昨日は長編ブログを見ていただきありがとうございました
さすがに長編になると大変でしたけど沢山のブログ読者に見ていただいた事に感謝しています
さて今日も長編ブログになります
タイトルにも書いてある大島優子特集を第2弾をやるわけですよ

大島優子ちゃんも大変長くなりますがヨロシク
では恒例の紹介&経歴をします
キャラクター
チームKのエースであり、AKB48中心メンバーの一人。
過去にすべてのシングル曲で選抜メンバーに選ばれている(じゃんけん選抜は除く)。
総選挙では1度の1位と、2度の2位を獲得。
キャッチフレーズは
「目で負かし 心で伝える 変幻自在のエンターテイナー」。
ちなみにデビュー時は、「キラリ☆ピュアな瞳のコリンこと、大島優子です」。
その後「変幻自在のビー玉アイランド」
「みんなの物は私の物、私の物は私の物。AKB48の小ジャイアン」など。
ニックネームは無し。
昔のキャッチフレーズにあるように「コリン」だったが、リスに似ているから「コリス」に変化。
一時期はジャイアン的な性格から「小ジャイアン」。
今現在は、「コリス」と呼ばれるのは恥ずかしいのでやめて欲しいらしく、
メンバーは大抵「優子」、後輩からは「大島さん」や「優子さん」と呼ばれる事が多い。
7歳から芸能界で活動しており、2011年現在で芸歴は15年目。
AKB48メンバーの中で最も芸歴が長い。
将来は女優を目指すほどの演技派。
AKBでもトップクラスのダンスの腕。
番組ではMCもこなし、グラビア活動も活発。
ユニット「Not yet」ではメンバーを引っ張り、バラエティではモノマネから変顔まで披露する。
すべての能力が平均して高いが、「欠点が無いことがアイドルとしては欠点」という
ファンの意見もある。
当の本人は、
「実は自分をアイドルだと思った事はない」という。
理由は、
「アイドルって皆さんに夢や元気を与える人だと思うんです。私は人を喜ばせるのは好きだけど、
根本の部分では、何でも自分のためにやりたいと思っているので」。
アイドルとしてのレベルは総じて高いが、ある意味、
一番メンバーの中でアイドルっぽくない存在でもある。
根っからの女優であり、
秋元には「女優ならアイドルを演じろ」と言われたことも。
今まで、どんな身体を張る仕事でも「NO」と言った事は無いが、
『週刊AKB』で激辛料理を食べて号泣してからは、まったく食べられなくなった。
「あれ本当にヤダ。なんかね、ムカツクの存在が。だからあれを食べてから、辛い物食べれない。大っ嫌いになっちゃった」。
幼少期
1988年10月17日、栃木県内の病院で大島家の長女として生まれた。
日本人の父親と、アメリカ人と日本人のハーフの母親を持つ
クオーター。
「優子」という名前の由来は、
「たしか、“優しい子”だった気がする(苦笑)」。
才加「でも何でもOKじゃない? “優”って“すぐれてる”っていう」。
「じゃあ、優れてる人間ってことで。いや忘れちゃった(笑)」。
才加「一番簡単そうなのに(笑)」。
ちなみに、名付け親は祖父。
…だとずっと思っていたら、実は父だった。
生後すぐに横浜へと引っ越し、そこで幼少期を送る。
幼稚園の頃から人前に出ることが好きで、
お遊戯会でも立候補する様な子。
昔から元気で、木登りが好きだった。
初恋も幼稚園の頃。あるAKBの握手会に
「同じ幼稚園でした」という男の子が来て、母親に確認したところ、実はそれが初恋の男の子だったとか。
「当時の写真を見て、確かに面影があるなって、
やっと思い出しました」。
ちなみにその子とは幼稚園の卒業式で別れてぶりの再開だった。
子役・ジュニアアイドル時代
1996年、7歳(小学1年生)の時、母親のすすめで劇団に所属し、
芸能活動を始める。
子役としてのテレビデビュー作は、同年のドラマ『ひよこたちの天使』
小3の時のドラマで、山中湖へ飛び込むシーンなどの撮影があった。
母親もいたが、スタッフから「お母さんはこの現場を見ないで下さい」と言われ離された。
後で聞いた話だと、保険金をかけられていた。
危険な撮影などもあったが、既に女優を目指すようになっていたため、別に辛いとは思わなかった。
低学年の頃は様々な仕事で引っ張りだこだったが、
高学年になると仕事が減少。
そこで、ある傾向に気がついた。
最後の2人まで絞るところまでは、オーディションでも残れる。
でも最後の最後で一人を決める時に落とされてしまう。
ある有名CMのヒロイン最終オーディションもそこで落とされ、思い切って理由を聞いてみた。
「そしたら、『雰囲気かな…』。あぁ、また雰囲気かと。同じ事をよく言われてきたから…」
子役時代はセリフの少ない再現VTRなどの仕事が多く、本人は「芽が出なかったので、辞めようと思った」。
そして別の仕事、ジュニアアイドルなどの活動を開始している。
小学校6年生の途中で、生地である栃木に引っ越す。
父が、伯父の料理店を引き継ぐことになったのが理由だった。
父は元々栃木の人間だったが、母親は馴染めなかった。
優子「伯父さんの病気があって、だからね」。
父「いろんな思いはあるけど、お父さん、後悔はしてない。人のために栃木に来たけど、自分が選んだ訳だから
。人のせいにはしない。お店を10年近くやってた事で、いろんな経験も出来たしね。いろんな人と出会えた」
引っ越してから半年後に、両親が離婚。
「ショックでしたよね。お母さんが出て行ってしばらくは、家にお母さんの物が無いと、なんか必死に探していました。
もう何も無いのは知ってたのに…。
お父さんにあたろうとは思わなかった。お父さんは別に悪くないと思ってた。でも、お母さんが悪いとも思わなかった。
ただ、栃木に引っ越してきたこと、その出来事自体が良くなかったんだって思いました。
大変そうだったなママ。
初めて来た場所だったし、お父さんは地元だから友達もいるけど、お母さんにはいないし。
だからママは可哀想でした。私にも頼って欲しいなって、ずっと思ってた」。
両親の中はどうだったのか。
「ケンカで別れた訳じゃないと思う。だってお母さんが今でも、『お父さんは素敵な人だ』って言ってるから」
とにかく、大島は父親側に引き取られ、以後は父子家庭に育つことになる。
当時は、引っ越したばかりだったため、相談できる様な友達もおらず、「母親は逃げた」と思っていた。
でもそういう風に思っている自分も嫌だった。
この年頃の女の子は難しく、はじめて生理がきたが、こうゆう時に本来相談するべき母親が大島にはおらず、
かといって父親に相談できるような事でもなかった。
でもどうする事も出来ないため、思い切って父に相談してみた。
それで、もっと親子関係がよくなるかもしれないと思ったからだった。
そうしたら父親もパニックになってしまい、結局はお婆ちゃんに教えてもらった。
でもその様な事がキッカケで、父親には何でも相談できるという親子関係を築くことができた。
優子「どういうこと?」。
父「例えば親が居なくなるにしても、死んじゃったなら、残ったみんなで支え合おうって言える。家事も3等分しようよとかなるけど、
離婚は大人たちの勝手でなった事だから。子供に責任なんてまったくない。だから子供に手助けさせようとは思わなかった。洗濯やってよねとか」。
優子「うん。一度も言われなかった」。
父「精神的な負担は絶対避けられないけど、生活だけはせめてそうしたいと思ったんだ。だから掃除だって、料理だって、
全部お父さんがやった。せめてそういうところで、『お母さんがいたらなぁ』って思わせないように、お父さん、そこだけは頑張ろうってさ」
中学に進学するも、それほど仕事が忙しかった訳でもなく、部活にはいくつか入ったが、すぐに飽きて辞めてしまった。
仲の良い友達がいたが、その子が不良の道へ。
初めはその子を不良グループから取り返そうとしていたが、自分も出入りしているうちに、自らも不良の世界へ。
刺激的な不良の世界に魅せられたというのもあるが、もう一つの原因が、やはり両親の離婚。
「なんで私ばっかりこんな目に遭うんだろう。別にお母さんを責めているんじゃなくて、なんでこんな運命なんだろうって」。
やり場のない気持ちの行き先を、夜の街へと求めてしまった。
「だけど、周りにも結構いたんですよ。片親の子って。それで、一番自分が不幸だと思っているのがバカらしくなった。
私には友達がいっぱい居たし、お父さんのお店のお客さんも優しいし。巡り会う人に、環境に、本当に恵まれていたんですよね。
なのに自分をドン底に叩き付けていることが、バカらしくなったんです」
で、夜遅くにレンタルビデオを返しに車で行ったら、コンビニの前で若者がたむろしてて、なんだコイツらって。その中に優子がいた(笑)」。
優子「スイマセン」。
父「このヤローってね、連れて帰った」。
優子「それで3日間、外出禁止みたいな」
中学3年生になり進路を考えだすが、やっぱりお芝居の仕事がしたいと思う様になる。
だがそれに反比例して仕事はほとんど無くなってしまう。
子役の需要は小学生。
それ以上の年齢の役はオーディションなどは開催されず、大手芸能プロダクションに所属しているタレントが配役される様になっている。
劇団系の事務所から、将来性を見込まれた子役が女優系の事務所へと引き抜かれて行くのもこの時期で、大島にもその手の話も来たが、
すべて断っていた。
「7歳から見てくれていた、マネージャーさんを信頼していたので…」。
2004年、高校に進学し、男子バレーボール部のマネージャーになる。
「けっこう世話好きなんですよ?」
高1の時に、小学生以来会っていなかった母親と4年ぶりに再会。
それまでは、たまにメールが来て、それに少しだけ返信をするだけの関係だった。
「ママから『ご飯行こう』ってメールが来ました。パパには言いにくかったけど、今なら言えると思って。
『ママとご飯に行ってきていい?』と聞いたんです。一瞬、ビックリしてたけど、すぐ優しい顔で『いいよ』って。
ああ、これはもう溶けたんだなって思いました」。
お母さんも楽になれたのかな?
「いや~なってないと思いますよ。少なくとも最近までは。ママ、悔やんでたから。私とお兄ちゃんに申し訳ないって、自分を責めてたから。
それで私言っちゃったんです。『ママはママの人生なんだから、好きに生きてよ』って。ママ、『強くなったね』って寂しそうに笑ってた。
ちょっと可哀想でしたけどね。でも今は、何かに悩んで相談すると、『もっと楽に生きたら? 優子の人生は優子のものよ』って言われます(笑)」
寿命を終えた子役が、次のステップへと進める者はほとんどいない。
それでも一度だけ光が射した瞬間があった。
フジテレビの『SDM発i』という番組のタカミープロジェクト「Doll's Vox」に参加。
これはTHE ALFEEの高見沢俊彦がプロデューサーとなり、
新時代のアイドルユニット結成を目指して展開中のこのプロジェクトで、コンセプトは「業界初、50人組のアイドルオーケストラ」。
その後プロジェクトはCSの『CS発!美少女箱』に移動し、メンバー25人で2005年にCDを1枚リリースしたが、それを最後にグループは自然消滅。
所属メンバーは、個人個人の活動へと戻っていった。
「これは期待のグループだ」と本人は思っていただけに、活動終了を聞かされ相当落ち込み、所属事務所も辞めた。
ちなみにこのグループには、アイドリング!!!9号の横山ルリカも所属しており、のちにユニット「AKBアイドリング!!!」として共演している。
2005年、当時は高校2年生で、そろそろ進路を決めなければならない時期だった。
栃木から東京まで通うのも金銭的な負担がかかるし、
小学生の時からやっていた手話を生かし、手話通訳士(フォトブックだと社会福祉士)になろうかとも考えた。
それに反対したのが、契約を終了するはずだった事務所のマネージャー。
「『もったいないよ? まだ諦めなくてもいいんじゃない』と言ってくれて。でも、もういいんですって。本当は諦めたくなかった…。
そうしたら、『秋葉原でこんなのやってるよ』って。
これで最後。そう思ってAKBを受けたんです
AKB48として
2006年
2月26日、AKB48の追加メンバーオーディションの最終審査に合格。
「審査員の一人が手元の紙に○ってしたのが見えたんです。これは受かったなと(笑)」。
しかしオーディション終了後、秋元康と夏まゆみが2期生の代表に選んだのは、秋元才加と宮澤佐江の2人で、大島ではなかった。
戸賀崎も当時の大島について
「それが…まったくオーディションの時の優子はまったく印象にないんです。秋元、宮澤の印象が強すぎたせいですかね」と語っている。
3日後ぐらいからレッスンが始まり、高校が終わった後に東京まで来てレッスンし、終わった後に栃木に帰るということを繰り返していた。
送り迎えは父がしてくれて、お弁当なども作ってくれていた。
レッスン中からメンバー同士の戦いは始まっており、とにかくダンスを早く覚えた者が勝ちみたいな状況だった。
2人1組でペアのレッスンがあったが、大島はダンスの上手かった梅田彩佳と組み、なんとか盗んでやろうと考えていた。
それほど必死だった。
「スカート、ひらり」というユニット曲があるが、その5人に選ばれるのは、運営に認められるという事だったので、どうしても自分も入りたいと思った。
そして自分も選ばれた時には、親に報告したほどだった。
ちなみに、梅田とは一時期一緒に住んでいた事もあるらしいが、いつからか、彼女とは疎遠になってしまった。
「駅まで一緒に歩いて行ったりとか。だけどいつの間にか、梅ちゃんとは別々に帰るようになった。
なんでだろう…と思ったけれど、まだ深い話が出来る仲じゃなかったら、そのままになって…」
もう一つ試練があった。
「当時のチームKを引っ張って下さっていたマネージャーさんが居たんですが、なんか私、その人に初めから嫌われてて。
いきなり、『お前か、芸能界でやってたってヤツは? どうせ甘く見てんだろ?』。
そんなつもりないですと言っても、『わかってんだよ、オレは』、フンって睨まれて。
理由は分かりませんでしたけど、しばらくは徹底して嫌われてましたね」
(それが経験者である優子へのエールだった事を知るのはもっと後の話。「恐れ入ったよ」と彼なりの言葉で努力をねぎらうのだった)。
チームKと言えば結束力の高さや、仲間意識の強さが有名だが、最初はみんなほとんど口をきかなかった。
ライバル意識が強く、いろいろな事が積み重なり、みんなフラストレーションが溜まっていた。
そしてデビューの前日には、秋元才加と大堀恵の大喧嘩も起こった。
4月1日、2期生で結成されたチームKのメンバーとして劇場公演デビュー。
初日こそ満員となったが、じょじょに客数は減っていった。
デビューのセットリストはチームAが前日まで使用していた物だったため、ファンも複雑な思いがあり素直には受け入れられなかった。
むしろ酷評されたとも言っていいほどだった。
「気付いたんです。初日のお客さんはチームAのファンだったんだって。ああ、だから公演中にヤジが飛んでいたのかと。逆に納得したんですよ」。
当時はヤジが禁止されてはいなかった。むしろ、メンバーを鍛えるためという名目で、運営側から頼まれていたというファンもいたという。
「ただ…お見送りさせて頂く時に、『今日もダメだったね』とか、『もう来ない』なんて言われるのは、さすがにグッサリきましたね…。
私は高校3年生でしたから何とか気持ちを強く持つことが出来ましたけど、幼いメンバー達は、みんな楽屋で泣いていました」
4月8日、「たかみな降臨事件」。チームKの公演中に、この日誕生日だった高橋みなみがサプライズでステージに登場するとスタッフから告げられた。実際に高橋が登場すると、それまでとは段違いの盛り上がりとなり、チームKのメンバーは愕然とさせられる事になった。
高橋「あれは申し訳なかった」。
優「申し訳ないと思ってたんだ。ふ~ん」。
高「思ってる。スタッフさんから『誕生日だから出よう』って言われて、
『いや出れないですよ。他のチームですよ?』って。
これはブーイング来るなと思ったら、お客さんが優しくて助かっていう…」。
優「たかみなコールで、全部持って行きやがった(笑)」。
高「言ったも~ん、スタッフさんに。『私これでチームKに嫌われましたよ』って。そしたら、『それでいいんだ』みたいな。全然良くないしと思ってショック」。優「アハハハ。大人達の思惑通り(笑)。あれでみんな負けたくないと思って、一気に団結したから。『高橋みなみ、あいつには負けねぇ』って(笑)」。
高「やっぱ嫌われてたんだ~!」
だがそれが、“チーム”というものを意識する様になったキッカケにもなった。
バラバラだったチームKのメンバーは、どうすれば良いかを毎日話し合いをするようになった。
それから互いに打ち解け合うようになった。
自分たちは、可愛いチームでも、お淑やかなチームでもない。
チームKが目指したのは、ダンスとパフォーマンス。
そのために個性を消し、個々のダンスの癖も無くし、一糸乱れぬ団結を持つ体育会系のチームへと進んでいった。
これまで大島は、ダンスの優等生ではあったが、誰に教える様なことはしてこなかった。
だが、それからは気づいた点があれば、相手が望むと、望まざるとに関わらず、注意していった。
「手の角度から、しゃがみの高さまで、本当に細かいところまでこだわったんです。すると、ステージの空気感もどんどん良くなっていく。
そんな成果が毎日感じられて、すごく充実していました」。
チームKが団結していく度、じょじょに「チームKのファン」も増えていった。
5月25日、板野友美のアンダーとして、大島がチームAの公演に出演。
KのメンバーがAの公演に出演したのは初だった。
高「今度は優子がAに代打で出てくれた時、Kのファンが押しかけて、すごい優子コール。あれで凹んだ(笑)」。
優「チームで競ってたもんね」。
高「ライバル。むしろ敵(笑)」
6月頃、
岩崎夏海「初めのうちは、それほど僕の記憶に優子は残っていないんです。
でもデビューして2ヶ月くらいだと思うんですけど、僕の中で彼女がメンター(指導者)となっていく、重要な出来事があったんです。
いつもの様に劇場でマネージャーと雑談していたんですよね。
で、あの頃、ちょうどファンの間で『推し』という言葉が流行り出していて、恥ずかしい話なんですが、スタッフである僕らもそういう言葉を使いたくてウズウズしていたんです。
それで冗談半分に言った訳です。
『誰が推しなの?』『○○が良い味出してますね』『じゃあ○○推しだ』という感じに。
すると、たまたま横で耳にしていた優子が、僕らの所にツカツカとやって来て、こう言ったんです。
『岩崎さん、スタッフの人が推しとか言っちゃいけないと思います』って。
ファンの方が『推し』とか『干し』という言葉を使うのは良いけど、メンバーからすれば、スタッフには使わないで欲しい。
みんな同じ気持ちで頑張っているのだから、平等に接して欲しいんです。
みたいな事を、僕の目を見て、冷静に言ったんです。驚きましたよ。大人に見えたであろう僕らに、そんな素晴らしい意見を言う訳ですから。
そして反省したんです。心のどこかで彼女たちをナメていた事を…。
それからは、どのメンバーに対しても、プロフェッショナルな仕事をする仲間として接するようにした訳です」
7月、初のKオリジナル公演「青春ガールズ」が開始。
Aの真似をしていたチームに、自分たちの曲やフリが与えられた。
メンバーみんなで一喜一憂し、チームKの結束力はさらに強くなっていった。
しかし、大島だけは違った。
大島はずっと一人でやってきていたし、アイドルグループのメンバー同士は仲が悪いという先入観もあった。
だから、「みんなで仲良くしようと思う」と言っていても、「どこかで足を引っ張られるんじゃないか」という不安があった。
今だから言えるが、当時はぶっちゃけ猫を被っており、優等生キャラを演じていた。
心の中では、まだメンバーの事は誰も信用しておらず、
ある日の話し合いで「私、みんなの事を信用していないから…」とボソッと漏らしてしまった事もある。
全員シーンとなり、「えっ? 仲間…じゃないの?」みたいな空気になった。
大島が本当にメンバーに心を許したのは、デビューから1年半以上たってからだった。
当時、スタッフに言われてショックだった事に、
「芸能活動が長いから、もう伸びないだろう。だから他の子に注目していこう」と言われたこと。
AKBはコンセプトの1つに、成長の過程を見せるというのがあるが、大島はすでに“伸びしろ”はないと思われていた事。
それが悔しかった。
チームKではセンターを任されてはいたが、経験があるからとりあえず立たせておこうという感じで、スタッフから支持されていた訳ではなかった。
当時、AKBの振付を担当していたのは夏まゆみで、メンバー全員にコメントを書いた本を配ったが、
大島の本に書かれていたのは「いつか本物になってください」だった。
最初は意味が分からなかったが、でもスタッフの話などを聞いていくうちに、自分の実力が認められてセンターを任されたのではなく、
とりあえず経験者だからセンターに立たされていただけだと知った。
おそらく夏が言いたかったのは「(今は偽りのセンターだけど)いつか本物になってください」という意味だと思った。立たされるのではなく、自分で立つ。
それが本物になる事だと思った。
12月、3rd Stage「脳内パラダイス」が開始。
このセットリストには、大島のソロ曲「泣きながら微笑んで」がある。
秋元からは「お前にプレゼントする曲なんだよ」と言われたが、そのありがたみよりも、プレッシャーの方が強かった。
元々、女優志望のため、歌はそんなに自信はなかった。
実際この曲になると、お客さんの中には眠ってしまう人もいた。
秋元に相談したら、「お前は女優になりたいんだろ? だったら女優としてアイドルを演じてるつもりでやれ」と言われた。
それで気が楽になり、公演中に「寝ている人がいなくなるように、ちゃんと仕上げていきたいと思います」と宣言した。
また、歌の上手い増田有華が舞台袖で出番前に大島の手を握りながら歌ってくれて、毎回音程を確認してから出るようにした。
だんだん寝る人は少なくなり、最後にはいなくなった。

第一部完
第二部に続く・・・(笑)