戰時經濟統制下においては巷に浮浪する野犬も重要な皮革資源となり、裏町のゴミ箱を漁るルンペン犬も死して革を遺し、お國のために一肌脱ぐ御時世となつて、横濱市内の靴屋さんの店頭に「犬甲豚底」とか「犬甲鯨底」といふハイヒールの婦人靴さへデビユーして、脚線美の麗人をのせてアスフアルトの舗道を闊歩する日を待兼ねてゐる。
さて、非常時の脚光を浴びて颯爽と國策線上に浮びあがつた野犬が、どんなコースを經てスマートな犬キツドの靴に化けるか?
 
朝日『御時世なれば犬死もせず(昭和14年)』より
 
先の戦争では、数多くの犬が犠牲となりました。
戦地へ送り込まれた軍用犬はもちろん、銃後の畜犬(ペット)や野犬も狂犬病対策や食糧難や空襲で命を落としていきました。
中でも悲慘だったのが畜犬献納運動。「軍用皮革の不足を補うため、国家が個人のペットを毛皮にした」という史実なのですが、漠然としたイメージだけで語られているテーマでもあります。
 
●国家が犬の皮を資源化した理由や法的根拠は何だったのか。銃後社会の同調圧力を生み出した一般市民は本当に「被害者」だったのか。
犬の歴史には、涙や怒りの前に知るべきことがたくさんあります。
 
この件に関する解説がどれだけ曖昧なのかを確認してみましょう。
話の前提として、ペットの殺処分を命じた「国家」とは具体的にどの中央省庁ですか?国家の方針をもとに全国の都道府県市町村でペットを殺処分したのは誰?現場の責任者は公僕なの?民間人なの?
「生産」された犬の毛皮を製革・集荷し、軍部へ配給していた流通システムは?
ペットを強奪された一般市民はなんで抵抗しなかったの?
冒頭の引用であれば、どの省庁による「国策」で野犬が皮革資源となり、「どんなコースを経て」製革・集荷され、「犬キッド(なめし革)の靴」が流通・配給されるに至ったのか。それがペットにまで拡大された理由は?
この問いに回答してきたマスメディアは存在しません。
彼らが記事にするのは、読者の感情に訴えかける「戦時中に犬を奪われた思い出話」だけ。終戦記念日ネタとして消費できる物語性さえあればよい、たかが犬の話だろ?背景を調べる価値などない、という本音が透けて見えるのです。
 
無責任な報道の結果、あの惨劇の真相も曖昧となり、受け取る側まで混乱する始末。
たとえば、下の画像を見て「国家によるペット毛皮供出の証拠だ!」と勘違いする人もいれば、「陸軍省の要請で社団法人帝国軍用犬協会が仲介した民間シェパードの購買調達文書だな」と判別できる人もいることでしょう。
戦時犬界の知識がないと、商工省の犬革統制と陸軍省のシェパード購買契約を混同する可能性があるワケです。間違った前提で犬の戦時獻納を論じたところで、間違った答えにしか辿り着きません。
 

帝國ノ犬達-軍犬購買

●昭和16年に陸軍省の要請で開催された軍犬購買会の案内状。「民間のシェパードが戦地へ出征した」という話は、軍部と民間愛犬家によるシェパードの売買契約(購買軍犬制度)のことです。
 
日本軍の購買軍犬制度は、「訓育した愛犬を売りたい民間人」「基本訓練済みのシェパードを買いたい陸軍」「両者の売買仲介窓口である帝国軍用犬協会」の三者で成り立っていました。

しかし、戦時の犬を描くドラマや小説では「愛犬を軍部へ売り払った戦時体制の協力者」を「愛犬を軍部に強奪された戦時体制の被害者」へ脚色しがちです。よって、都合の悪い帝国軍用犬協会の存在はストーリーから抹消されてきました。

そんな作品ばかり目にしていると、勘違いするのも当然でしょう。

 

いっぽうのペット毛皮献納は、商工省の皮革配給統制規則(昭和13年)がすべての始まりです。翌14年には野犬の革も統制対象に加えられ、深刻な皮革不足に陥った昭和19年、統制対象は野犬からペットへ拡大。

軍需省(商工省を改編した省庁)と厚生省は全国都道府県知事にペットの供出を通達し、地域社会の畜犬行政(飼犬登録や狂犬病対策)を管轄する警察が殺処分を実施し、「生産」された原皮は皮革業界で製革のうえ、皮革統制機関を介して軍部や民間企業などへ配給されました。

※農商務省が獣疫予防法で管轄していた狂犬病対策は昭和4年に内務省(および傘下の警察)へ移管となり、昭和26年の狂犬病予防法施行によって保健所へ再移管されています。

 
帝國ノ犬達-犬猫献納
●昭和20年の日向日日新聞より、警察によるペット毛皮供出の要請。画像のとおり、従来の野犬駆除システムを利用して実施されました。
 
戦時犬界の実情は、このようにナカナカ複雑でした。複雑であるがゆえに、戦時犬界のハナシも長くなります。

犬に関する中央省庁の施策を並べるだけで

・陸軍省の「軍犬報国運動(シェパードの普及・調達)」

・文部省の「日本犬保存運動(在来犬の天然記念物指定)」

・農林省の「猟犬報国運動(猟友会への野生鳥獣毛皮献納要請)」

・軍需省の「畜犬献納運動(商工省時代の野犬革統制を含む)」

・家畜防疫を管轄する農商務省と公衆衛生を管轄する内務省が奪い合いを演じた狂犬病対策

などがあり、さらに47都道府県や外地(南樺太、朝鮮半島、台湾など)ごとの畜犬行政、獣医界、ペット業界、畜犬団体や個々の愛犬家などが絡み合っていたのです。これらに満州国犬界を加えると二倍ですよ二倍。

このブログを含め、ワレワレが知り得るのは歴史の断片に過ぎません。「犬の日本史のすべてを知っている」みたいな詐欺師を信用しないようにね(彼らが解説しているのは、東京の国会図書館で調べた東京エリア限定の話に過ぎません)。

 

●日本犬界の双生児たる満州国犬界。戦時犬界はあまりにも巨大であり、その全容を知る事は不可能です。
 
【戦時犬界とは】
 
『マヤの一生(椋鳩十)』『ムツとわたし(大和田啓子) 』『ボクちゃんがないた日(新田祐一)』『犬の消えた日(井上こみち)』『ああ!五郎(柚木象吉)』『さよなら、アルマ(水野宗徳)』。
銃後の犬をテーマにした作品は幾つもあります。
勿論、それらは史実を脚色した物語に過ぎません。当事者である帝国軍用犬協会メンバーが主人公の『ボクちゃんがないた日』と、大人の事情を知らない児童の視点を中心にした『犬の消えた日』では、戦時犬界の描写も180度異なります。
しかし、作品を史実そのものと勘違いする人も多いはず。「カワイソウ!絶対に許せない!」と激昂している読者レビューも散見されますし。
……許せないのであれば自力で史料を発掘・検証するのかと思いきや、お手軽ネット検索で拾った情報に薄っぺらな感想文を添えてオシマイ。
まあ、その程度の怒りなのでしょう。
 
あの15年戦争は、日本犬界史上で最悪の時代でした。
軍部の暴走は国力を疲弊させ、軍需皮革を調達する役人は犬の毛皮までかき集め、無能無策な政治家は責任を犬へ押し付け、体制に組したマスコミは犬を敵視する世論を醸成し、耐乏生活を強いられた一般市民は「非常時にペットを飼うのは贅沢だ」と愛犬家を罵り、聖戦遂行という同調圧力のもとにペットの大量殺戮へと至りました。
まさに、日本人が一丸となって犬を迫害したのです。
 
同時に、あの戦争は日本犬界が大きく発展した時代でもあります。
事実、戦時の15年間に亘って大量のジャーマン・シェパードを軍部へ供給し続けた、巨大な民間犬界が存在していました。この資源母体を確立するための「軍犬報国運動」によって、昭和6年の満州事変以降は陸軍が有する高度な飼育訓練知識が民間にも普及しました。
それから昭和12年の日中戦争勃発へ至る間に、日本犬は天然記念物に指定され、忠犬ハチ公ブームが起き、全国どころか外地や満州国にまで畜犬団体が設立されていきました。
米軍の本土空襲に晒された昭和19年に至っても「毛皮供出の犠牲となった多数のペット」が飼われており、それらの飼主たちを支えるペット業界や獣医界や畜犬行政も維持されていた訳です。
 

帝國ノ犬達-犬

●同じ昭和13年に撮影された、一般家庭の仔犬たち。戦時下においても「ペットと暮らす日常」がありました。
 

戦時犬界は昭和6年の満州事変から昭和20年の敗戦にかけて変化していったのですが、「戦時」への先入観ゆえ時系列は無視されがちです。

例えば「戦時中に飼育が許されたのはシェパードだけ」と主張する向きもありますが、もしそうならば「戦争末期に大量殺処分されたペットたち」はどこから湧いて出たんですかね?
ペット供出運動が実施されたのは昭和19年~20年のことで、それ以前はペットを飼育できました。「一部地域では~」「戦争末期に~」ならば理解できますが、「戦時中」で15年間を一括りにするのは乱暴過ぎます。
 
実際の「戦時中の犬界事情」はどのようなものだったのか。
15年にわたる戦時犬界史を、時系列で並べてみましょう。
 
【15年戦争と日本犬界】
 
幕末から輸入が増加した洋犬は、鉄路や海路が整備された明治20年代に全国へ拡散。愛犬家の需要にこたえてペット商や犬猫病院も現れ、大正時代になると日本ペット界は大きく発展します。

しかし大正12年の関東大震災で、国際港横浜もろとも関東犬界は壊滅。いっぽう国際港神戸には続々と洋犬が上陸し、日本犬界の中心は関西犬界へ移行しました。

以降、「関東の人間が審査し、関西の犬が受賞する」と揶揄される群雄割拠状態へ至ります。いくら東京で主導しようと、地方犬界との連携なしにモノゴトを進めるのは不可能でした。
関東犬界が復興した昭和3年、日本犬保存会と日本シェパード倶楽部が発足。もちろん、両団体の活動も全国規模で展開されていきました。
 
 
●昭和3年に始まった日本犬の保存運動は、国粋主義の時流に乗って展開されました(昭和10年の広告より)。
 
昭和6年、満州事変が勃発。これを機に、日本・外地・満州国をつなぐ巨大な犬界ネットワークが誕生します。
陸軍省の意向を汲んで設立された社団法人帝国軍用犬協会は、日本シェパード倶楽部などを合併しながら急速に巨大化。それを仲介窓口とし、日本陸軍は民間シェパード界の資源母体化に成功しました。
昭和7年以降は文部省の日本犬天然記念物指定も推進され、シェパードは「軍国日本の象徴」として、日本犬は「欧米犬界の序列に加わる国家の威信」としての地位を確立。同時期に報道された忠犬ハチ物語や那智・金剛の軍犬武勇伝も、愛犬家の増加を後押ししました。
ペット商が独占してきた商業主義的畜犬団体の改善も進み、愛犬家主導による品種別登録組織へと世代交代。昭和10年に東京オリンピック招致が決定すると、国際化にふさわしい飼育マナーや動物愛護精神の啓発がはかられます。
こうして、日本もペット先進国の仲間入りをするかに見えました。
しかし昭和12年、日中戦争が勃発します。
 

●ノモンハン事件で日ソ両軍が交戦した昭和14年(1939年)、東京で飼育されていたグレート・デーン。

 

日中戦争は海の向こうの出来事であり、銃後社会では普通にペットを飼育できました。

しかし予想に反し、日中戦争は泥沼化。皮革の最大輸出元だった中国と交戦状態に入ったことで、仏教的殺生観から皮革業界が小規模だった日本は深刻な皮革不足に陥りました。物資確保を急ぐ商工省や食糧難の到来を予測した農林省は犬革の戦時統制に着手し、それに便乗する政治家やメディアも現れ、愛犬家との対立も激化していきます。

いっぽう、戦時体制に迎合することで生き残りをはかる畜犬団体も現れます。「他団体の犬がどうなろうと、我が団体の犬だけはお目こぼしを」という自己保身により、犬界側が一枚岩になることはありませんでした。

 

犬

●ガダルカナル島撤退、アッツ守備隊玉砕と戦況が悪化した昭和18年当時のペットショップ広告(https://ameblo.jp/wa500/entry-12281456390.htm 画像のシャルクの子孫は、何頭かが戦時を生き延びました)。
 
日中戦争が泥沼化する中、昭和16年には太平洋戦争へ突入。欧米からの洋犬輸入ルートは同年で途絶したものの、国内繁殖された多様な品種が流通していました。
用具や飼料の不足、近隣住民の同調圧力による飼育放棄は相次いだものの、戦時下の愛犬家は犬を飼い続けたのです。
しかし、戦況が悪化した昭和18年を最後に内地の畜犬団体は次々と活動を休止。愛犬家は組織的防衛手段を失いました。
 

●この犬猫病院では昭和19年5月16日を最後に診察記録が途絶えています。二ヶ月後には絶対国防圏が突破され、食糧事情は逼迫。ペットの飼育自体が難しくなりました(平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より)。

 

戦争後期になっても、畜犬行政による飼育登録や狂犬病予防の制度は維持されていました。平林家畜病院の記録からはセフ(セファード=シェパード)以外にホックス(フォックステリア)やザツ(雑種犬)が飼育されており、「マリー」や「ジョン」といった洋風の名前がつけられていた事も分りますね。昭和18年から始まった敵性語の自粛は、それほど徹底されていなかったのでしょう。

戦時下で奮闘し続けた獣医師たちの努力は、同年末のペット供出運動ですべて無駄となりました。犬の頭数が減ったことで狂犬病発生は抑えられますが、その反動による感染爆発は敗戦後にやってきます。

 

 
●サイパンが陥落した昭和19年の夏、全国各地や朝鮮半島で生れたシェパードの仔犬たち(親犬の登録ナンバーに付記されているJSZは「独逸シェパード犬繁殖犬籍簿」、ZPrは「種族訓育試験合格犬」、SchHは「防衛犬試験合格犬」、MHは「伝令犬試験合格犬」を意味します。ジャーマン・シェパードの犬籍簿はドイツ語表記なので、敵性語の自粛とも無関係でした)。
 
戦争後期にも全国規模で犬籍簿が整備されているとおり、シェパード界のみは昭和19年末まで組織的活動を維持していました
しかし米軍の本土空襲が始まると、愛犬家にとって最後の砦であったシェパード界も北海道エリアを除いて壊滅。その窮状を対岸の火事と眺めていた満州国犬界も、20年8月のソ連軍侵攻によって消滅しました。
シェパードは毛皮供出の対象外でしたが、軍犬として出征した個体は敗戦によって戦地へ置き去りにされます。
 
このような記録を見ますと、満州事変(昭和6年)あたりから日本犬界のネットワークは大陸方面へ急拡大し、忠犬ハチ公ブームや中央省庁の施策も手伝って国民の動物愛護精神は向上。日中戦争(昭和12年)が始まっても内地ペット業界は活況を呈しており、太平洋戦争(昭和16年)突入後も愛玩犬の飼育は可能だったワケですね。
それこそ極端な例だと、日本犬柴犬研究所や日本畜犬合資會社は敗戦の半年前までペットを販売していました。
大まかな流れとして、戦時ペット界は隆盛期(昭和6年~昭和14年)、衰退期(昭和15~18年)、崩壊期(昭和19~20年)に区分しましょう。
「ある日突然、誰かの命令によって」ではなく、15年をかけて破滅へ追い込まれたのです。
 
【戦時犬界を知りたい人へ】

 

明治時代から築きあげられた近代日本犬界は、昭和20年の敗戦を待たずに崩壊。
たいへん都合がよいことに、戦時を総括すべき主体が消えてしまったのです。
軍部は解体され、敗戦処理に忙殺される官僚は犬皮統制を顧みるどころではありません。軍部を支援した犬界関係者も、体制に組して犬への敵意を煽ったマスコミも、扇動されて近隣の愛犬家を迫害した一般市民も、戦後復興の混乱に乗じて「我々は被害者です」「すべて軍部に強要されたのです」と黒歴史抹消に励みました。
こうして、日本犬界は自ら記憶喪失に陥ります。
 
それゆえ、現代になって話が混乱するのも当然ですよね。「愛犬を奪われた被害者」である一般市民を批判することは許されず、その一般市民が幾らの代金と引き換えに軍部へシェパードを売却したのか、どのような行政手続きによってペットを毛皮にしたのか、「戦時体制の協力者」としての証言はとりあげられません。
マスメディアも、「戦時体制の究明(戦時犬界の構造)」ではなく「戦争の悲劇(戦争の犠牲となった犬)」へピントを合わせる報道に終始しています。

そんなシロモノばかり見せられた側からは「戦争を論じる本質において、犬ごときの些末事は無視してよい」という暴論まで出てくる始末。しかも同じ口で「戦争の犠牲になった犬がカワイソウ」とか抜かすワケです。二枚舌も大概にしましょう。

 

帝國ノ犬達-軍犬購買

●帝国軍用犬協会の仲介で、日本軍と民間人飼主が交わす軍犬購買文書の一例(昭和16年)。わざわざ「希望値段」の欄を設け、「犬の売買契約が成立した後で購買官に異議を唱えるな」と記しているのは、犬の売却金額に後からクレームをつける飼主が多かったからです。
犬を強奪するどころか、軍部は国民に犬を売ってもらうようお願いする立場でした。
 
「犬をネタにした戦争論」と「犬の日本史における戦時期の解説」は、題目は同じでも互いの趣旨が違います。双方が共有すべき基礎知識として、日本犬界史のテキストが必要なのでしょう。

しかし責任を負うべき戦後世代の愛犬家は、戦時犬界史の編纂を放棄してしまいました。

犬への興味もないジャーナリストや評論家に作業を丸投げした結果が、アジテーションとポエムの発表会ですよ。

そういうワケで、この記事は愛犬家としての連帯責任的な意味で作成しております。上の世代のツケを払うのは私たち氷河期世代の宿命なのです。
 
●地図上で示すと、「戦時の日本犬界」はオレンジ色の地域。朝鮮半島と国境を接するのが「満州国犬界」で、ピンク色が軍事侵攻中だったエリアです。
神戸軍犬學校『教育軍犬紙芝居・戰線に吠えろ軍犬(昭和18年)』より
 
テキストを作るといっても、かなり大変なんですよね。
日本犬界とは地域犬界の集合体です。たった一つの書籍やサイトで、北海道から沖縄までの47都道府県、および南樺太、千島列島、台湾、朝鮮半島、関東州、南洋諸島、満州国にまたがる近代日本犬界を網羅するのは不可能。
それらのパズルを完成させようにも、敗戦によって大部分のピースが散逸してしまいました。
「国家」が無理なら地域犬界について調べましょう。先入観を排し、種々雑多な資料に目を通し、「この時期のこの地域の犬界はこのような状況だった」という大まかなイメージをつかんでください。
そこには記録者の主観や思い出補正が混じることを前提に(犬は文字を書き残せませんし)、他の記録と比較検証する作業も大事です。
たとえばペットショップの広告からも、読み取れる情報はたくさんあります。

わかりやすい資料として、磯貝晴雄氏が経営していた日本犬柴犬研究所をとりあげましょう。

 

 

●日本犬柴犬研究所のハデな宣伝活動を見た海外犬界は、店主の磯貝晴雄氏を日本犬保存運動のリーダーと勘違い。「彼はただのペット商だ」と日本犬保存会を憤慨させております(昭和18年の広告より)

 

磯貝さんが戦時体制下でペットを販売するには、国家の方針に従っているという大義名分が必要でした。具体的な宣伝手法として、国策のスローガンを掲げるのが効果的。

磯貝広告は、それを見事に実践しているのです。
広告左端のシェパードの写真の上に記された「軍犬報國」は、陸軍省による軍犬調達資源母体(民間シェパード)の繁殖・普及活動のこと。

隣の「獵犬報國」は、狩猟法を管轄する農林省が猟友会へ要請した兎・狸・鹿皮献納倍加運動における猟犬活用策です。

そして広告右下段、「天然記念物」という文部省の箔付けにより、ペットの飼育が白眼視された戦争後期になっても「日本犬のお奬め」が可能だったワケですね。「日本犬は米肉不用(※昭和18年には、犬の餌もサツマ芋などの代用食になりました)」「節米になり安心して飼へます」という、飼料不足に悩んでいた世相もうかがい知れます。

「朝鮮、台灣、滿洲安着」「今迄通り客車で安全に送れます(※実際は貨物扱い)」とあるように、外地や満州国を含めたペット通販も続いていました。困窮する内地犬界と比べ、外地犬界や満州国犬界は健在だったというコトです。

この広告が掲載された昭和18年、商工省は軍部の意向を反映する軍需省へ再編。同省の戦時皮革統制も国家総動員的な性格が強まっていきました。

 
 
犬
●昭和13年7月3日、大阪から出征する軍犬エリザ、陸奥、ローン、クラウス(向かって右より)。戦況の激化にともない、陸軍省による民間シェパードの購買調達も拡大しました。
 
【国家による犬の資源化とは】
 
犬の戦時供出とは、「国家が犬を資源化した」というお話です。
国家の役に立つ軍用犬や警察犬や猟犬や天然記念物、そして国家の役に立たない野犬や闘犬や愛玩犬は軍需皮革の原料となりました。シェパードを戦地へ送り出し、ペットを毛皮にするための仕組みをつくりあげた公的機関が存在したワケですね。
しかし何故か、誰も彼もが「戦時中に国家が酷いことをした!ケシカラン!」という大雑把な感想を述べるだけ。「国家」という抽象的な概念ではなく、具体的にどの中央省庁が、どのような理由で、どのような法令を根拠に犬を資源化したのでしょうか?

 

日本軍が犬革を採用したのは、皮革装具が普及した明治時代のこと。
ただし、軍部は「犬皮の生産者」ではなく「消費者」です。地域行政の野犬駆除・廃犬買上、皮革業界の加工流通先のひとつに、三味線業界や皮革製品業界や軍隊があったという位置づけですね。
この仕組みが戦時の犬革統制に流用されました(統制とは、民需物資を国家の管理下へおくことです)。
役割分担でいいますと、「中央省庁」の指導に従った「各地域の行政機関」が「一般市民のペット」を殺処分し、「皮革業界」が犬皮を製革・集荷し、「皮革統制機関」が配給し、「軍部」が製品化し、「日本兵」が使用した訳です。
人間社会は自給自足ではなく、分業制で成り立っていますから。
 
しかし多くの解説者は、「社会的分業」に触れようとしません。「犬を供出した民間人」と「犬を求める軍隊」だけを登場させて、両者を繋ぐ部分の話がすっぽりと抜け落ちているのです。
遠洋で獲れた魚が食卓に並ぶまでを説明するには、漁師さんや魚市場や魚屋さんを登場させますよね?犬の戦時供出も、購買調達・生産加工・集荷流通・配給消費の流れに沿って説明すべきでした。
 
それを怠った結果が今の惨状ですよ。
右も左もオノレに都合良く歴史を歪曲し、「日本軍がペットを射殺して回った」だの「在日外国人がやったこと」だのと愚にもつかぬ陰謀論を垂れ流し、話の矛盾をつかれたら「お前は戦時を肯定するのか」「お前はそれでも日本人か」と論点ずらしに走る人たちばっかり。
犬の話をしている時に、そんな踏み絵を強要されても困るワケです。
 
犬 
満州国にて、雪中戦装備の日本兵と斥候犬。日本軍の飛行服や防寒服には羊、兎、ヌートリアの毛皮が用いられました。
 
縄文時代、犬は狩猟採集生活の友でした。人間の居住エリアへ埋葬された犬骨も発掘されており、それだけ近しい関係にあったのでしょう。

日本で犬皮の利用が拡大するのは、稲作が広まった弥生時代のこと。この時代の遺跡から出土する犬骨には、皮や肉を切り離した解体跡が刻まれています。

後の仏教伝来や生類憐令などにもかかわらず、犬皮の利用は全国各地で続きました。何しろ鹿や猪と違い、人家の周囲をうろつく犬は容易に確保できる毛皮獣でしたから。
鷹狩りを楽しむため、武家では犬の肉を鷹の餌として大量消費していました。犬追物のようなイベントでも、多数の犬を事前調達し、開催当日まで飼養し、競技中にコントロールし、終了後には皮革や食肉として処理する専門家集団「河原ノ者」が支えていました。
太平の世が訪れると犬皮の需要は拡大。三味線ブームが到来した江戸後期の近畿地方では、犬の遺骸を回収していた「犬拾い」が手当たり次第に犬を狩る「狗賊」へと変貌していった様を暁鐘成が書き記しています。
 

そして仏教的な殺生観は、皮革業界への蔑視を生み出しました。

動物を殺して生皮を剥ぐなどもってのほか。しかし太鼓や武具や馬具や防寒具といった皮革の需要はみたさねばならない。

その矛盾と汚れ仕事は、差別と貧困をセットにして身分の低い人々へ押し付けられました。

結果として、我が国の皮革業界は日露戦争まで成長が停滞(服飾や装飾用の毛皮が普及するのは大正時代になってからです)。

国産革の自給率が改善されなかったため、後の戦時下においてペットの毛皮までかき集める窮状を招いたのです。


帝國ノ犬達-畜犬取締
●明治初期における畜犬取締の一例(京都府令書・明治8年9月番外第32號)。飼育マナー違反に対抗する畜犬行政は、やがて狂犬病対策と統合されました。
 
幕末の開国と共に、西洋的な動物愛護観が持ち込まれました。

鉄道網が整備された明治中期になると、かつては高嶺の花だった洋犬が一般庶民のペットとして普及します。同時に犬肉食は忌み嫌われ、急速に廃れていきました。

愛犬家の急増によって、さまざまな問題も発生します。
放し飼いや捨て犬が横行していた当時、全国津々浦々では野犬群が徘徊。太宰治の『畜犬談』にも、その様子がユーモラスに描かれていますね。

ユーモラスならいいのですが、野犬はゴミを漁り、人畜を襲う厄介者でした。更に、狂犬病の感染を広めていたのも野犬だったのです。

 

愛犬家の身勝手は、行政機関の介入を招きます。

地域住民に咬傷や狂犬病の被害が出始めると、警察当局は畜犬取締規則や畜犬税による飼育頭数の抑制策で対抗。「畜犬(ペット)」と「野犬」が法的に区分されたことで、行政による野犬駆除システムが確立します。
飼育登録された「畜犬」に対しては、畜犬税の納付、飼育マナー遵守、狂犬病予防注射が義務づけられました。そこから漏れた「野犬」は駆除され、遺骸は化成所へ送られ、肉は肥料、皮は三味線の材料として「リサイクル」されたのです。
犬の資源化は、ペット文化の副産物だったワケですね。

 

「戦時」に注目するあまり、このような「戦前」の経緯は無視されがちです。
犬の戦時論で目立つのが、「戦時体制下で狂犬病対策の野犬駆除が始まった」という事実誤認。

狂犬病が家畜伝染病に指定されたのは、農商務省の定めた「獸疫豫防法(明治30年施行)」が始まりです。これが農林省時代に「家畜傳染病豫防法(旧)」へ改正された後、狂犬病対策のみが内務省へ分離されたのは昭和4年のこと。

こうして狂犬病対策と畜犬行政は統合され、警察力をもって狂犬病の封じ込めがはかられました(厚生省が施行した狂犬病予防法を機に、昭和25年以降の畜犬行政は警察から保健所へ移管)。

つまり「戦時皮革統制のために狂犬病対策がスタートした」のではなく、「既存の狂犬病対策を利用して戦時の犬革統制が実施された」というコトです。

その犬革統制を主導した中央省庁について解説しましょう。

 
狂犬病
●昭和9年度の警視庁狂犬病予防ポスター。行政・獣医界の長きに亘る狂犬病との闘いは、多大な犠牲を払いつつ撲滅まであと一歩に迫ります。それも戦時体制下で破綻し、日本が狂犬病撲滅に成功するのは昭和30年代になってからでした。

 

【商工省による野犬皮革の戦時統制】

 

「国家による犬の資源化」を語るには、「中央省庁の関与」を明確にする必要があります。そして「国家による犬の戦時供出」も、「軍用犬の調達」と「犬の毛皮供出」に大別されました。

まずは「犬の毛皮供出」について説明しましょう。
  1. 昭和14年以前の野犬皮革流通:警察および駆除業者(野犬駆除)→皮革業界(加工・流通)→民需品(三味線皮)
  2. 昭和14年以降の野犬皮革流通:警察および駆除業者(野犬駆除)→商工省(皮革統制・配給)および皮革業界(加工・流通)→軍部(消費)
悪名高き「ペットの毛皮献納運動」は、国の指導をうけて地方の行政機関が実施した飼い犬の強奪でした。きちんと飼育登録をし、畜犬税を納め、狂犬病豫防注射を済ませた個人所有のペットを「お国のため毛皮にしろ」と強要されたのです。
これを主導したのが商工省(後の軍需省)でした。
しかし中央省庁であっても、いきなり個人所有のペットを毛皮にするような乱暴はできません。まず三味線用に流通していた野犬の革を統制する法整備からスタートし、それを拡大してペットの毛皮も狙う仕組みが段階的に整備されました。
犬の毛皮まで統制した理由は、軍需向け牛・馬・羊・鯨皮の供給不足。
戦時皮革統制の中心は、あくまで牛皮と羊皮です。国家による皮革統制機関も「日本皮革統制株式会社」と「日本羊革統制株式会社」に集約されていました。
イヌ革は、ウサギ革よりマシな程度のオマケ扱い。あくまで傍流のお話なのです。
 

軍需省

●犬の献納運動を指導した軍需省(旧商工省)は、生活物資の軍需化も指導していました。戦争末期はあらゆる物資が軍事優先となっていたのです。
……小松崎画伯がこんなイラストを描いていたとは(昭和19年の広告より)
 
太平洋戦争突入以降、商工省は皮革統制を強化。
昭和17年には「高度國防國家體制を完備するため、皮革、皮革製品並に鞣剤の製造及販賣に關する事業の綜合的統制運營を圖り且當該産業に關する國策の立案及遂行に協力することを目的」として「皮革統制会」を発足させました。
こうして、皮革・皮革製品・鞣し剤の業界を統括した皮革統制システムが完成したのです。
 
民需皮革の世界は複雑極まりなく、畜産界から供給ルートが確立されていた牛や馬や山羊や豚皮、牧羊界からの羊皮、捕鯨業界や漁業界からの鯨や鮫皮、狩猟界からの野兎や猪や鹿皮、養殖獣界からの狐や狸やヌートリアや家兎皮、輸入品である蛇や鰐革、そして野犬駆除の副産物として供給される犬皮などが、それぞれ畜産組合、皮革業界、皮革製品業界、貿易商、野犬駆除業者などによって流通していました。
それを軍需統制しようとした商工省の施策も、当然ながら複雑化。
あらゆる犬を皮革資源化する勢いだった商工省と、猟犬を保護しながら野犬毛皮の資源化をはかった農林省のように、犬革統制の方針も省庁ごとに異なります。
ゆえに「犬の戦時供出」の全体像を把握するのは、ナカナカ大変なのです。
 

帝國ノ犬達-犬の特攻隊

●戦争末期、八王子警察署から地域住民へ回覧されたペット毛皮献納を依頼するチラシ。
もともと八王子警察署は「軍用犬その他と區別の犬の他は廃犬として、その皮を献納すれば、節米にもなり一擧兩得と云ふ、ごく常識的な單なる思ひつき」を昭和15年に発表し、世の愛犬家から猛バッシングを受けていました。しかし戦況が悪化した昭和19年末には、堂々とペット献納を通告できたのです。
 
昭和12年、皮革資源の最大輸出国である中国と交戦状態に入ったことで、日本は軍需原皮不足に直面します(以降、内地産皮の不足分を外地産皮と満州産皮で補う綱渡りが続きました)。
「国家総動員法」が施行された昭和13年、軍需物資の確保を急ぐ商工省は「皮革使用制限規則」「皮革配給統制規則」を制定。皮革の卸売業者・小売業者を統制する「日本皮革統制株式会社」「日本羊革統制株式会社」も設立します。
これにより、主要な皮革資源であった牛、馬、羊、豚、鯨、鮫の革は両社の管理下へ置かれ、需要者へ配給されるようになりました。
それでも需要に追いつかず、昭和14年の皮革配給統制規則改正ではロバ、ラバ、水牛、鹿、ノロ鹿、山羊、そして野犬の革(加工革)も統制対象に加えられます。
同年における関東エリアの犬革統制事情については、下記をご参照ください。
 
横濱市内には中村町と六ツ川町の二ヶ所に「浮浪犬収容所」があつて、街で犬殺しに捕まつた犬は全部一旦此處にぶち込まれる。犬の大小に依つて相場も違ふが、生體一頭平均一圓五十錢位で犬問屋の手に渡り、これが保土ヶ谷區の二俣川や東京の三河島、遠州などの屠犬場に送り込まれる。
屠殺した犬の生皮は製靴工場へ、肉や臓腑は肥料となるが、最近犬肉の需要が非常にふえたといふのは餘りいい氣持ではない。
ワン公の皮もこれまでは自由に加工販賣されてゐたが、最近はこれも皮革統制網に織り込まれて、原皮の公定價格が決まり、犬クローム甲皮一坪(一尺四方)九十五錢とか、犬絖革は八十五錢といふ様に値段が法定され、製靴工場で鞣めした犬革も自由取引は御法度で、一旦日本皮革統制會社の手を經て靴屋さんに配給されるのである(朝日)
 
戦況の激化に伴い、軍需原皮不足は深刻化。
畜産業界の縮小、陸軍と海軍による皮革資源の奪い合い、そして原皮の公定買取価格が安過ぎて、高値で売買できる闇市場へ流出してしまったのです(これは毎度のことで、日露戦争でも軍需原皮の横流しが問題化しています)。
犬の毛皮でも同じ問題が起きていました。
駆除業者から問屋を経て皮革業界へ野犬の遺骸が渡る過程で、少なからぬ量が闇市場へ横流しされていたのです。
つまり、商工省が軍需統制できた犬革は皮革業界で流通する分のみ。野犬駆除の段階で、闇市への流出を阻止する必要がありました。
 
【軍需省(旧商工省)によるペット献納運動】
 
軍需省および厚生省→地方長官(都道府県知事)→飼主→警察・駆除業者→皮革業界および皮革統制機関→軍部
 
昭和15年以降、商工省物価局は野犬駆除業者の統制追加を提言。野犬殺処分の段階で犬皮の完全掌握を図ります。
しかし、内務省の畜犬行政に商工省が介入することはできず、しばらくは静観が続きました。
同じ頃、警察や獣医師の間では「ペットの遺骸も資源化すべき」という意見が現れます。
從來犬の死體は飼主の愛憐心からその儘葬られてゐたが、國策の線に添ふ意味で、この皮革を活かして献納し、國家のお役に立てやうでないかと云ふ案がもち上り、七名の實行委員をあげて、一般愛犬家に呼びかけることとなつた。
 
東京府獸醫師會『犬の皮革献納運動(昭和15年)』より
 
犬皮を狙う商工省の強い味方となったのが、一般市民です。
ペットの飼育に対する批判は、昭和14年の国民精神総動員運動や節米運動をきっかけに噴出しました。「贅沢は敵だ!」を標語に掲げた耐乏生活を強いられた市民の間で、「この非常時に、ペットを飼うような贅澤は許されない」という同調圧力が高まったのです。
 
帝國ノ犬達-畜犬合資会社 
●東京府が東京都となった昭和18年7月以降もペットを販売していた日本畜犬合資会社。戦争末期に商売を続けるため、陸軍省の「軍犬報国」と農商省(旧農林省)の「猟犬報国」を大義名分に掲げております。「国策に副つて駄犬や不良犬は整理しませう」とある通り、犬革の国家統制は公然と宣伝されていました。
 
この世論誘導には、中央省庁も関与していました。
昭和15年7月19日に開催された軍用犬の飼料確保問題座談会にて、農林省の官僚が下記のように発言しています。少し長いですが、「国家の方針」を知るための記録として引用してみましょう。
 
・重川帝国軍用犬協会主事
全國で切符制度をやつてゐるのはどこと何處ですか。
・布村農林省技師
米の切符制を實施致して居りますところは、只今迄に米穀局の方へ公式に認可を得て居ります地方は、岐阜、鹿兒島、福岡、高知、愛媛、山口、山梨、岡山、兵庫、廣島の以上の十縣であります。それは全面的ではなく部分的であります。その十縣の中で切符制と云ふものが一番圓滑に行はれて居りますのは、高知縣と廣島縣であります。
・大橋帝国軍用犬協会理事
配給量はどれ位ですか。
・布村
それは或る方面は三合、或る治方は二合と云ふ様に必ずしも一致致して居りません。
・大橋
十縣の中には御座ゐません様でしたが、今年の五月に臺灣から上京せられた方に聞いたのでありますが、四月から切符制になつて居りまして、一人當り二合何勺かになつて居り、それ以外には絶對に配給されず、犬の飼育家は全部人間が粥をすゝつて犬を育てて居ると云ふ事を承つた事がありますが、若し此の状態が續くと致しますれば、飼育家が自然と減ると存じますが……。
・布村
今内地に於ける犬の頭數は畜犬届のしてある性質の犬が四十萬頭位あると存じます。それでは不良犬はと申しますと、八十萬頭位ありはしないかと存じて居ります。
そうしますると、結果百二十萬頭と云ふ事になります。
之が全般に飼料としてゐますのは米であります事が事實でありますから、概數でありますが百二十萬石が此の方に使はれてゐるのではないかと存じます。その大部分は何等實役のないものが多分にゐるのではないかと存じます。
で、私はこう云ふ時局に國家が要求する犬を保護し、駄犬はこう云ふ時局を利用して淘汰してしまうと云ふ事はいいのではないかと存じます。
その代りに國家の要求する犬はある程度の保護を加へて米を確保すると云ふ風にして行つた方がいいと存じます。一方に於ては駄犬の淘汰ともなります。
そう云ふ駄犬があります事は、眞の愛犬家の邪魔になります。私も犬を飼つてゐるのですが、近所から駄犬が集まつて來るのには困ります。
・大橋
つまり有用なる犬を以て駄犬と置代えてしまうわけですね。
・布村
そしてですね、此の物資の不足してゐる際にそれだけの駄犬を撲滅する事が國家の何等かに役立てばいいと存じますが。
・大橋
それが出來得ればと云ふより、是非そうしたいものと思ひます。
・小金丸陸軍獣医少佐
駄犬と有能犬との間に飼料を考慮する事が出來ますか。野良犬はほつておいてもそこら中を漁つて生きて居ります。そう致しますと、野良犬を撲滅したところが結局その飼料と云ふものは有能犬に置き換ようと云ふ事は困難ではないかと思ひますが。
・布村
野良犬と申しましても、殆んど芥箱を漁る犬は少いのでありまして、正式の手續もとらず家の中に飼はれてゐる犬が少くないのであります。
・小金丸
そうすると、そう云ふ人達は飼料に對して苦情等は云えないわけですね。
・大橋
野良犬は解決されるのではないかと思ひます。
・布村
それは正式には届出てないが、家で飼つてゐるものですから非常に解決しにくいものであります。
そう云ふ犬は精神運動(※国民精神総動員運動)に依つて献納させる様にする。そしてその皮は鞣皮として利用し、その肉は人間が食ふ事が出來ない迄も、化生する事に依つて脂をとり肥料等に致したなれば非常に有望ではないかと存じます。そう云ふ事を協會あたりが乗り出されたら、有能犬のためにも非常によい事ではないかと存じます。
・和田国軍用犬協会専務理事
今のお話は賛成でありますが、そう云ふ風に問題が切實になつて來ますと、自然に淘汰されるのではないでせうか。としますと、人の可愛がつてゐるものを止めろと云ふのではなく、それはそれと致しまして、實際の實用犬の食料を確保すると云ふ事をお願いしたいのですが。
・布村
駄犬を整理する事に依つて一方に於て有能犬の食料を確保すると云ふ交換條件と云ふものがあつた方がと存じますが。私はそう云ふ特種の運動をやらぬと、結局は野良犬にでも自分の食料を分けてやる惰性はあると存じます。
それが國家に献納すると云ふ事になりますれば、面子も立つわけでありますし、いいのではないかと存じます。
・和田
吾々の有能犬のためにそれ迄にやらなければならぬと云ふ事でありますれば、多いにやりますが。
・布村
又之はどうしても單獨でもやらなければならぬ問題であると存じます。それと同時に、代用食を考へて行つた方がいいのではないかと存じます。
・橋本帝国軍用犬協会副会長
大體布村さんかが云はれました御意見と一致してゐると云ふ事を前提と致しましてお話致し度いと存じます。犬は家畜であるか、家畜でないかと云ふ問題は種々論議せられるところでありますが、結局は産業に關係があると云ふ事よりして、家畜であるとみて居るのであります。
併し乍ら犬が家畜であるかないかは別と致しまして、人間と犬と言ふ問題でありますが、犬は人間がある以上どうしても必要であると云ふ事は何處の國に生きましても犬の居ない國はないのであります。つまり人生と犬と云ふ事は産業と云ふものの利益があるなしに拘らず、人間が存在する以上犬を全部撲滅する事は不可能の事であります。
議會に於きまして北令吉氏が犬の撲滅論を唱えましたが、その言葉は一面眞理ではありますが、人間が食えなくなりますれば馬や犬に致しましても食えなくなると云ふ事はありますが、今の食料問題と云ふ事は其處まで行詰つてゐるかどうかと云ふ事が問題であります。
 
『軍用犬の飼料問題に就て檢討する座談會』より
 
……太平洋戦争が始まる前から、ペット毛皮供出の具体案が固まっていたんですね。
この構想は、いち役人による単なる思いつきではありません。農林省の業務として食糧事情の悪化を冷静に予測し、畜犬行政や米殻局配給課(後の食料管理局)のデータをもとにペット毛皮資源化案を導き出したのです。
 
昭和15年の時点では「商工省の傘下に野犬駆除業界による犬皮統制機関を組織すべき」「陸軍省と農林省が中央機関となり、民間においては農林省が駄犬の献納を指導してはどうか?」という提案レベルで終わりました。
そして昭和16年、農林省は「都市衛生と皮革増産」を理由に野犬毛皮の統制をスタート。しかし同年末には太平洋戦争へ突入し、物資不足はますます深刻化していきました。
 

商工省が軍需省に改組された昭和18年11月以降、皮革統制促進を求める軍部からの圧力も強まります。対応に苦慮する官僚たちは、「野犬が足りなければ、畜犬も毛皮にすればよい」という結論を下しました。

こうして実施されたのが、悪名高きペットの献納運動です。

 

昭和18年以降、日本犬保存会や日本シェパード犬協会といった大規模畜犬団体も次々と活動を休止。愛犬家は組織的抵抗の術を失っていました。

絶対国防圏が突破された昭和19年末、軍需省化学局長と厚生省衛生局長は「軍用犬、警察犬、天然記念物の指定をうけたものおよび獵犬(登録したものに限る)を除く一切の畜犬は、あげて献納もしくは供出させること」を全国の地方長官(都府県知事)へ通達しました。
両省に従った各地の行政機関では、昭和19年12月20日から翌20年3月にかけてペット供出を実施。従来の野犬駆除システムに飼育登録リストを組み合わせれば済むので、この殺戮はスムーズに進捗したのです。

 
犬税未納の飼犬(野犬扱いとなります)が、警察の取締で殺処分される事は昔からありました。狂犬病流行の際、感染拡大阻止のため地域のペットを殲滅した事も度々ありました。

法令違反や防疫措置として、仕方なかったのでしょう。

しかし、全国規模で個人所有のペットを殺処分した献納運動はハナシが別です。戦時下における集団ヒステリーとしか表現できない、「犬のジェノサイド」でした。
動物愛護団体や外交関係者は「国民からペットを奪う行為は、戦後に批判されるぞ」「国際的な地位を護るため、欧米諸国が忌み嫌う動物虐待は避けねばならない」と忠告したものの、一億玉砕へ突き進む銃後社会では顧みられませんでした。
 
日本人が一致団結して成し遂げた畜犬献納運動。その暗い歴史から目をそむけたくなる気持ちは理解できます。
だからといって「ペットの供出運動は無かった。その証拠に日本犬が生き残っているではないか!」などという反論は通用しません。
上記のとおり天然記念物指定の日本犬は供出対象外。さらに「日本犬も毛皮にしろ」と迫る近隣住民に抗い、山間部へ疎開させ、食糧難の中で飼料の手配に奔走した人々がいたのです。
生き残らせる為に払われた努力と犠牲については、日本犬の歴史をお調べください。
 
また、「毛皮を得るため、日本軍が市民のペットを射殺して回ったのだ!」というデマも散見されます。
こちらに関しては、第75回帝国議会予算委員会における「 こんにち御承知のごとく革が足らなくて困っている。食うものが足らなくて困っている。そういう際に犬猫を撲殺することに陸軍が努力したらどうか」と発言した北昤吉代議士の事例。
そしてハリウッド映画『硫黄島からの手紙』で、鳴き声がうるさい犬を憲兵が射殺してしまうシーンあたりから発生したと思われます(もちろんフィクションの映画とは違い、あのような理由での発砲は「憲兵令」において許可されていません。そもそも「高音取締規則」で犬の鳴き声を取締まっていたのは憲兵ではなく警察です)。
 
ここからが大事なお話。
語るに値しない「無かった論」はともかく、「軍部犯行論」は間違いではありません。
軍需省と陸軍省を混同しているとかいう話ではなく、陸軍省にも犬毛の資源化計画が存在したのです。
 

【陸軍省の犬毛蒐集運動】

 

軍部は単なる皮革の消費者だったのか?といいますと、犬毛の供給にも直接関与していました。好き勝手に戦争を拡大したあげく、毛皮が足りないもっと寄越せと騒いでいた張本人ですし。
軍需省のペット献納とは別に、「陸軍省の要請で実施された犬毛の資源化」が記録されています。

 

陸軍省馬政課←帝国軍用犬協会・日本シェパード犬協会←各団体会員


犬
●「本協會」とは帝国軍用犬協会のことです(昭和16年)。

 
上の画像は、軍馬・軍鳩・軍犬の調達業務を担当していた陸軍省兵務局馬政課(犬政課や鳩政課は存在しないので、馬政課が兼務)による「犬毛蒐集運動」の依頼文書。
犬毛供出に軍部が関与した動かぬ証拠、「馬政課發第214號」です。
 
早トチリされると困りますので、画像をよくご覧ください。
第214号の文中に「犬毛利用」「脱毛蒐集の依頼」と書かれていますよね?実はコレ、「抜け毛」を集める活動でした。
「犬皮」や「犬革」ではなく、季節の変り目に発生する大量の換毛、アレの収集・資源化を組織的に試みたのです。
要請対象も、シェパード登録団体である帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会に限定されたもの。勿論、その会員が所有する貴重なシェパードを殺して生皮を剥いだりはしません。
陸軍省が第214号で集めた抜け毛は、四日市の陸軍製絨廠へ送られて研究材料となりました(何かしらの成果があったらしく、昭和19年には軍所管の軍馬、軍犬、牛などの脱毛収集が国内各部隊へ通達されています)。


確かに軍部の直接関与はありました。ただし、商工省のペット献納運動と陸軍省の犬毛蒐集運動は区別してください。

まあ、どちらの資源も軍部が消費したんですけどね。
ペットに頼るまで追い詰められた日本軍は、負けるべくして負けたのです。
 
【軍部による民間シェパードの調達】
 
軍部が民間ペット界へ関与したのは、犬の抜け毛ではなくシェパードの調達業務。いわゆる軍犬報国運動です。
軍部と飼主をつなぐ軍犬調達システムは下記のとおりでした。
  1. シェパードの飼主(売却の場合)→社団法人帝国軍用犬協会(仲介窓口)→陸軍(審査・購買)
  2. シェパードの飼主(売却の場合)→社団法人日本シェパード犬協会(仲介窓口)→海軍(審査・購買)
  3. シェパードの飼主(売却の場合)→社団法人満州軍用犬協会(仲介窓口)→関東軍、満鉄、満州国税関(審査・購買)
  4. シェパードの飼主(寄贈の場合)→最寄りの陸軍駐屯地
 
帝國ノ犬達-購買
●陸軍が帝国軍用犬協会へ依頼した軍犬購買会の開催通知(昭和18年9月度)
 
●海軍は日本シェパード犬協会から犬を調達していました。海軍犬の存在を知らないと、「日本シェパード犬協会は軍部と距離を置いた純粋な愛犬団体だった」などという善悪論を唱えてしまうワケです(昭和13年)
 
日本の陸軍は大正8年から、海軍は昭和7年から軍犬(「軍所管犬」の略称)の配備を開始しました。
しかし、軍部には大量の犬を繁殖育成する予算や人手などありません。そのため、民間人が訓育した軍用犬(「軍用適種犬」の略称。シェパード、ドーベルマン、エアデールの三犬種)を購入する事で大量調達を可能としていたのです。
東洋の島国が多数のジャーマン・シェパードを実戦投入できた理由。
それは、資源母体である巨大な民間ペット界が存在したからなのです。
 
犬
●軍部が民間シェパード界を資源母体化するためのデータベースとなった、社団法人帝国軍用犬協会のシェパード種犬籍簿(SKZ。他にドーベルマン用のDKZやエアデールテリア用のAKZが存在しました)。ご覧のとおり、日中開戦時点で累計2万2千頭もの民間シェパードが国内登録済みです。
KZの情報は陸軍も共有しており、膨大な登録リストの中から優秀な個体を選抜・審査のうえで飼主との購買契約が結ばれました(価格交渉に失敗した場合、犬は飼主へ戻されます)。
 
●陸軍は日本シェパード犬協会の犬籍簿(JSZ)も掌握しようとしますが、こちらは筑波会長が防波堤となって干渉を退けました。皇族出身かつ熱烈な愛犬家だった筑波藤麿には軍部の威光も通用せず、会員個人への恫喝や嫌がらせレベルに終始しています。
 
軍部によるシェパードの調達は、制度維持の為にも「軍と飼育者による売買契約」が原則でした。強奪なんかしていたら誰もシェパードを飼わなくなって、日本軍は資源母体を失うだけですから。
飼主と軍部の仲介窓口として設立されたのが、社団法人帝国軍用犬協会(KV)でした。その登録犬数は、活動中の昭和8~19年の間で累計6万8千頭に達しています。
 
 
こちらが入会申込書。入会金2円と年会費8円に加え、愛犬の犬籍簿登録料などが必要です。
 
これだけ多くの飼い主が、登録料や年会費を払ってまでKVへ加入し続けた理由。それは、愛犬を「大手の就職先」である陸軍へ売却するためでした(良い・悪いは置いといて、そのような時代だったのです)。
他には、篤志家から無償譲渡された「寄贈軍犬」のケースもあります。基本訓練済みの「購買軍犬」と違って未訓練の犬も混じっており、配属先の担当兵を困らせたとか何とか。
 
【郷土防衛の民間ペット部隊】
 
本土決戦部隊→帝国軍用犬協会・日本シェパード犬協会→各団体会員および登録犬
 
「犬の毛皮供出」「軍用犬の出征」に次ぐものとして、「郷土防衛の民間ペット部隊」も存在しました。これが「軍用犬の出征」と「ペットの毛皮供出」を混同させてしまった一因でもあります。
前出の八王子文書に記されている「犬の特別攻撃隊を作って敵に体當りさせて」という一文は、毛皮供出を促進させるためのアオリ文句に過ぎません。
これとは別途に編成された「本物の犬の特攻隊」こそが国防犬隊です。
 
帝國ノ犬達-軍犬隊
大阪の防空演習で撮影されたKV義勇軍犬隊。陸軍の軍犬班ではなく、全員がペットと共に参加した民間人です(「大阪上空へ侵入した敵機が毒ガス弾を投下した」という想定で、着用している犬用ガスマスクは企業からのレンタル品)。
 
もともと日本シェパード界では、昭和11年頃から親軍ボランティア組織の「義勇軍犬隊」を各地で結成。防空演習での伝令・救護訓練に愛犬を参加させていました。
昭和19年末、これを本土決戦用の準軍事組織として再編したのが「国防犬隊」。日本軍の指揮下で米軍上陸を迎え撃つ郷土防衛隊として、民間の飼主とペットまで動員されたのです(建前上、加入脱退は任意)。北陸や九州では実際に国防犬隊が編成されたものの、戦争末期の混乱で全容は判明していません。

帝國ノ犬達-国防犬隊
●幻に終わった国防犬隊に関する記録も、僅かながら残されています(昭和19年)。

 

このように、「犬の戦時供出」には様々なケースが存在しました。

 

以上は内地の状況ですが、外地や満洲国から持ち込まれた犬皮についても調査する必要があります。
前述のとおり、近代日本犬界は外地と満州国を含むエリアへ広がっていたのです。南樺太の、朝鮮半島の、台湾の、関東州の、そして満州国の「犬の供出」はどうだったのでしょうか?
 
【輸入・移入された犬革】

 

犬

●朝鮮産犬皮の利用状況。陸軍被服本廠『犬皮の利用價値に就て』より(昭和9年)
 
中国より小規模だったものの、満州国において狗皮は重要な輸出産品でした。欧米では、安価な代用毛皮(要するに偽キツネ毛皮)である満州産狗皮を大量輸入していたのです。
ユダヤ系、中国系、ロシア系の毛皮商が群雄割拠する満州毛皮界に、狗皮を狙う日本毛皮商も遅れて参入。
日本向け狗皮も同じく、輸入の過程で相当量が狐に化けていたのだとか。安価な犬皮を高級キツネ毛皮として売り捌けば大儲けですからね。
当時の皮革業界で「加工にひと手間加えれば、素人目にキツネ皮とイヌ皮の区別はつかない」と言われていたとおり。
裏事情を知らない御婦人がたは、キツネと騙されて犬の毛皮で着飾っていた訳です。
 
いっぽう朝鮮半島では事情が異なり、日本向け移入犬皮の多くは軍需用でした(日本統治下であった外地の場合、「輸入」ではなく「移入」)。そして昭和18年、朝鮮総督府は「外貨獲得手段」として大規模な犬皮資源化計画に着手。
移入皮革を受け入れる側の商工省も、移入・輸入業者に対する皮革統制を規定していました。
犬皮の内地移入については詳細不明ですが、朝鮮原皮株式會社などの移入統制機関へ組み込まれたのかもしれません。
 
こうして、戦時下の日本には大陸産犬皮が大量流入しました。
温暖な日本産の犬皮が不人気だったのは、厳しい寒気に晒される満州産の狗皮と比べて毛質が劣るから。満州国の野犬を犠牲にし続ければ、日本のペットたちは畜犬献納運動から逃れ得たかもしれません。
しかし、戦争が長期化するにつれて需給バランスは崩壊。低品質な内地産犬皮もかき集め、ついにはペットまで毛皮にされたのです。
 

帝國ノ犬達-犬毛皮

●朝鮮総督府が資源化目的で収集した犬皮サンプルの着色イラスト。併せて天然記念物である珍島犬の保護状況も調査され、ペット商の買い漁りによる島外流出が発覚する騒ぎとなりました(昭和18年)
 
次回より、このような事例を取り上げていきましょう。
日本犬界が壊滅する中、戦時を生き延びたペットたちの記録も残っています。繰り返し書きますが、ここに掲載したのはごく一部の事例に過ぎません。
「銃後の犬界史」は、あまりにも複雑なのです。
 

(第2回へ続く)