年始め,と,ボケ始め

  今年正月午後4時頃,マグニチュード7.6,最大震度7の能登半島沖大地震が能登半島を中心とした日本海岸地域を襲いました。最初の報道でまず心配したのは,志賀原発が大丈夫かということでした。(志賀原発が高い位置にあることから)津波は心配しませんでした。報道によると,震度7にも拘わらず,志賀原子力発電所は無事だったという。これは,福島原発事故に被災した福島県人が最初に心配したことです。
 地震被害の方は翌朝からの状況調査次第と考えましたが,震度5強以上の場合,道路,道路斜面・盛土被災,液状化,建物崩壊,津波被害は免れないのが仕事上の経験から分かっているので,広い各地で自然災害があるだろうなとは予想が付きました。3日迄の被災状況は心配通りでした。火災も怖いですね。死傷者数も大幅に増えて・・・合掌。
 これ以上被害が出ないことを願っています。

さて,本題です。
 昨年のある事件が,今次の地震にもかかわらず頭の隅に未だ残っています。残りの人生,後がない私には,馬鹿をしてしまう自分を楽しむ,もう一人の自分がいるのです。ボケが始まったのでしょうか? 余裕というのか,哀しいというのか,可笑しいというか,訳が分からないです。

 昨年,突然,長年行方不明だった叔母から葉書が来ました。静脈瘤破裂の大手術をし,いつ死ぬかもしれない。心細いから会いに来てくれというのです。勿論葉書には住所は書いてあったが,電話番号はありませんでした。取り急ぎ見舞いの手土産を買ってその住所を訪ねました。ところがその住所は,他人の住所だったのです。
 それ以上連絡の取りようがないまま,何ケ月も経ちました。

叔母にはもう一人8歳上の姉がいて,私が訪ねてこない!と非難がましい電話が行ったという。直接私に電話連絡すればいいのに!!と思いました。上の叔母も妹に電話の返事のしようがない状態でした。

 ところが暫くたって,叔母の友人と称する老婆が私の家に訪ねてきました。叔母に頼まれて,私の父が結婚祝いにあげた油絵を返しにきました。叔母は家が狭く,大きな絵は入らないから,と頼まれたそう。自分が来ればいいものを,ワザワザ友人に持ってこさせたのです。友人だって迷惑だったでしょう。

 

         

           長屋はイメージ写真で,本文とは関係ありません。

 私はこれ幸いと叔母の現住所を聴き出し,そこを訪ねました。
目当ての長屋には叔父さん似の老人が日向ぼっこをしていました。私は挨拶をして叔父さんですか?,と聴くと首を縦に振るのです。そして,叔母は買い物に出てるので,話が長くなるからと玄関を開け,中に入れという。お茶をのみながら手土産を渡し,叔父さんお久しぶりです等とご機嫌を伺って幾ばくかの世間話をしました。相手の話も一般的な話ばかりでした。長い間会ってないから仕方がないなぁ~などと思って対応していると,その老人の奥さん(勿論老婆)が買い物から帰ってきたので,挨拶をしました。あれっ叔母と違う!と思ったけど,重病の入院生活で細面の顔が幾分白くなって瘠せ,少し人相が変わったのかもと思いました。叔母さん病気で少し顔がかわりましたねぇ~というと,彼女は叔母ではないというのです。
 ひっくり返るほど驚きました。

じゃあこの人は何なのぉ~!! 

手土産を返してもらい,早々にその家を退散しました。

 帰り際,たまたま同じ長屋の別棟から出てきた叔母に遭遇しました。腰が曲り,目深に帽子をかぶり,マスクをして,最初は誰か分かりませんでした。私は駆け寄って叔母さんの体調を見舞いました。聞くとこれから買い物に出かける所だという。

家に戻るから寄って行けといわれたけど,もうそんな気は起きませんでした。
一部始終を話して手土産を渡し,帰ってきました。

私も私ですが,隣の偽”叔父さん”も変な人です。
後で近所の噂を聞くと,半ぼけ老人なのだそうです。
寂しかったので,私が手土産持参で親しく話しかけたのが嬉しかったのでしょうか。
昨年はそういう馬鹿なことがあったのです。
私もボケが始まったのでしょうか?

早速,私の弟に叔母の近況を報告しましたら,大笑いされました。
                                                                  おわり