認めてもらう為に策を弄する

テーマ:

お母さんに受け容れてもらいたい

ありのままの自分を

 

お母さんにわかってもらいたい

頑張っている自分を

 

お母さんに認めてもらいたい

自分の努力を

 

これって、おそらくどんな人でも普通にあった気持ちだと思います。

 

かなり前のことですが、高倉健さんの

『あなたに褒められたくて』というエッセイが出版されました。

この“あなた”というのは、健さんのお母様のことだそうです。

その広告を見て、そうだよなー、誰でもそうなんだろうな、と思ったことを憶えています。

 

幼い子どもの頃は、みんな

「お母さん、見て見て、ほら、できるようになったよー」とか

「ママー、これ私が作ったの、見てー」というように

自分の能力を開発していったのだと思います。

 

そして

「あー、ほんとだ、すごいねー」とか

「まぁ、よく出来たのねー」とか

或いは、ただ心からの笑顔を返してもらって

お母さんが一緒に喜んでくれると

 

子どもは

  • 自らの存在を肯定すること
  • 満足すること
  • 頑張ることの嬉しさ

を知り覚え、発達・上達していくのだと思うのです。

 

被虐者には、この経験がありません。

お母さんに「子の心を自分のことのように感じる能力」が欠けているからです。

 

暴力で痛めつけなかったとしても

暴言で罵倒しなかったとしても

食べ物、着る物を与えていたとしても

子どもに共感し、自分のことのように感じる能力が母親になければ

そこに日々生じているのものは「虐待」なのだ、ということを

このブログに繰り返し書いてきました。

 

子どもが成長し、その翼を広げていこうとするとき

母親がそれに無関心であったり

むしろ不機嫌になって子を凹ませる態度で応えたとしたら

 

子は

  • 自らの存在を否定しながら
  • 満足という状態を知りえないまま
  • 喜びや愉しさの伴わない頑張りを続ける

ことになります。

 

その「義務的な頑張り行動」の根っこにあるのは

わかってもらいたい!!

という強い強い欲求です。

 

認めてもらいたい!

という氣持ちです。

 

いわゆる「承認欲求」と言われるこの根源的な欲求は

先ほども書きましたが、誰にでもあるものです。

 

ただ、被虐サバイバー=異邦人にとって

人から認めてもらいたい、という氣持ちは

「飢え」や「渇き」にも似た「飢餓感」であり

 

溺れている人が「空気を!」と感じる時にも匹敵するほど切迫したものです。

 

 

 

数年前までの私にとって

わかってもらいたい、認めてもらいたい、は

そのまま「生きていくこと」とほぼ同義語でした。

 

「生きる」とは

わかってもらう為の行動の連続を意味していましたし

日々、毎刻、「認めてもらう為にはどうればいいのか?」を考えることに

殆どすべての労力と知恵を注ぎ込んできたように思います。

 

そうです、私はわかってもらう為、認めてもらう為に

【策を弄して】生きてきたのです。

 

【策を弄する】を辞書で引きますと

必要以上にはかりごとを用いる」とあります。(下線筆者)

 

更に【はかりごと】を辞書で引くと

「物事がうまくゆくように、前もって考えた手段・方法・計画」のことだそうです。

 

まさに必要のないほどにあれやこれやと前もって

手段・方法・計画を考え、奔走してきたなぁという自覚があります。

 

今振り返れば、策を弄さず生きることは、過去の私には無理なことでした。

ありのままの自分で、自然に生きることへの恐怖は

「死」そのものより遥かに強烈で

とても実行できなかったでしょうし

 

そもそも、ありのままの自分や

自然に生きるというのがどういうことなのかを

知らなかったのでした。

 

だから仕方のないことであったとは思っていますが

日々、自分の持てるすべてを尽くして策を弄して生きてきたお陰で

もちろんよかったこと、得られたものもあったには違いありませんが

同時に、不毛ですごく困ったことになっていったんだなぁ、と

今は生き方全体の構図を見渡すことができます。

 

どういうことかと言うと

そもそもの動機が見えなくなるのです。

或いは、目標を達成しても、それに氣づかないのです。

 

このことについては、実は3年前にも一度記事にしています。

⇒『集中度の高さ

 

あまりに策を弄することに集中していると

視野が狭くなる、というか、自分が「やろう」と意図すること以外は

目に入らなくなるのです。

 

すべては

受け容れてもらいたくて

認めてもらいたくて

やり始めたことなのに

 

受け容れられても

認められても

そんなことはもう一切目に入らない

アウトオブ眼中

ひたすら、認められるための行動をとり続けてしまう。

 

これはゴールのないデスレースです。

 

そして残るのは、「報われない感」です。

 

本当はとっくに報われている

もうゴールしていたのに、そこは見ない、見えない

ひたすら突っ走り続ける

 

だから、私本人だけが「報われない」と嘆いていたようです。

 

まわりから見ると

  • 異様な欲張り
  • 自意識過剰
  • 独りよがり
  • 自分勝手
  • 自己中心的
  • 目立ちたがり
  • 自己顕示欲の塊
  • 虚栄心が強い
  • 頑固
  • 猜疑心が強い

というふうに見えていたと思います。

 

実際、そうとしか思えない行動をとっていたのですから

無理からぬことです。

 

 

 

お恥ずかしい話しですが

心が回復した今でも

この「異邦人性」は少なからず私の中に残っています。

 

生き方のクセとでも言いましょうか。

はたまた、いつまでも満たされることがないほどに

「認めてもらいたい」の飢餓感が骨身に沁みこんでしまっているのでしょうか。

 

頭ではわかっている

もう既に充分に受け容れられているし

認められているんです。

 

日々たくさんのクライアントさんにお話を聴かせてもらっており

このブログも毎日平均170位、多い日は900超のアクセスがあります。
(トップブロガーさんのアクセス数に比べたら微々たるものですが…)

 

私の方からは存じ上げない方から、「ブログを読んでいます」

「とてもよくわかり、役に立ちました」と

支援者のためのセミナーや事例検討会でお声をかけて戴くことも

しばしばあります。

 

師匠の高橋先生に「あなたは本当に随分と上達してきたね」とSVの度に褒めて戴きますし

新宿ボイスクリニック渡嘉敷先生から患者様を私のカウンセリングへ紹介して戴いていてもいます。

 

何年も治療に通われて改善が見られなかった痙攣性発声障害の方が、みすぎのカウンセリングを受け始めて3か月でよくなったと言って再度渡嘉敷先生にご報告にいらしたとのことで

「みすぎさん、スゴイですね!何をしているんですか?(笑) また話を聴かせてください」なんて言ってもらって、臨床心理士の新明先生とも引き合わせて下さり、先月お会いしたばかりなのです。

 

 

それでも、私はまだ「認めてもらう為に、何をしようか?」と

無意識にですが、いつもそんなふうに考えを巡らせているんようなんですね。

 

そして、また策を弄してしまっては

その直後に

「あ!また要らないことをしてしまった」と氣づくのです。

 

正直、その度に凹みます。

┐(´д`)┌ヤレヤレ またやらかしてしまったわい、と思います。

 

そうして高橋先生のところにSVに行っては

(本来スーパービジョンはカウンセラーとしての指導を受ける場ですが)

「自分の認めてもらいたい欲、受け容れてもらいたい欲の強さに

辟易としてます」とこれまで幾度となく告白、懺悔をしてきました。

 

「それはあなたが長年欲しくて得られなかったものでしょう」

「ふむふむ、今はそれがよく見えてるからいいね」

と相手をしてくださっていた先生ですが・・・・

 

ある日、私にアドバイスをくださったのです。

それを今日は、このブログの読者の皆さんと共有したいと思います。

 

高橋先生が何かアドバイスを下さる機会は

クライアントとしてカウンセリングを受けていた時代から考えてみても

もの凄ーーーーく稀少な体験ですので

大変に有り難く、今の私の宝物です。

その宝物のお裾分けです(*^^*)

 

受け容れてもらいたい、認めてもらいたい、と感じたら

その氣持ちを大切に、ただ抱きしめること

その為に起こす行動は控えること(=何もしないこと)

その為に“行動すること”がメインになったら

既に受け容れられていること、認められていることが見えなくなるからね

 

本当に、この通りだと思います。

 

それ以来、事ある毎に私は心の中で

「私は、認めてもらいたい。

私は、受け容れてもらいたい」と

念仏のように唱えては

“何もせずただそこにじっと居るだけ”ということをしています。

 

関連記事⇒『ただそこにいる人になる

 

 

 

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