でした。

太宰治が『畜犬談』に記したとおり、犬嫌いの人にとってはロクでもない時代だったのです。

いっぽうの愛犬家側は、繋留飼育や去勢手術の呼びかけにすら「動物虐待だ」と反論しました。身内への甘さを増長したあげく、「咬まれた側に原因がある」などという暴論まで現れます。

 

去る十二月七日の東京朝日新聞に、左記の如き記事が出て居つた。

 

飢えた野犬群幼兒を殺す

 

横須賀市芳雄君六歳と、同町勝司君七歳は、六日午後一時頃、同所地先の雑木林に圍まれた野原で遊ぶうち、三匹の野犬が現れ飛蒐つたので悲鳴を上げて逃げ出したが、芳雄君はその場で無殘に噛み殺され、勝司君は辛うじて走り歸つたが、自宅前で追ひつまれて臀部を噛まれ全治一ヶ月の重傷を負うた。

これまでも被害者二、三に止まらず、横須賀署では徹底的野犬狩を行ふことになつた。

 

之れは我々が犬に關係致して居る以上は、彼のハチ公が忠犬であつたか野良ハチであつたかを檢討する以上に、注意を要すべき問題である。

若し野犬にもせよ、犬が人を殺す様な素質があるとしたならば大變である。

大に研究すべき問題であると思ふ。又何種に属する犬種であるやも是非取調べて貰ひたい。而して其原因の詳細を取調べる必要がある。

例へば六、七歳の小兒にもせよ、單に小供等の遊び居る所へ小供を喰ふべく來たとは思はれない。萬一狂犬とした所で、三頭の狂犬が聯合して行ふと云ふ事はあり得べき事では無い。

飼犬でも道路などで、犬嫌ひの幼兒が菓子などを食し居り、犬が手元に近づいたのを見、驚いてその菓子を取落したるに、それを拾ひ喰いした惡性の犬は一度でも之れを覺へ、幼兒が菓子でも持ち居れば威して取つて喰ふ様になる奴がある。

又野犬として常に他人より害せられて居る犬は、中々人に近づかない。

若し此の様な野犬を發見し、之れを庭の隅などへ追詰めて逃場の無き場合には、猛獸と同じく反對に飛附いて來る。

此時に追詰めたる者が怖氣づいて逃げでもすれば、喰付れるのは當然である。

今度の場合などは、幼兒でも惡戯盛りの男子が二人である。彼等を追詰めたか、或は三頭の犬が何か喰ひつゝあるのを發見して、之れに向つたかゞ原因では無いかと考へる。

犬に威かされて驚いて逃出したので、犬は勝つた勢いで喰付いたのが、場所が惡いので死に至らしめたのでは無いかと思ふが、兎に角犬は右の如く性質の惡いのがある。飼犬でも惡癖のあるのは、充分に矯正するか淘汰すべきであると同時に、飼犬家は犬の性質に注意し、又各自にそれ〃訓練と云ふ事にも注意せられたいと思ふ。

市井の瑣事に過ぎないと思はれてる事が、往々大きな動きの邪魔をする。特に一言する次第である。

 

『犬界時評・犬は人を殺すか』より

 

何で被害者が悪いことになっているんですかね。まず表明すべきは「お気の毒に」でしょう。

当時の愛犬家は気づいていませんでしたが、前年の日中戦争勃発によって戦前犬界の時代は終わっていました。

愛犬家が責任転嫁と自己弁護にかまけている間に、犬は国家が管理する資源と化します。愛犬家のワガママ勝手を許してくれる世の中ではなくなったのです。

 

この記事が書かれた昭和13年、日本は自由経済体制から戦時経済体制へ移行します。軍需原皮の確保を急ぐ商工省は皮革配給統制規則を制定。皮革業界で流通する加工革は、皮革統制株式会社の管理下で配給されるようになりました(羊皮の統制は別ルート)。

しかし牛・馬・羊・鯨皮の統制ではとても足りず、翌14年の規則改正によって三味線用の犬革(加工革)も国家の統制下におかれます。

犬革の供給ルートは特殊であり、警察が管轄する野犬駆除によって「生産」されていました。野犬駆除業者から皮革業者へ払い下げられる前の犬皮が闇市場へ流出していたものの(商工省の公定買取価格が不当に安かったため)、商工省の管轄外で手出しできません。

これを防ごうと、商工省は警察の野犬駆除と統合した犬皮(原料皮)確保を画策。昭和16年には、戦時食糧難を予測した農林省も野犬毛皮統制に追随していきます。

耐乏生活を強いられる一般市民の間でも、国民精神総動員運動の影響で「非常時にペットを飼うのは贅沢である。役立たずの駄犬はお国のため毛皮にしてしまえ」という同調圧力が高まりました。

警察の野犬駆除と皮革統制を統合した場合、ついでに警察が管轄している飼育登録制度を利用すればペットの毛皮まで確保できる筈。そう考えた軍需省(旧商工省)は、厚生省と共同で全国の知事へ畜犬供出を通達します。

犬への迫害には「狂犬病対策」という大義名分が掲げられ、昭和19年末のペット毛皮献納運動へと至りました。

野犬問題を解決できなかったツケは、戦時体制下において愛犬家が払う結果となったワケです。