満洲国の畜犬史・その10 満洲犬界の崩壊 | 帝國ノ犬達
2018-02-27 22:56:50

満洲国の畜犬史・その10 満洲犬界の崩壊

テーマ:満洲国の犬界史

拝啓 寒冷の候御変りありませんか。出發に際しては御配慮に預り厚く御禮申上げます。
降つて小生等一同身もちぎれる様な風吹く新京の兵営に在つて盛んに犬の訓練に熱中して居ります。幸ひ犬舎は前の部隊の残したもの在り、不完全乍らもどうやら寒さにはしのぎ易く飼育にはなんの不自由もありません。
ボートは日毎成長して體格などは實に立派に發育致しました。時に見物に來られる人がボートを見て驚いて帰ります。食餌も他犬の二倍です。唯バターは九日より風邪氣分となり元氣がなくなり、十日咽喉部が膨張してゐるのに気が付き、獣医少尉の診断を受けましたが、病名不明とてメンタムの如き薬を塗布致しました。
次の日相変らず元氣が悪いので、再び診断を受けました所、同少尉は市内の専門家の診断を受けさせて呉れましたが、矢張り病名はわかりません。人気者バター、曹長殿の御気入りのバターなる故一同心配してゐる次第です。
丁度おたふくかぜの如く下顎部が膨大してゐるのです。食欲の方は餘り衰へないが、熱が高く元氣がないのであります。馴れない氣候の為か?然しボートは元氣が良いのだから驚きます。
現在バターは暖かい曹長室に於て養生中です。間もなく恢復することでせう。
狭い箱の中の長い輸送、潮風に吹かれ、船酔し、汽車に揺られ汽車酔し、運動もせずして漸く着いた目的地は零下二十度の寒さ。仔犬のバターは遂に降参したのか。其の他の犬は全部元氣ですから皆々様によろしく御傳へ下さい。
尚、輸送間の状態を報告致しませう。
山形神戸間、馬と一緒に貨物列車に積まれました。付添人が二人なる故少しく停車時間はあつたもののホームは見送人のため運動などは不可能にして、一回の放尿脱糞もさせず、然し寒くもなく全部元氣で神戸へ着きました。四十時間ばかりの間、箱から一回も出さなかつたが各犬共用便しないのには驚きました。
神戸に於て五日間ばかりの滞在、馴練は行はずも運動のみは充分にやりました。餌も各旅館より牛肉、鶏卵等栄養價値のあるものばかり。従つて食欲も良好、汽車の疲れも忽ちにして恢復し他らしく感じました。

神戸大連間は四日ばかり、幸ひ甲板に位置致しました。空気の流通最も良く、但し寒さは甚だしくも馬とは離れ給餌等は至極便利でしたから、好都合だつたのです。多少船酔ひし食欲もなかつたが、大したことはありませんでした(順のみは全然食欲はなかつた)。
取扱兵全員にて毎日犬の所へ行き愛撫しつゝ無事大連に到着致しました。大連新京間、約四十五時間でありました。付添人は輸送関係上一名でしたが、其の一名が我々取扱兵に非らず犬には知識のないものでした。水と餌だけを充分にやることにして馬と一緒に積まれました。
話に依れば一晩中吠へ続けたとのこと。無理もない話、寒い満鐵の貨物列車、無論保温設備などは全然ない、犬箱の中は糞と尿とで一杯、それが凍つて冷たい寒いのです。掃除も出來ない付添人、察するに餘りあるものでした。客車にあつた僕達の心配は一通りではありません。一刻も早く犬に會ひたいの氣持で過ごしました。
然し會つた時は思つたよりもよく、全部無事でありました。糞と尿は凍つた故臭気は少なく、唯睡眠は全然しなかつたと思ひます。斯くして永い輸送は終り、つくづく痛感したのは犬の困苦欠乏にたへる力であります。先づは輸送中並に近況御通知致します。
皆々様によろしく。
さやうなら、乱筆多謝。

山本部隊安部隊通信班 渡部勉 

昭和13年、献納者であるJSV奥羽支部長菊池氏宛への戦地便りより

 

満洲事變から15年間に亘って、満洲国には多くの軍犬や民間のペットが送り込まれました。統計すら無いので、その総数を把握することはできません。

巨大に膨張した満洲犬界にも、やがて終焉の時が訪れます。

 

 

【日本犬界の崩壊】

 

満ソの睨み合いが続いていた頃、隣の中国では日中戦争が泥沼化。抑圧された空気の中で、日本人は鬱憤を犬に向け始めました。

内地では、節米運動を機に「この非常時に愛玩犬を飼う奴は非国民」「無駄飯を食む駄犬は毛皮にしてしまえ」というペット撲滅論が台頭します。

 

このような状況も、食料が豊富な満洲では対岸の火事に過ぎませんでした。日満犬界関係者が非常時の飼料問題について討議した際、内地犬界が「カイコのサナギは飼料にならないか」などと窮状を訴えた一方、満洲犬界は「余った肉の保存法について」などと別次元の悩みを持ち出す始末。全く噛み合っていません。

 

日米開戦以降も内地犬界状勢は悪化の一途を辿りますが、満洲犬界では熾烈な空襲や深刻な物資・飼料難に晒されることもなく、表面上は平穏な日々が続いていました。犬の飼育が白眼視されるどころか、MKのドッグレース事業は満員御礼の大盛況。

内地でペット毛皮供出運動が始まった頃、創立11年目を迎えた満洲軍用犬協會は希望に満ちた将来像を描いています。

此の沿革史は、十年の一節を曲りなりにも綴つた。謂はゞ安東支部初歩の記録に過ぎない。必ずや二十年史、三十年史は續けて編纂される事は必然の事と信ずる。幼稚園から國民學校へ、此の段階が本沿革史であるとすれば、中學、大學は次々に物される沿革史が夫れであり、更らに錦繡を綴つて絢爛たる編纂が行はれるであらふ。私は只管に其事を想像して、蟲の好い話だが自ら慰めてゐる

満洲新聞協會 馬場書族 昭和十九年晩秋

 

昭和20年春、敗戦を待たずに内地犬界は崩壊します。

トドメを刺したのは、米軍の空襲による爆死や食料難による餓死ではありません。日本が一丸となって遂行した犬のジェノサイド「畜犬献納運動」の結果でした。

 

内地の断末魔も、満洲国とは無縁の出来事。しかし、満洲犬界にも未来などありませんでした。

能天気にもソ連の和平工作仲介にすがっていた日本ですが、当のスターリンは日ソ中立条約の破棄と対日参戦をヤルタ会談で密約済み。

日満犬界という双子は、運命を共にするしかなかったのです。

 

帝國ノ犬達-軍犬


【王道楽土に消えた犬】

 

「米軍が日本本土に上陸しても、満洲で持久戦をすればいい」などという甘い考えを嘲笑うかのように、先に蹂躙されたのは満洲国でした。

昭和20年8月8日から9日にかけ、日本に宣戦布告したソ連は満洲へ侵攻。戦力を南方へ引き抜かれていた関東軍に、これを阻止する力は残っていませんでした。

これを受け、13日には皇帝溥儀ら満洲国要人が首都新京から通化へ避難します。

 

しかし、奥地の住民には避難するための列車すら足りませんでした。彼らを護るべき関東軍は、避難民を置去りに撤退してしまったのです。

 

日本の無条件降伏を受け、8月17日の重臣会議において溥儀は退位を表明。日付が変わった18日、満洲国は消滅しました。

関東軍の武装解除を機に虐げられてきた民衆は暴徒化し、日本人への殺害・暴力・掠奪が横行します。進駐してきたソ連軍も、統治しようとする文官と掠奪に走る兵士の間で無政府状態に拍車をかけました。

シベリア抑留日本兵とは別に、満洲国の施設を引き継ぐ民間留用者にも生産ノルマ達成のための過酷な労働が強いられます。酷寒の冬を迎える頃、多くの日本人が過労や伝染病や飢餓で命を落としました。

ソ連軍が撤退した翌春以降は、国民党軍と共産党軍が満洲国の資産を巡って交戦。在留邦人には比較的寛大だった国共両軍も、少しでも疑わしい日本人には容赦なく銃口を向けました。その狭間で、通化事件などの大量虐殺も発生しています。

更には野坂参三らの虚偽証言により、内地では避難民の惨状すら隠蔽されてしまいます(知ったところで、敗戦国の日本には彼らを救う力も無かったのですが)。要請を受けたGHQが避難民送還事業に乗り出すまで、犠牲者の数は増え続けました。

 

そのような大混乱の中、犬たちの運命など二の次です。

 

満州軍用犬協会の登録犬ですが、まさか戦争後期に日本へ渡っていたとは……。両国間の犬の往来は、ずっと続いていたんですね。

昭和18年の広告より

 

関東軍の犬はどうなったのか。最前線では、ソ連軍に部隊もろとも撃破されたため記録は残っていません。

その最期が記されたのは、関東軍軍犬育成所のみです。

 

終戦命令により、西八里庄の第501部隊(関東軍軍犬育成所)は海城へ移動。そこでソ連軍に武装解除され、隊員はシベリア送りとなります。

育成所の犬達は犬舎から放たれますが、残っていた犬は中国八路軍によって接収されました。

 

501部隊員が海城へ去った後、西八里庄には民間人の軍属たちが残されました。官舎で病気療養中だった平井彦作氏は遺棄された育成所へ向かい、その最後を目にします。

皆さんが遼陽を出発後二、三日してから部隊へ向かったところ、途中で数十人の現地人が一列になって部隊の物品を町の方へ運んでいるのに出会いました。部隊の中はガランとして軍犬の姿は見えず、運べるような品物はほとんど持ち出されており、手をつけられないような大きい物や全く使いものにならないような物だけが雑然と放り出されており、正視できないような悲惨な有様でした。
後日、少年軍犬手から陸軍官舎の護衛の為に連れてきていた軍犬のうち、アルフ号とアンジェラ号の二頭を貰い受けて飼育していましたが、たまたま官舎にいた時に八路軍の将校が来て、軍犬を一頭欲しいというので止むなく一頭をあげました。軍犬アンジェラ号も一緒でしたが、又八路軍がきてつれていってしまいました。しかし一週間位したらアンジェラ号は我が家へ逃げもどり、人犬ともに無事を悦びあいました。これも束の間でその後また八路軍がやってきて、強引にアンジェラ号をつれて行かれ、その後は再び戻りませんでした。

白塔『終戦から引揚げまで』より 平井彦作氏の証言

 

当初の問題といえばソ連兵との食料確保交渉くらい。平井氏の周囲は比較的平静だったのですが、そのうち暴徒による略奪事件が頻発し始めます。中国軍進駐後は日本人の安全が確保され、翌年には邦人送還事業もスタート。平井氏らも、コロ島(現在の葫芦島市) から駆逐艦雪風に乗って帰国の途につきました。

それゆえ、混乱の中でも育成所の最後が克明に記されたのです。

 

しかしこれは幸運なケースで、満鉄警戒犬や税関監視犬がどうなったのかは全くの不明。満洲軍用犬協会に関しても、協会本部新京軍用犬養成所員の証言が残されている程度です。

養成所は、訓練も学科もなかなか厳しかったので、当時の見習いさんたちは、なかなか優秀でした。戦後、韓国で訓練所をやっておられる方も、2、3おりますが、今でも文通をいたしております。

あれから、もう40年余り経ちましたが、記憶も曖昧で、前後しておるところも多々ありますが、何となく当時を思い出して書いてみました。刈田さんや宮越さんがお辞めになった後、しばらくは平岡好正さんが血統書のお手伝いをして下さいました。その後、松本有義様、津田栄三様、芝池弥太郎様などが、お入りになり、私も家庭専一にと、本部をしりぞきました。

終戦の年の昭和20年8月、ソ連参戦後の13日、私は園部政光様の妹・千枝子さん、松本有義氏の令孫テイ子さんと御一緒に、疎開列車に乗りました。それきり新京の土を踏むことは再びありませんでした。養成所の可愛い犬たちとも、それが最後でした。

阿比留あい子氏 『文苑 幻の満州軍用犬協会』より

 

日本シェパード犬協會の満洲支部や関東州グルッペも似たり寄ったり。昭和18年で活動休止した後、登録犬がどうなったのかも不明です。

今満洲犬界を内地のそれに比較すると、内地は何んといつても數に於て數段勝つてゐるので、自然優良犬も多い譯である。又出陳者の側から見ても内地では満洲よりも一日の長を以て、あまり見劣りのする犬は所有者が自制して出陳しないのが通例である。だから會場ではそれ程悪い犬は見ない。満洲ではこれまで奉天の松村(有基氏)によつてDagoの血を廣めて非常に蕃殖界に貢献せられ、新京の野田、渡邊、赤澤諸氏も内地より名犬を輸入して満洲犬界を改良されて來た。然し今日までの蕃殖界はまだ黎明期の域を脱しないといふ事が出來やう。期待は寧ろ今後に掛けられるのではないかと思ふが、不幸にも最近の物資調整の影響を受けて飼料難があり、加之我が軍犬口糧も今の處満洲への移送も不可能な関係上、今後の蕃殖界にも一抹の淋しさが伴ふ事であらう。

日本シェパード犬協會 芝池彌太郎『満洲支部展審査報告』より 昭和17年9月19日

 

満洲のハンターと猟犬

 

狩猟界はどうかというと、こちらも難民生活で猟犬どころではなかった様です。

昭和十九年の盛夏に約一ヶ月内地に帰つたが、再び渡鮮して、その九月末には遂に満洲入を決行するといふ發展ぶりで、銃猟によつて國策に奉仕するといふ自己満足的な理由をつけて、長白山一帯の深山幽谷に猛獣を狩り捲つているうちに終戦に遭つた。
そうして、終戦直後の混乱の中を辛うじて脱出し、九月七日に長春市に遁入して、それから一ヶ年餘を難民生活に送り、幸にして昭和二十一年の十月の末に、萬死に一生を得て故國に引揚げたので、長い間内地の猟犬の動向に就ては全然関知しなかつたのである。
長春での蟄居生活中は日本からの連絡も情報も殆どなく、最悪な治安の中で焦燥と不安の日々を送迎していたが、夢寝にも猟のことだけは忘れなかつた。在満邦人の狩猟家は猟銃も弾火薬も總て没収され、その上敗戦難民となり下つて一切の希望を失つたのだから、その心事は悲痛そのものであつた。

水越隆平『鳥猟用猟犬の現勢と将来』より 昭和25年

 

公的機関の犬すら記録が残っていない混乱状態。民間のペットがどうなったかなど知る術もありません。

彼らの犠牲は、そのまま忘れ去られました。

こうして売喰いをしながらどうにか一年が過ぎ、日僑俘管理所の命令で引揚げることになったが、冬の間に北満から避難して来た人たちのうち、五歳以下の子供は発疹チフスなどで殆ど亡くなるという悲惨なことになり、焼ききれぬ死体を貨車で遠くまで運んだと、居留民会の仕事をしていた父から聞いた。また、育てられなくて赤ちゃんを売ったり捨てたりした人もいる。その子供たちは今新しい中国でどのように暮しているかと思う時がある。

引揚げの日、生れて間もない仔犬が軒下でクンクン啼いていた。よろけるほどのリュックの荷物を肩に、犬が可哀そうなのと不安とで涙が出た。

羽鳥若菜氏『市街の表情』より

 

かつて毎年3月20日に開催されていた靖国神社軍犬慰霊祭。現在は軍馬・軍鳩・軍犬の合同慰霊祭へ統合されています(2009年撮影)

 

【満洲犬界が残したもの】

 

軍国日本の野望の果てに、僅か13年間で消え去った満州国。かの地で磨き上げられた地雷探知犬や阿片探知犬のノウハウも完全に失われました。

昭和30年代の陸上自衛隊を見ますと(当時は警備犬を配備していました)、伝令犬のような時代遅れの運用法を引き継ぐいっぽうで、爆発物探知犬の課目はナシ。税関でも満洲犬界関係者の協力を仰ぐことなく、昭和54年に海外から麻薬探知犬を「逆輸入」するハメになりました。

何もかも忘れた挙句、「地雷探知犬や麻薬探知犬は戦後に登場した」などとウソ歴史を解説し始める連中も現れました。そのウソは検証されないまま、伝言ゲームで拡散されてしまいます。

 

しかし、満洲犬界の遺産は完全に喪われたワケではありません。

満洲からの引揚げ者には、多くのMKメンバーや満鉄警戒犬・税関監視犬の関係者がいました。彼らの中には、戦後犬界の復興に貢献した人々もいます。たとえば聴導犬の日本導入には、税関監視犬育成所出身者が関わっていますよね。

ドッグレース法案が国会に提出されたのも、戦時中のMK賽犬事業があったからこそ(めでたく否決されましたけど)。

 

忘れてはならない「満洲犬界の遺産」が、軍犬慰霊の継承です。

軍用犬忠魂碑

日露戰役に於ける遼陽會戰護國の英霊一万四千八百七十一柱を祀る遼陽忠霊塔は昭和十四年五月二十八日移転竣工除幕式を挙行されたが、同時に遼陽市民及び全満愛犬家の總意により帝國生命線確保に斃れた軍犬八百の霊を祀る遼陽軍犬忠魂碑が此の聖域内に建設せられた。

満洲国のペット慰霊は、個々の飼主に託すべきもの。

しかし、公的機関の犬には別の慰霊のかたちがあります。

 

「遼陽軍犬忠魂碑」に代表される満洲国の軍犬慰霊は、昭和20年で潰えてしまいま。

「日本人による日本の軍犬慰霊」は各地の護国神社などが引き受けていましたが、「満洲国の軍犬慰霊」は宙に浮いた状態。責任者たる満洲国や関東軍が消えた以上はどうしようもありません。

 

昭和23年、501部隊員たちがシベリア抑留から帰国します。そして戦後の生活が落ち着いた頃、メンバーの再結集をはかりました。

敗戦時、関東軍軍犬育成所を放棄したことへの贖罪意識もあったのでしょう。

やがて彼らは、軍犬慰霊碑の再建計画をスタート。昭和38年、逗子延命寺に「動物愛護慰霊之碑」」を建立しています。

戦時金属供出で撤去された、逗子忠犬之碑(軍犬ジュリー慰霊碑)の代わりとして。

 

軍犬報国運動のシンボルとして散々利用された挙句、物資不足になるとアッサリ金属供出された軍犬ジュリー像。「板倉少佐の遺犬の墓を作ってやりたい」という逗子小児童や延命寺の思い遣りは、戦時体制下で踏みにじられます。

無言の勇士を称えよ!と叫んでいた戦時日本の、これが軍犬に対する仕打ちでした。

 

しかし、ジュリーが関東軍で活動していたのは育成所設立の2年前。主人板倉大尉の戦死と共に神奈川県の逗子へ移住、昭和7年に病死しています。要するに関東軍軍犬育成所とは何の縁もありません。

せいぜい「僚犬那智・金剛の遺骨(とされるもの)を延命寺へ送りつけたのが、後の育成所長となる貴志重光大尉であった」程度の繋がりですか。

元501部隊員たちは、「戦時軍犬慰霊の悪しき事例」となった逗子から「戦後」をやり直そうとしたのでしょう。
モチロン、動物愛護慰霊之碑は軍犬の墓ではありません。この地で生涯を終えたペットたちの慰霊碑として生まれ変わりました。

 

献花

ジュリー慰霊像に献花する鎮子夫人ら板倉至少佐の遺族

逗子延命寺にて、昭和8年7月6日撮影

 

現在の逗子延命寺動物愛護慰霊碑之碑。在りし日のペットたちを偲び、お彼岸には多くの飼主さんが訪れます。

平成21年3月20日、動物愛護の日に撮影。

 

次に建立されたのが、靖国神社と新潟護国神社の軍犬慰霊碑でした。平成4年のことですから、動物愛護慰霊之碑設置から随分と時間が空いています。新潟護国神社が選ばれたのは、関東軍軍犬育成所員の連絡窓口が新潟県にあったからでしょう。現在でも静かに慰霊が続けられています。

 

しかし靖国神社の場合は違いました。神社の性格上、軍犬像は「慰霊」ではなく「靖国論争の標的」となってしまったのです。

 

あの手の議論をしている人々は、「靖国軍犬像の慰霊対象」を明確に定義できているのでしょうか?

碑のルーツが関東軍軍犬育成所であることや、その満洲犬界の輪郭すら朧気であることを自覚しているのでしょうか?

あの人達の言動を眺めるに、そのような自省心があるとは思えません。

 

だって、論者の誰もが「日本軍犬=日本列島から出征した陸軍の犬」という認識の視野狭窄ばかりでしょう?犬の歴史を語りながら、外地や満洲に犬界が存在したことすら知らないのです。

だったら、外地や満洲国から出征した陸軍犬や海軍犬は慰霊の対象外なの?広義の意味で、満鉄警戒犬や満洲国税関監視犬は?日満の国益のために働いた彼らも無視ですか?慰霊対象を差別するような者に、「犬がカワイソウ」だのと語ってほしくはありません。

慰霊碑は、彼らをひっくるめて悼むためのシンボル。そのためには、黙って手を合わせれば良いのです。

慰霊碑をダシにオノレの歴史観を開陳する場合は話が別です。だったら慰霊の対象を明確にしてください。

 

501部隊員の意図に反し、議論の狭間で統治下や満洲犬界の記憶はかき消されてしまいました。

記憶喪失のまま語られる靖国軍犬像論を排除するには、記憶喪失であることを自覚することが第一歩です。

 

しかし、仕切り直すには既に手遅れでしょう。今から満洲犬界史を学ぼうにも、「彷書月刊」や「犬の現代史」以降はマトモなテキストすら皆無ですし。

え?満州を舞台にした「さよなら、アルマ」がある?

出版時の宣伝で、戦争の犠牲となった犬達を殺人兵器呼ばわりしたアレですか。満洲犬界への無知を自覚していないと、ああいう無恥を生み出すんですよ。

 

 

 

第十六回軍犬慰霊祭の様子(2007年撮影)

 

【第一回の冒頭に戻る】

 

今回なんで満洲畜犬史へ寄り道したのかといいますと、「自分が満鉄職員の孫だから」という理由では勿論ありません。
満洲で呑気に駅員をしていた祖父も、緒戦で敵迫撃砲弾片を顔面に食らって一発退場となった職業軍人の外祖父も、私に語ってくれた戦争観はビミョーなものでした。

「僕は戦争とかどうでもいいんだ、ソ連のせいで職を奪われたことが腹立たしい」とか、「志願入隊したんだから、私が失明したのも自業自得」とか言われると、学校で教わる「加害者としての日本人」「被害者としての日本人」だけが「戦時」ではないことを小学生の時点で心得るようになったワケです。当時の時代背景と、個々人それぞれの事情はハナシが別なんだな、と。

「個々人の事情」を詮索するのもアレなので、祖父の語る満州に関しても遠巻きに眺めてきたんですよ。

それゆえ、かつての私は「満洲犬界=日本犬界史のオマケ」のように捉えていました。結果、「満州犬界について教えて欲しい」とのご依頼を受けた際、オノレの不勉強から満足に回答できなかったことがあります。
申し訳ないやら情けないやら、反省して真面目に取り組み始めたのが数年前のこと。で、満州犬界の記録が散逸・消滅し、テキストすら編纂されていない事に愕然となったワケです。
博物館へ行ったら、入口でスコップ渡されて「収蔵品が無いからお前が発掘してこい」とか言い渡されたようなものですか。

日本統治時代の朝鮮・台湾犬界は「日本犬界の一部」的な存在であり、幾らかの追跡手段も残されています。しかし満州という国家において、「畜犬行政の全容は?」「愛犬団体は?」「ペット商は?」「犬猫病院は?」「市井のペットの暮らしは?」という疑問を解く手掛かりなど残っていないのです。
ひとつの国が消えるというのは、こういうコトなんですね。

強固なネットワークで繋がれていた「隣国」の犬界を知らずして、日本犬界史を知ることはできません。どちらが優先とかではなく、並行して調べなければ。
満州の思い出を愛し続けた祖父と違い、私には彼の地への憧憬や郷愁など一切ナシ。王道楽土に消えた犬達の記録を知ることで、「合わせ鏡としての日本犬界」の姿を確かめたいだけなのです。

 

最近、遼陽に十七萬圓の豫算で忠霊塔が建設されました。その際、兵士と同様に戰場に、はたまた平時の警備に勤務して仆れた軍犬のためにも、忠魂碑を建てたいと計畫して、忠霊顕彰會に申出ましたところ、それは結構なことであるから此方で全部引受けやうと即座に承諾され、今、軍犬の忠魂碑は忠霊塔の境内に燦然と輝いてゐるのであります。

軍犬の忠魂碑が建設されました附加事業として、動物愛護精神を涵養するために、一つのパンフレツトを作り、満洲の小學校その他に無料配布し、その精神の養成にも勤めてゐます。

けれども、これ等の軍犬に對して内地の人達が、その活躍、労苦を認めてゐるのかどうか、未だ國境線を守る軍犬に對し慰問品が殆んど何一つないのは残念であります。

高浪金治中佐『満ソ國境の軍犬』より 昭和14年

 

今も昔も、本当に残念ですね。