最近更新した一連の記事

 

⇒『書かないではいられなくなったこと

⇒『虐待の根本にあるもの

⇒『「私は本当はどうしたいのか?」を突詰めるのは死の恐怖』は

 

東京・目黒の虐待死女児、生前に悲痛な手紙

の事件に関連して書いています。

 

これらの記事の中で「虐待サバイバー」とか「被虐サバイバー」とか呼んだのは、【異邦人】のことです。

 

私がこのブログで使う【異邦人】の定義は以下の関連記事をお読み戴きたいと思います。

⇒『今までためらってきた【異邦人】について書き始めます

⇒『【異邦人】という名付け方の妙

⇒『異邦人の目に映るこの世界は

 

【異邦人】という概念が社会一般にまだ浸透していないので、今回の一連の記事では、よりわかりやすく「サバイバー」という言葉を使いました。

 

ごく普通の感受性と能力を持った子どもが、ある種の親の下で育ち成人したとき、その人は特定的特徴を備えた【異邦人】となります。

 

例えば、虐待を受けている子どもが、普通の子どもと違う行動様式を取れば、それは「反応性愛着障害」や「脱抑制型対人交流障害」といった精神障害として診断されます。

 

「反応性愛着障害」も「脱抑制型対人交流障害」も

ICD10やDSM5(国際的な疾病分類)に載っている精神障害ですが、両方とも「小児期及び青年期に発症する社会的機能障害」とされております。

このような精神障害を持ちながらも見過ごされ氣づかれず、成人した人々についてはどこにも言及されていないのが現状です。

 

(そのうちの一人が、何を隠そう私です。小児期の私はものの見事に「反応性愛着障害」の症状を示していました。)

 

小児期、青年期に上記のような精神障害が出ていても、その人々は独自の精神発達を遂げ成人期に至り、見た目にはごく普通の大人として行動し、振舞うことができるようになります。

 

ところが、内面には非常に厳しく“遊びのない”自己規範を携えているので、社会生活を送る上で、また普通の人々と交流する上で、または自分が親となって子どもと相対する上で、大きな困難と恐怖を味わうことになります。

 

その自己規範とは、結愛ちゃんが残したノートにある通りです。

結愛ちゃんの手紙の読み解きは『書かないではいられなくなったこと』に記しました。

  • 誰にも頼らず、甘えず、独りで生きると心に誓って
  • 失敗・間違い・誤りを犯すことを決して自分に許さず
  • ありのまま、今のままの自分ではいけないという前提で暮らし
  • 本当に自分が感じている欲求を無いものとして黙殺する

ということになります。

 

しかし、いわゆる「普通の人」(=母親からごく自然な愛着を受けて育った人)は、

  • 困った時は人に助けを求めたり、頼ったりすることがあってもいい
  • 失敗は厭なものだけれど、時には失敗することもあり、ミスも起こるし、誤ることだって人間にはあり得る
  • 社会生活の中ではいつもという訳にもいかないが、ありのままの自分を開放できることは心地よいことであり、今ここにある自分を自然に受け容れるとホッとする
  • 欲しいものを得、食べたいものを美味しく食べ、心地の良い寝具でぐっすり眠り、便利で快適な生活を送ることは気持ちの良いことだ
ということを、ごく普通に、ごく自然に知っています。
 
先日、ある方に
「うまくいかなかったとしても、まぁ、死ぬ訳じゃないからね(*´▽`*)」とアドバイスを戴きました。
その方は勇気づけてくれたのです。
失敗を恐れず、ビビらずに思い切って自分を出し切れば、それがいいんだよ、という意味ですね。
 
今では、普通の人のようにこの言葉を受け取り、感謝が湧きますが、それと同時に、私の中の過去の【異邦人性】は
「いや、死ぬから。失敗したら、死ぬんだから。失敗はイコール死ぬことだから!」
と叫びたくなる気持ちになっていただろうな、と私本体はちょっと距離をおいて眺めていました。
 
失敗したら、それは死ぬこと
欲しいものを欲しいと感じることは、死に匹敵する程罪深いこと
心地よさを求めることは、死の恐怖を感じること
人を信じ、頼り、助けを求めることは、命取りになる
 
こう無意識に感じ、それを信じていた過去の私と、ごく普通の人との間のコミュニケーションには、どこかすれ違ってしまう部分があって、その言葉の発せられた意図とは真逆の作用を被ってしまうということが度々ありました。
 
それは、その言葉を掛けてくれた人が悪い訳ではもちろんなく、かと言って、恐怖や怒りや不安や自己否定というあり得ない方向へと感情が激動した私が悪かったのでもない、と今は思っています。
 
ただ、「この人の感じている恐怖は、並大抵なものではない」とわかっている人に話を聴いてもらったとき
私の恐怖と不安を実物大でわかってもらえたとき
私の過緊張や苦しさや焦りを深く理解して、そのまま受け容れてもらえたとき
 
私の心はいまだかつて経験したことがないほど安らぎ、力みと緊張はほどけていきました。
 
そう、文字通り「産まれてこのかた経験がなかった」のです。
なぜなら、本来、母親こそが子の恐怖や不安を我がことのように想い、案じ、大丈夫だよ、味方だよ、というメッセージを日々の生活の中で発するものだからです。
そのメッセージを受け取って、子は自然に発達していきます。
時には失敗し、痛い思いをして意気消沈し
時には成功し、鼻高々になり大得意になり
そのいずれのときにも、母親は子に寄り添い、共に悲しみ悔しがり、共に喜び笑い合うのが、正常な母子関係だからです。
 
私には、その経験はありませんでした。
 
50歳を目前にして、まさかそんな気持ちを味わえるとは、夢にも思っていませんでした。
いえ、そういう「わかってもらえて安心する」という状態があることを
私は知らなかったのです。
まさに、私にとっては奇跡のような体験でした。
 
このブログを以前からお読みくださっている方はもうお分かりかと思いますが、この「安心の境地」を私に教えてくださったのは高橋和巳先生です。
 
教えてくださったとは言っても、高橋先生ご自身から私へ、特別何かを言葉で教えてくださったことも、アドバイスやレクチャーがあった訳でもないのです。
 
ただ、私自身さえ知らない私の真実を深く理解した上で
黙って私の喋ることをありのまま受け容れて聴いてくださった“だけ”のように感じられました。
 
それなのに、私はとても大きなことを学びました。
重要なことを知りました。
心の温かさを受け取りました。
それまではあるということさえ知らずに生きてきたものを、はっきりと見ることができるようになりました。
 
不思議なことのように感じられますが、これが本当のカウンセリングというものなんだと思います。
 
しかし、心理療法としてのカウンセリングの奥義はこれに留まりません。
まだ先があるのです。
それは、また次回の更新で・・・・。
 
 

 

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