世間には往々日本犬保存會が和犬の保存を最初提唱した如く思ふ向もある様だが、大なる誤りであつて、狩獵誌上では其れより既に二三年前よりそれが高唱されて居たのである。
況や保存會(※日本犬保存会のことです)なぞと云ふは、日本犬に就て何の智識も無い者が賣名的に組織したので、今や根處地である東京でさへも、顧みられぬ現状であるのである。
 
日本犬協會 高久兵四郎『日本犬論(昭和9年)』より
 
日本犬の歴史を調べるならば、日本犬保存会の資料にあたるのが定石。志を同じくする愛犬家が、一致団結して日本犬復活に取り組んできた足跡には感動すら覚えます。
しかし、日本犬の団体は日保だけではありません。
他団体の記録に目を向けると視界は一変。団体間での誹謗中傷、会員の争奪、足の引っ張り合い等々、お山の大将を巡る抗争が展開されているではありませんか。
まるで闘犬場です。
 
中でも日保と熾烈なドッグファイトを繰り広げていたのが、冒頭で日本犬保存会を罵倒している日本犬協会でした。
地域性を中心に天然記念物指定を推進した文部省、体格の大中小で繁殖・再興を目指した日保、地域性や過去を捨て去り日本犬そのものの改革を図った日協。
相容れない三者の不毛な争いは、日本犬復活の道程が如何に困難だったのかを教えてくれます。
 
「日本犬保存会史を調べればカンペキ」とか思っている人は、もうちょっと視野を広げてみましょう。そこから辿れる傍流の日本犬史も存在するのです。
てなワケで、今回は黒歴史編。


犬
日本犬保存会と日本犬協会は、不健全なライバル関係にありました(画像は両団体の会報)
 

日本犬の歴史において、誰も語ろうとしないのが日本犬保存会と日本犬協会の抗争です。
消えゆく日本犬を復活させるという目的は同じだったものの、両者の路線は全く違いました。
外貌のスタンダードにのっとり蕃殖・淘汰に尽力した保守派の日本犬保存会。
短所や地域色を捨てて新たな日本犬への進化を目指した革新派の日本犬協会。
 
相容れない両者の対立は、ウンザリするほど醜悪なものでした。忘れ去りたかった心情は理解できるんですよ。
しかし、ここを取り上げないと「近代日本犬史=日本犬保存会の歴史」と勘違いされる恐れがあります。愛犬家の団結なんてモノは幻想に過ぎず、実際はカオス状態だったのに。
日本犬保護に携わったのは文部省、日保、日協だけではありません。アイヌ犬保存会、秋田犬保存会、秋田犬保存協会、越の犬保存会、甲斐犬愛護会、紀州日本犬愛護会など、全国各地でさまざまな日本犬団体が活動していました。
それらによる独自活動の集積が、日本犬の保護に貢献したのです。日保だけで全国津々浦々をカバーできるワケがないでしょう。
 
甲斐犬愛護会(甲斐犬専門)と純日本犬山梨保存会(日本犬全般)のように、同じエリアで複数の日本犬団体が共存していたケースもあります。そのためには、山梨県庁の指導下による根回しが必要でした。
 
たとえば日本シェパード史を「帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会の対立」の構図で解説するのは、双方の視点を介して戦前シェパード界を多面的に検証できるからです。
視野狭窄を避けるという意味では、日本犬保存運動についても同じこと。日保の視点だけでは、「日保の犬以外は日本犬に非ず」という独善的な思考に陥る危険があります。
「日本犬の歴史」と「日本犬保存会の歴史」は区別しましょう。
 
【日本犬保存活動の分裂】


過熱する日本犬ブームの中で、日本犬愛好家は着実に増えていきました。消滅の危機から一挙に形勢逆転できるチャンスが訪れたのです。

 

本縣に於ても昨年春頃から俄かに日本犬熱が高まり、静岡、濵松、清水、沼津等に何れも三十頭乃至四十頭位は飼育されて居る。大部分が柴犬で、秋田犬、紀州犬等は極少ない。番犬兼愛玩用飼育が多く、從て訓練を與へぬので訓練の優秀なるものと言ふのは恐らく無いと思ふ。

 

杉本榮一『再び日本犬の爲めに(昭和9年)』より
 
おお、柴犬ブームはこんな時代に始まっていたんですね。
しかし、日本犬保存運動に大きく貢献したのはシバではなく秋田犬。そう、あの忠犬ハチ公でした。
無名時代からハチを登録していたのは日本犬保存会であり、ハチの哀話を東京朝日新聞に投書したのも日本犬保存会の斎藤弘吉理事。これに新聞記者の独自取材が拍車をかけ、「渋谷駅に通う無名の老犬」は一夜にして「忠犬ハチ公」へ変身したのでした。
 
犬界におけるハチ公を巡る論争はイロイロあります。事実関係や時系列を無視した「批判のための批判」も少なくないのですが、秋田犬に関する考察としては無意味ではありません。
それよりも有害無益な存在が、ハチ公をネタに思想ごっこをやらかす人々。小學修身書に掲載された『オンヲ忘レルナ』を取り上げ、「当時の教科書に載った=ハチは軍国主義に利用された」とか主張する手合いがソレですね。
 

帝國ノ犬達-恩を忘れるな
 
ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。
生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。
ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。
イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 来ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、
カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
カウシテ、月日 ガ タチマシタ。
一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル

年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ(以上全文)


尋常小學修身書掲載『オン ヲ 忘レル ナ(昭和10年)』より

 

『オンヲ忘レルナ』自体は、どこをどう読んでも単なる哀犬物語。

「修身(現在の道徳)の教材なので情操教育用じゃないの?」と思うのが普通の感想で、少なくとも「軍国教育」という表現には慎重になる筈です。

……まあ、封建的な「報恩」を児童に植え付ける教材なのは間違いないんですけどね。それも、当時の修身指導要領を読めば分かることです。
 
つまり彼らは、対象の教材すら読んでいない癖に、誰かの受け売りで「軍国教育だ!」と叫んでいるだけ。あげく「忠犬ハチ公は軍国日本のシンボルだった」などと妄想を肥大化させるので始末に負えません。
日本軍の主力軍用犬種は、秋田犬ではなくジャーマン・シェパード。そんな基礎知識すらないことで、『オンヲ忘レルナ』と比較すべき小学五年生用の教材『犬のてがら』も読んでいないことがバレバレです。
 
渋谷駅の秋田犬と満州事変のシェパードも区別できないようなセンセイに、反論すらしてこなかった日本犬関係者も同罪ですよ。
日本犬界が有する膨大な史料は、日本犬の実像を外の世界へ広め、日本犬を貶めようとするデマや中傷を駆逐するために使うべきもの。内輪のマウンティング用ではありません。

エセ評論家の思考放棄と愛犬家の怠慢が二乗された、それがハチ公軍国教育論の正体なのです。


こちらは教師用の『オンヲ忘レルナ』指導要領。ハチ公軍国教育説を唱える者のうち、何人がこれに目を通したのでしょうか(私が知る限りではアーロン・スキャブランド氏くらいです)。

 

前提として。

軍国主義を利用し、陸軍省の軍犬報国運動を利用して勢力拡大をはかったのはシェパード団体。
国粋主義を利用し、文部省の天然記念物指定を利用して日本犬保存運動を進めたのは日本犬団体です。
日本犬を救う最後のチャンスとして、日本犬保存活動は国粋主義の時流に便乗しました。大成功をおさめた一方で、その手法は「日本犬は洋犬より優れた品種」「武士道精神を持つ犬」などという偏狭で幼稚な日本犬原理主義者を生み出してしまいます。
さまざまな日本犬観をもとに、さまざまな日本犬団体が設立されていきました。全国規模の勢力を誇る日本犬保存会に対し、協調路線をとる団体もあれば、対立する団体もあったのです。
 
【日本犬保存会と日本犬協会】
 
忠犬ハチ公に対しては、周囲からの攻撃が浴びせられます。多くは過熱したブームに対する誹謗中傷だったものの、組織をあげてハチ公叩きをやらかしたのが冒頭の日本犬協会。
日保への敵愾心から、日協はモノ言えぬハチ公と社会的弱者であった上野八重子氏を標的にしたのです。
表向きは日本犬の革新という崇高な理念を唱えていた、彼らの本性を御覧ください。
 
小川さんの今月の論文は僕も大いに賛成するです。八公(原文ママ)についても全く正しい見方です。八公が野良犬に近いものである事は明らかで、澁谷驛はオマンマにアリツケルからに過ぎないですよ。
〇〇未亡人(※上野八重子氏のこと)は恐らく八公にオマンマを與へなかつたに違いないですよ。犬が好きでない婦人が、大型犬に滿足出來る程オマンマを與へる筈がないですからね。
〇〇未亡人のケチンボーが(ケチンボーは一寸皮肉ですが、果してケチンボーであつたか犬嫌ひであつたか、將又轉居であつたか、何れにしても犬に對して愛情が淡き爲め犬を捨てたか、或は犬の方で主人を捨てたかどちらかでせう)八公をして日本一の忠犬にした分ですね。
(註釈:忠犬にしたのは〇〇未亡人ではなく、日本犬保存會が宣傳の材料とした分です。何しろ宣傳博士がゐるからね。それは今度富山の各新聞に學務部長を會長に社會課長を副會長として越の犬保存會を組織し、その保存登録をやると書いてあつた事によつても分かる事で、中々宣傳がうまいです。
 
有漏烏木『雑記帳 古市さんよりの近信(昭和11年)』より
 
……発酵した生ゴミみたいな品性ですね。
こういう愚劣な手合いが組織内に混入するのは仕方ないとして、周囲がそれを諫めもしないのは何なんでしょう?しかも、一部の過激派どころか似たような記録が次から次へと出てくるのです。
「日本犬協会は下種の集団だった」と断じるのはカンタンなのですが、高久氏ら指導層との落差が大きすぎて困惑しきり。
双方の主張もそこまでイガミ合う内容とは思えませんし、筒井康隆の東海道戦争みたいに「理由すらよく分からない東京と大阪のケンカ」だったのでしょう。
これに日本犬保存会も反論したことで、ついに両者が歩み寄ることはありませんでした。
 
澁谷のハチ公は持ち主が虐待したのに、澁谷驛付近で可愛がつて食事をやる人があつたために行つたのだ。斎藤はうそを云つて、忠犬にした等と昔から知つてる見て來た様なことを云ふ人間も居る。
ハチ公の有名にならぬ前に誰か食事を與へた人が驛付近に居つたと云ふのか。驛員達に如何にむごく取扱はれたか、恐らく知るまい。
未亡人が犬嫌いであつため澁谷に行つて野良犬になつたのだ等と云ふ者さへ出て來る。莫迦々々しくてお話にならぬ。
澁谷に行く様になつたのは、未亡人の處からではない。小林菊三郎君の手に移つてからであつて、小林君は代々幡署に鑑札も受け、犬牽まで頼んで主家の犬を大切にして來たのだが、小林君の家が昔の主家の近くであつたため、舊主がなつかしく、舊主家に行つも人が異るため自然澁谷の驛に行つたものであつて、勿論後には習慣性となつたものであらう。
然しあののつそりした犬が未亡人を見た時の飛び上つての嬉しさは、やはりいつまでも舊主人を忘れなかつたものと思ふ。決して野良犬でもなんでもない。立派な飼主のある犬である。 私はハチ公のことではあまりに世の人の輕薄な心を見せられて、なるたけふれまいとつとめ來てた。事實、有名ならぬ前に驛付近では誰もあの犬を可愛がつた人などなかつた。唯一人の文房具やの日本犬好きの小僧さんを除いては。
新しい首輪や胴輪をさせると必ず盗まれたことでも判らう。畜犬票等は、折角つけてやつても直に盗まれる始末であつた。あの犬を附近の人が可愛いがつて居たら、黙つて、胴輪までとらせては置かぬ筈ではないか。我々はもつと眞面目に、研究者はそれに没入、此の犬族の研究をして一つの獨立した學問にまでなす可きであり、蕃殖者はこれに没入、益々優秀なものの作出に努力す可し。今のままでは、此の犬の世界が現代の笑ひ物となつてるばかりでなく、次に來る者に失笑されるだけのものであらう(斎藤弘・昭和12年)

 

愚劣といえば、板垣四郎帝大農学部教授(日保メンバー)が主催するフィラリア研究会も攻撃対象となりました。
「齋藤と京野は板垣のお先棒となつてフヰラリア研究費と云ふ名目で、多額の金を集めて、板垣はその金で弟子を連れて大名旅行して居る」などという怪文書が『犬界』に掲載されたこともあります。
フィラリアの脅威から犬を護るための闘いを自称愛犬家が妨害する。日本犬保存会憎しのあまり、自分たちが何をやらかしているかも理解できなかったのでしょう。
さすがに看過できず、日本犬保存会も事実無根であると反論しています。
 
第一にフヰラリア研究會は平岩米吉氏主唱し、大部分の金は同氏及同親族間で出し、他は一般愛犬家より寄附されてるものであつて、私は最初から平岩氏の相談に關つたため發起人となり、寄附金募集にも關係あるが、京野氏は單なる研究費の寄附者であつて主催者側でない。
研究費は全く研究費に用ひられ、今日まで研究のための旅行費にさへ用ひられてない。
各地のフヰラリア蟲の統計等も板垣博士が大學や獸醫師會の講演等で出張される時に、各地に調査されたものである。又會の委員會(年一回の研究報告決算等)の茶菓費、會場費すら、皆自辯にして居る。
寄附者への毎年の會計報告を見れば明白であり、もつと詳しく知りたかつたら平岩氏の會計簿を見せて貰へば判然とする(齋藤弘・昭和12年)

 

日保と日協の争いは、個人を名指しした誹謗中傷へと悪化の一途を辿りました。特にヘイトを集めたのが日保の斉藤弘。

なぜにそこまで彼が憎まれたのかは不明ですが、日協およびそのシンパによる執拗な個人攻撃が続けられます。

 

私が以前「本邦犬の傳説、其の一、犬の伊勢参り」として、日本犬誌三巻一號に徳川末から明治初期にかけて、伊勢講の人が、参宮の番にあたつて、都合惡く行けぬ時に、自分の家の犬を代理にして、講中の人々に頼んで、連れて行つて貰つた例とか、伊勢詣の木札を首輪につけた犬は、村々宿々で、大切にして宿送りに連れ送つて参拝させ、再び、宿送りに繼ぎ送つて飼主に返させた例等を我國民の敬神の風俗と、犬を大事に取扱つた例として紹介した所、「齋藤は、犬に敬神の心があると云つて發表してる。あんなことを研究してる者に犬が判る筈がない」と長い間に亘つて、とんだ見當違ひの攻撃をされたことがあつた。

丁度これと同一軌である。

今私は史前の犬、狼等の化石、亜化石の骨の研究をやつて居る。日本狼の研究も史前家犬骨に關連しての研究と同時に、世界のなぞである日本狼の本態を明かにしたいためにやつてるのである。

之は念願の「日本犬研究」著述、第一編史前編のためであるが、今に「齋藤は骨の化石等ばかりの研究で、生きた犬は判らない」等と攻撃されるであらうし、既に「日本犬の研究に、日本狼は何んの關りあるか」「外國の畜犬書には骨格の研究は極く僅少だから、あんな研究は必要でない」等と云ふ情けない見識が犬界誌等に發表される有様である。

然し乍、此の様な面倒な化石を研究しないと、一見したこともない人が、それこそ「クズ族と云ふコロボツクルが飼つて居つた、チベツタンマスチフ犬の骨」等と云ふ奇想天外の説が、大家と云ふ人によつて發表されることゝなるのである(※日本犬協会の高久氏を揶揄したものです)。

私の仕事が第二編の有史時代編に入つたら「齋藤は古文書ばかりで」と云ふだらう。既に今日まで大分その様に云はれて來た。

第三編の現代編に入ると「あんな若い者は、昔の犬を知らない。今から四十年前は皆日本犬だけだつた」等と、實際の明治初期の記錄を平氣で無視しての攻撃が始るだらう。

こんなことは、何時の世も絶ぬものと見へる(〃)

 

前述のとおり、日本シェパード史を「帝国軍用犬協会と日本シェパ―ド犬協会の対立」で解説するのはナカナカ有効だったりします。互いの運営方針を比較することで、パラレルに展開していた犬界事情まで明らかになるからです。

帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会には、組織内でも異論を戦わせる寛容さがありました(KVだけでも、シェパード、ドーベルマン、エアデールの各部門に分かれていましたし)。
しかし、日本犬そっちのけで展開される日保と日協のバトルから得られた知見はあるのでしょうか?そこにあるのは醜悪なゴミの山だけです。
 
郷土色や体型などの縛りで日本犬が袋小路へ入り込むのを防ごうと、日本犬の改革開放を目指した日本犬協会。
しかし絶対的な正義観ゆえ異論を認めず、内輪ウケの馴れ合い集団と化した彼らは、自らが袋小路へと迷い込み、戦時下において人知れず消えていきました。
それゆえ日協は、日本犬史において傍流に過ぎないのです。




【分裂の発端】

そもそも両者が対立した原因は、日本犬保存活動の隆盛がきっかけでした。活動が軌道に乗り始めると、例によって例の如く、「日本犬とは何か」についての論争が紛糾します。

 
繁殖による日本犬復興を優先する日保は、昭和9年に大(秋田犬)、中(北海道、甲斐、紀州、四国犬)、小(柴犬)の3タイプに分ける日本犬標準を制定。
この決定に猛反発したのが、一部の日本犬愛好家でした。彼らは「各地で多様化した日本犬の資質を、体のサイズで区分など出来ない。撤回しろ」などと抗議した挙句、それが聞き入れられないと知るや一斉に日保から離反。
そして昭和10年3月、関西地方で「日本犬協会(日協)」を設立します。
日本犬協会の概要は下記のとおり。
 

・事務所 大阪市西成區柳通一
・設立 昭和十年三月十日
・名誉顧問 貴族院議員子爵 毛利元恒
・顧問 駒井徳三、廣瀬豊一、華蔵界能智
・理事長 高久兵四郎
・理事 三宅旭勝、山口半兵衛、真柄祐三、山根義男、福島音吉、藤井長、幸保春浦、村上豊彦、瀬崎宏和、中島真、深田欽也、山崎博史、進藤富士夫、若松五郎兵衛、堀田昆、小川権七
・支部 
和歌山市湊北町一
愛知縣岡崎市傳馬町
神戸市湊區楠町五
・主なる事業
一、雑誌「國犬」毎月発行
二、展覧會、訓練大會開催
三、犬籍登録、血統書発行
四、訓練所設置、等
 
日協の関連団体として、大阪と島根には「日本柴犬倶楽部」も設立されています。島根産柴犬(石州犬)を扱っていますが、日保と親交のあった石州犬団体「エン・ペー・カー犬舎」との関係はどうだったのでしょうか。
 
昭和12年の広告より
 
日協を率いたのが、日保設立時に齊藤弘の盟友だった高久兵四郎。
郷土色や天然記念物という虚飾を捨て、柴犬は室内犬として三貫以下の小型化、中型犬や獣獵犬は肩高二尺以上へ大型化を促進し、西洋や満州に比肩し得る犬へ進化させるべきである!
そう唱える精神的指導者の高久氏は、昭和14年に清掃業を営んでいた足利市から関西へと転居。精力的な活動を展開しました。
 
明治の中葉から西洋犬が追々輸入せられるに及び、西洋犬に對して日本犬と呼ばれるに至つた。西洋犬崇拝から地犬なる名稱は、甚だ侮蔑的の意義を包んでゐたので、當時の愛犬家は何等の研究もせず、日本犬を地犬なる名稱のもとに、却つて撲滅を計り、日清戰爭後においては殊に甚だしく、僅に數年にして、非獵犬系の家庭犬は全國的に根絶の災に遭うたのである。しかして殘つたものは極めて僅で、その他は芝犬と獣獵犬が紀州とか信州とか北陸とか四國のごとき、邊鄙の所に殘つたのである。これとで往年のものに比較しては僅に極限された所で、蕃殖されたゝめ、近親交配を餘儀なくせられて甚だしく退化を來してゐるのである。
こゝにおいて協會は血液更新のため近親交配をさけ體格も西洋犬に比して遜色なきものとし、獣獵犬としては既に定評あれど日本犬に永遠の生命を與へるには使役犬としての能力實力を備へさせる必要を認め、訓練所を設立して使用犬の養成と改良を圖つてゐるのである。
しかるに一部には非科學的の考へをもつて、また今日の日本犬を古來そのまゝと誤認して地方人士のお國自慢といふ弱點をつけこみ、天然記念物に指定するのが日本犬を保存する最善の手段方法となし、地方人の觀心をもとめて自己團體の會員たらしめんとするものがある。
恐らく五十歳以上の愛犬家なれば必ず誰でも今の日本犬は往年のものに比して著しく退化せるのは認めてゐるが、不幸にして往年の日本犬の本體を全く知らん者が團體を組織して自己がわづかに見聞せるところをもつて日本犬に斷案をくだし、今日の日本犬を昔そのまゝのものとし、各地方は各々その郷土色を失はぬやう、他地方の血液を交入しないやうにせよと叫び、地方的自尊心に訴へて生きた骨董品として取扱ひ、保護保存をもつて能事盡せりとなすものがある。
生物界は現状維持とは退化を意味するのでかくの如き方法手段は日本犬をして到底西洋犬と對抗して世界的のものとなすことは絶對不可能であるのは敢て贅言を要せざるのみならす早晩いよ〃退化せしめ遂に繁殖力さへ失はしめて根絶せしむるのは論議の餘地はないのである。
今ではシエパード界においてさへ近親蕃殖の弊害甚だしきを叫ばれて極力血液を更新して能力實力の復活が強調せられてゐるのである。
しかるに日本犬は過去四十年間幾回とも知れん近親交配を累加し、退化の極に達せるにかゝはらず、更に天然記念物といふ美名のもとに近親蕃殖を遂行させて弊害なしと論ずるものゝある事程左様にわが日本犬界人には低劣幼稚な思想の持主があるのである。
故に協會は日本犬の改良發達とゝもにこの頑迷固陋の輩を掃蕩しなければならない仕事があるのである。かくの如く協會の使命は重大なのであるから、遍く全國の同志と協力一致し、目的の貫徹を計らねばならんので、各地に支部を設け趣旨の徹底を企てゐるのであるから、愛讀の愛犬家中者各位は、進んで賛同せられんことを願ふてやまない次第である。
 
日本犬協會理事 高久兵四郎『日本犬物語(昭和12年)』より

これ以降、東の日保と西の日協は鎬を削り……となれば面白かった(失礼)のですが、実際は惨めなものでした。

帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会が全国規模で激突したのに対し、日保と日協のバトルは関西中心。東日本へ進出するための橋頭堡も確保できず、東京へ向けて小石を投げる嫌がらせに終始したのは不幸中の幸いでした。


「そんなにショボい相手なら、日保も無視すればいいじゃないか」と思われるでしょう。しかし、日協は侮りがたいライバルでした。

その活動内容は日保をたびたび凌駕していたのです。

日保が模索していた日本犬の使役法は、せいぜい狩猟かお遊戯的見世物程度。それとは段違いのレベルを見せつけたのが、日協による盲導日本犬作出計画でした。
 

勝利
 

大阪市住吉區大味正徳氏は、以前映畫界の人として華やかな月日を送つた方である。昭和十三年迄は東京市板橋區練馬の豊島園にあつた、高田稔氏経営の富士撮影所の支配人として五年間も勤務してゐた。人間の不幸などと云ふものはどうして起るか判らんもので、二、三年來眼病に冒され薬餌療法して見たが、ハカバカしくないので手術を施したら一時大分快方に向つたが、更に結膜炎を併發し、其時醫者が眼瞼を裏返した時、手術の痕が充分に癒てゐなかつた爲め反つて惡化し、五月十三日に目黒の寓居で突然失明して仕舞つたのである。
同年九月大阪の知人を頼つて、住吉區の帝塚山に來て暫く静養する事になつた。其時フト思ひ出したのは嘗て來朝した三重苦のヘレン・ケラー女史の事であつた。

爰に心機一轉して勇猛心を振起し、且つゴルドンの誘導犬(※同年、アメリカから来日したゴードン氏と盲導犬オルティ号のこと)故智に倣ひ、成功するか知れ ないが一つシエパードでなく日本犬を仕込まんものと思ひ、堺市の或る愛犬家が牝の紀州犬一年位のを賣つてよいと云ふ事を、附近に住む藤原繁吉氏から聞き、 早速同氏の仲介で入手した。此の犬は現在同氏の杖と頼む誘導犬「勝利號」である。
少々脱線するが、勝利と云ふ名は、皇軍が徐州で大勝した時生れたので斯く命名したとの事である。現在二年半の赤毛犬で大きい方である。

勿論大味氏は犬に經験があるわけでもないので、如何に訓練すべきかと云ふ方法も別に會得してゐるのでなく、初めは散歩の時連れ出す程度であつたが、勝利號は自分の主人は普通人とは異つてゐると云ふ事を間も無く理解した。
初めの内こそ勝手に大味氏をひき廻したので溝に落ちたりした事もあつたけれど、忽ちにしてよき誘導犬となり、往來では人の居らぬ所を撰び、四ツ辻では先づ周圍を見て自動車が來れば止り、注意して大廻りに廻り、ゴー・ストツプの交叉點では必ず立止つて交通整理係が手を掲げないうちは敢て進まないと云ふ要人は、人間に勝るとも決して劣らん悧巧さである。そこで大味氏は丁度眼が開いた様な心境となつて、今迄の暗い心境は勝利號によつて全く解消されて仕舞つたのである。
大味氏は五十五歳の俄盲人なるに拘らず、人手を借りず杖に頼らず、如何なる人ごみの所でも勝利號を杖として往來し樂しき月日を送つてゐる。今は住吉區昭和町西三丁目十三番地のヘレン・ケラー女史來朝記念の愛盲事業に從事し、神の如き仕事に精進しつつあるのである。


高久兵四郎『日本犬の誘導犬(昭和15年)』より

 

勝利に続く盲導日本犬作出を目指し、日協は昭和16年から盲導日本犬育成計画を開始しました。日本犬協会がこの分野に注力できていれば、日本盲導犬史は違ったものになったでしょう。

しかし残念ながら、その後の取り組みはウヤムヤのまま立ち消えとなりました。
盲導日本犬に関する確実な記録は、大阪の勝利號と北海道の示路號の二例のみ。いずれも大味氏や三上氏が独力で作出したものです。
彼らには、陸軍省の失明軍人誘導犬事業のような国家的支援などありません。個人の努力で盲導日本犬継続発展させることは不可能でした。
日保や日協が両氏を全面的にバックアップしていたら……、返す返すも悔やまれます。
千歳やエルザという後継を遺した陸軍盲導犬と違い、戦時の盲導日本犬はひっそりと姿を消しました。日本犬関係者ですら、今では誰も覚えていません。


盲導犬
北海道犬の示路號は、北海道上砂川三井鉱業所附属病院マッサージ師である三上富雄氏の通勤を誘導していました(昭和14年撮影)

 
【抗争の拡大】
 

やり方次第では、日本犬の新たな可能性を開拓できた筈の日協。しかし彼らは、何を血迷ったのか犬界の内ゲバに走ってしまいます。

「日本犬の普及による過去の再興」を目指す日保の斎藤弘とは違い、日協の高久兵四郎はストイックに日本犬改革を追究した人物でした。
「日本犬の愛好家は、須らく洋種と比較研究をし、互の長短を知りて改良淘汰を行ひ、本當の立派な犬を作り上げて世界の檜舞台に出し、特異の偉彩を放たせる覺悟を持つてやなればならないのである(『日本犬に就て』より、昭和9年)」という先見の明には感心するばかり。
 

しかし高久さんの欠点だったのが、「自分の日本犬観は絶対に正しい」「ゆえに異論は認めない」という自信からくる他者への辛辣な態度でした。
先鋭化した改革者について、その周囲は威光にすがるイエスマンか、徹底拒絶派へ分離してしまいます。

「日本犬が好き」とか「とにかく殖やせばいいんだろ」という趣味的愛好家に対し、高久さんは「日本犬保存団体に身を置く以上、保守的な現状維持や懐古趣味や郷土愛など捨て去って日本犬の革新に捧げろ!」とスパルタ論を展開します。

 

團體も何も作らず、得體の知れない雑種犬を飼つて居る人にもよく聞かされる説である。雑種であらうが駄犬であらうが大きなお世話だ。自分は仔犬の時から育てゝ可愛いから飼つて居るのだと云ふと同じである。個人が單獨で犬を飼ふのなら何んとでも好きな理屈を並べるがよい。

然し團體を組織する以上は、目的と使命と云ふものがある。何んでもよいから犬を飼つて置きさへすればよいと云ふ方針で設立された團體は恐らく無い。普通團體の聲明する所は紋切型で、其犬種を愛護し、且つ向上發展させて、吾人の好伴侶とするとか、有益なる家族の一員とするとかに決つて居るのである。
今述べた迷論者も團體の一員であるから、左様な理屈は出ない筈である。
日本犬愛好家の陥り易き保守主義からソンナ事を述べたのであらうが、コンナ説に案外共鳴するものがあるのだから驚く次第である。
 

高久兵四郎『日本犬觀察(昭和12年)』より

 

こんな鬼コーチに何人ついてこれたのか……。
「一犬種の爲めに團體を作る以上は、其犬種に對して最善の努力を拂ふのが吾人の使命である」という厳格さが、間口の広い日保とは相容れなかったのでしょう。
 

それはそれで一つの道ではありました。しかし日協メンバーはアサッテの方向へ暴走。高久氏のような理論を持たぬゆえ、「対立団体を貶めれば、相対的に自分たちの地位が上がるはず」という幼稚極まりない戦法をとります。
スパルタ方式だからといって、高潔なチームが育つワケではないのですね。
 


日保に対する日協の敵愾心がどれ程のものだったのか。『古市さんの近信』みたいな生ゴミを羅列しても辟易するだけなので、一例だけ挙げておきましょう。
他のアレコレも同レベルです。酷いものです。

 

各地に協會支部の展覧會や競争會が續行される事は、誠に會心の喜びに堪へない。又富山にも擧行される由で、協會が創立以來滿二ケ年になるからならんのに、斯くまで全國的の共鳴を得た事は、何か理由が無ければならない。第一會員の協力一致で革新的であつたのと、幹部が物質的に精神的に多大の犠牲を拂はれたのも隠れない事實である。
富山には先達まで某會(※日保のこと)の支部が有つたけれど、愈々此のインチキ團体は、協會支部の爲めに完全にノツク・アウトされてしまひ、片影を留めず、誠に痛快の至りである。兵庫縣でも一昨年頃までは、インチキ團体の會員も有つたけれど、此れも協會の爲めに駆逐されて、今では人から相手にされないで鼻ツマミされてゐる連中が僅かに十數名殘つてゐるに過ぎない。愛知方面では、インチキ全滅の状態である。
總じて關西では、インチキ團体も餘命幾何も無しと云ふ有様で、天眼通も最近持病の溜飲が快癒したと云ふ次第である。ソコデ青筋を立て、インチキの幹部聯盛んにラジオで宣傳半分の講演をやつたり、地方官憲に泣きを入れて會員募集に狂奔して居れど、一枚着物の天然記念物指定も今では人氣更に無く、指定犬が追々異系で改良しなければ全滅することになつたなぞは自分で墓穴を掘つた様なものである。我々は此のインチキ團体を七百名の會員諸氏と共に一日も早く一掃して、全日本を協會の指導の下に置き度いと思ふのである。

 

日本犬協會員 天眼通『走馬燈(昭和12年)』より

 

……日協会員は700人もいたのか。

こんな白手袋の投擲などスルーすればよいのに、日保側もいちいち脊髄反射で決闘に応じてしまう訳です。

 

日本犬保存會の他に關西にこれに類似せる團體と言へばまあ言へる、日本犬×會といふのがある。機關誌「×犬」を發行して毎月殆んど全頁を通じ前者への注告に貴重なスペースを空費してゐる。
折角の厚意でもあらうが、その悉くがあまりに事實を無視し歪曲した百%のデマコーグではあるまいか。
又終始一方的抗争に過ぎないとは言へ、この醜状犬界凡そ他に比を見ない。
大阪城の蒼蠅茶坊主や宿場の馬方丑五郎は敢て論ずに足らずとするも、紳士一人ありてこれが制止なきを憐れむ。これでは全くかの歴山大王(アレキサンドル)との對話で男を上げた奇哲ヂヨゲネスではないが、白晝燈火を翳して暗い〃と叫んで歩き度くなる。―賢明な檢閲官たる編輯子よ。心あらば再び触れたくないこの項を抹殺すること勿れ。


日本犬保存會員 斑太郎『日本犬饒録舌(昭和12年)』より

 

イヤもう、双方何やってんだか。

その労力は日本犬のために費すべきでした。戦時体制下において、残された時間はあまりにも少なかったのです。
見兼ねて苦言を呈してくれる人もいましたが、頭に血が上った両者に聞く耳などナシ。犬界での交流を重視する日保は世間体も取り繕えましたが、閉鎖的な日協は孤立を深めていきます。
 
犬界は俗に喧界と云はれ、大分各團體間又は個人間に軋轢の多い所ときまつて居れど、特に日本犬の方は團體と團體又は團體と個人間に極度に意思の疎通を缺いて居るのは如何なる爲めです、との問に對して、其れは二三の誇大妄想の連中が何の經験もないのに自分天狗で會を組織し、他を排撃する事に據て起るのです。丁度排日團體の如く自己の力量を過信し、獨斷専行に日本犬界を切つて廻さうとするから起るのです、と答へられた記事が載つて居りますが、我が日本犬界はそれほどごてついて居るものとは認めない。
現に私の地方では日協と日保と兩方の團體へ入會して居るものも相當あります。展覧會の時など兩方へ出陳するものはざらにあります。同じ犬種を研究し、同じ犬種を飼育し、同じ犬種の發達普及を圖るものが意思の疎通を缺いては迷惑するのは其の犬種です。此所へ考へ至らないやうな人は我が日本犬界にあらうとは思ひません。
 
和歌山縣 紀見子氏『犬界の動向(昭和12年)』より
 
ここまで諫言されても矛を収めなければ、愛想も尽かされますわ。
ドイツを範とする日本シェパード界において、世界共通ルール下で戦うKVとJSVの抗争は双方の進化を促しました。しかし、それぞれが俺様ルールを掲げた日保と日協の対立はアウフヘーベンどころか何の成果も残していません。
和解もできず、戦況悪化によってケンカが中断しただけ。残念ながら、この醜態も日本犬保存運動史の一頁でした。
 
日本犬界が四分五裂していた頃、世の中は戦時体制へ突入。せっかく復活した日本犬は再び消滅の危機に晒されました。この恥ずべき歴史は、反面教師として記しておきましょう。
日本犬を護るためには、人間同士で闘犬のマネゴトをしている暇などないのです。
 
一連の騒ぎを総括するに、日協が日保へ対抗するには地道な研究と繁殖活動の実績を積み上げればよかっただけ。全国制覇は無理でも、西日本エリアの愛犬家は高く評価してくれたことでしょう。
日本犬界にすばらしい足跡を残せたか、もしかしたら戦後まで組織を存続できたかもしれません。
しかし実際は、コソコソと日保の展覧会へ潜入して「審査方法がダメだ」「あの犬はダメだ」「これもダメだ」「あんな事ではイカン」等とスパイ活動に励む始末。
関西エリアの内輪ウケに興じる日協と、日本全国および世界各国の畜犬団体・研究機関・ペット雑誌と連携していく日保との差は広がるばかりでした。
拡大する日保と地方犬界の軋轢は、避けて通れなかったのでしょうか。この騒動は北海道・東北犬界にも飛び火し、抗争は拡大していきます。


(続く)